限界です
「ふっ!…げほっ、かはっ!けほけほっ!!」
少し目を閉じていただけのつもりが、眠ってしまっていたらしく、危うくバスタブで溺死するところだった。
出来ればもう少し死に方は選びたい。
恐らくそんなに長くはなかったはずのうたた寝の中で、此方へ来る直前の夢を見ていた。
いやに鮮明だったので夢というより回想のようなものか。
今思えばミュシャは、術を閉じ切る前に此方に向かって再度、手を伸ばしていた気がする。
一緒に巻き込まれてはいないだろうか?
飲んでしまった水で激しく咳き込みながら、夢の断片を追いかける。
「大丈夫?」
「けほっ…すみませっ、大っ丈夫で…っ、んー?」
素肌の背中を優しく摩る少しひんやりとした手のひらの感触と、割と最近聞いた気がする声に夢の名残りが一気に散っていく。
ついでに咳も止まる。
びっくりして止まるのはしゃっくりだけじゃ無いことを明日、アデルとリュカに教えてあげようと思う。
「…なんでここにいるんですか?」
「リタが苦しそうだったから?」
凄絶に綺麗な真顔で、可愛げにこてんと小首を傾げられても、今はちっとも可愛くない。
お湯が乳白色でよかった。
咳き込んで前屈みになってて良かった。
隠したいところが奇跡的に隠れている状況と、ちょっと怖い返答に苦笑する。
「えーっと、そうじゃなくて。どうやってここに入って来たかっていうことと、追加で、どうして苦しそうだと思ったのかを聞いてるんですが…取り敢えず、もう大丈夫なので部屋で待っててくれますか?」
「ここでいいよ」
「私が困ります」
これでは話が出来ないと、バスルームからの退室を促したが、真顔でここにいると返されるとは思っていなかった。
乙女の恥じらいに、疎いのだろうか。
(まぁ…食べる時には服は邪魔か…)
おやつの際に見慣れているのだろうと納得し、手早く着替えてから、渋々出て行った白い魔者の後を追いかけた。
人前に寝衣で出て行くのも失礼だが、今は仕方ないだろう。
「…転移魔法という、便利というか…不埒な魔法がこの世界にはあるんですね。扉って鍵の意味あります?」
彼がバスルームに現れたのは、魔法によるものだそうだ。
使用に関する縛りのある魔法だが、緊急らしかったので魔法規定を少し弄ってきたのだと、あまり意味の分からない説明をされた。
リタの認識では、そもそも魔法規定自体が魔法の根本のようなものだ。
そんなもの弄れるのかと思ったが、ここは異世界らしいからよくわからない。
追加の質問には、今はまだ秘密だと艶やかに冷たく笑まれただけだった。
何それ、怖い。
「また危ないことがあったら心配だし…」
「後は寝るだけなので、なんの危険もありません。自分のお部屋に戻ってくださいね」
深追いする気力もないので早々に会話を切り上げ、居座ろうとする魔者をきちんと扉から追い出した。
また無駄に体力を使ってしまった。
そもそも、瘴穴を閉じるのにはかなりの魔力と体力を消費するのだ。
加えて今日は、想定外のことだらけ。
考えないといけないことは沢山あるが、もう瞼が重力に逆らえない。
灯りを落とし、髪も乾かないままベットに入ると、バスルームでのうたた寝とは違い、夢も見ないほど深い眠りがリタを待っていた。
リタの髪色を思わせる、春の儚げな月明かりが滲む室内に、空間の裂け目から音も無く人影がベットサイドに降り立つ。
「…可愛い」
リタが寝入るのを待って、彼女の部屋に再び転移で入ると、彼女の甘くて清涼な香りが微かに漂っていた。
入浴直後は入浴剤の香りが混じって邪魔だったが、今は濃密な茉莉花に僅かなバニラが、誘う様に香るのみだ。
白い魔者は、満足気に目を細める。
起きている時より、少しだけ幼くなる穏やかな寝顔に、そっと指先を伸ばしたが、触れても身動ぎひとつしない様子に僅かに眉根を寄せる。
よほど疲れていたのか、髪も乾かさずに眠ってしまったようだ。
月明かりを受けて淡く煌めく繊細な髪が痛んでは勿体無いと、水気を払ってやった。
「可哀想…」
言葉とは裏腹に、口元にはまた冷淡な笑みが浮かぶ。
憐れむ気持ちは嘘ではないが、それよりもこの世界に落ちて来てくれた幸福感の方が勝っていた。
遠い昔、伴侶を得る喜びに勝るものはないと、陶然とした声で宣ったのは誰だったろうか。
その時は、得たばかりの者がいう戯言だろうと聞き流していたが、あながちそうでもないらしい。
ただ側にいるだけでこんなにも満たされる。
足りないものがあったのだと自覚させられる。
彼女を手に入れたならばどれほどの至福が得られるのか。
確かにそれ以上の喜びは無いかも知れないと思える程には、リタが欲しい。
しかし、彼女はふわりとした、たおやかな雰囲気に反して、内面は少々複雑そうだ。
これまで、他者に乞われるばかりだった白い魔者にとっては、媚びてこないリタの反応が新鮮だった。
軽く触れてみても嫌がりはしないが、何処かそれ以上は踏み込ませてくれないであろう、はっきりとした一線を感じる。
徐々に手を掛けて、甘やかに籠絡するのも面白そうだと、つい笑みが深くなった。
(それに…多分、死に触れている)
抱き留めたあの時、彼女からは明確に深淵の気配した。
どんな心の澱を抱えているのかは知らないが、落ちる直前に死に手を伸ばしたのだろう。
身体と精神の癒着が酷く不安定だった。
どんなにリタが死を望んでいようと、彼女には自分と共に悠久を生きてもらう。
その為には彼女を少しずつ作り変えなければならないが、今の不安定な状態では難しい。
だから、魅了に見せかけて彼女の精神に楔を打ってきた。
直ぐに馴染んだ様なので、簡単に揺らぐ事はない。
暫くすれば、元の通り、綺麗に定着するだろう。
後は、少しずつ手を加えていけば良い。
(どのぐらい死に近いのかな…)
先程のバスルームでは、どうやら事故だった様だ。
でも、異変に気づけるよう警戒して、楔に自らの欠片を使っていて良かった。
死は自らそれを望む者に寛容だ。
優しく囁き、執拗に追いかけ、巧みに誘う。
死に魅入られた者にとって、それはやがて抗えない渇望となり、自らその深淵に身を浸す。
永遠の夜が訪れるまで、何度も、繰り返し。
彼女が死を望んだ理由は然程興味は無いが、意識を別に向ける必要があるだろう。
彼女が何に興味を持ち、何が好きで嫌いか、何に安らぎを求め、何を恐れるのか。
まずはリタを知らなければならない。
滑らかな頬を指の背で撫でながら、ヴァシルクの王弟と交わされたやり取りを思い返す。
「は?伴侶?この娘が?白の?」
「そうだよ。香りがね、するんだ。伴侶はそうやって見つけるのだろう?」
「…まじじゃん。え?待って、理解が追いつかないんですけど。しかも、白の伴侶が、唯人?」
リュカが困惑するのも当然だろう。
何せ自分でも驚いた。
周囲の魔者が老い、朽ち果て代替わりしていくなか、自分だけがいつも不変だった。
そういう在り方の者だと理解しているし、そこに何の過不足も感じた事はなかった。
彼女に触れるまでは。
「…ですが、彼女は見たところ、リュカの言う通り唯人のようです。落ち星の所有権は落ちたその国にあるのはご存知でしょう。いくら魔者の王と言えど、それを横から奪うのは些か横暴では?」
「おい、アデル…」
リュカに案内された部屋に、少し遅れてやってきたのは、話を付けたかった人物で間違いない様だ。
年頃は彼女と同じぐらいだろうか。
若いが頭は切れそうだ。
リュカのとのやり取りを、思案顔で聞いていたがやはり口を挟んできた。
「リュカ、いいよ。…話が早くて助かるよ。アデル?」
落ち星の中には、この世界には無い魔法や技術、知識を持つ者がいる。
それを国益として確実に取り込む為に、国の管理下に一定期間置くのが、落ち星を保護する実際の目的になる。
特に何も無い様であれば、事前説明通り市井へ下され、有用であれば然るべき機関に登用される。
もちろん、この世界に慣れてもらう為というのも嘘ではないが、その落ち星が持ち得る能力を見るの為の保護人制度だ。
それならば、もし彼女が特別な落ち星で無くても、自分が特別にしてやればいい。
そうすれば、管理期間が明けるのを待たずして彼女の側にいられる。
それに王が新しく据えられたばかりのこの国としても、白い魔者を手元に置くのは決して少なくない利があるだろう。
節目というのは、国内外共に何かと荒れるものだ。
新王に代わって初めての建国祭に姿を見せたことで、今のヴァシルクが祝福を得ていると、すでに牽制にはなっただろうが、もう一押し欲しいはずだ。
「私はこの娘と、まず契約をしよう。アデル、君もそのつもりだったろう?」
「…なんのことか分かりかねますね」
肩を竦め、はぐらかすアデルに薄く笑う。
「ふふ…なかなか強かだね。私たちを良いように使ってくれて構わないよ。但し…」
人間とまともに関わったことのない魔者から、何を要求されるのか警戒したのだろう。
向かいに腰掛ける二人が、同時に息を飲むのが可笑しかった。
提示した条件は二つ。
彼女の行動に制限を付けないこと。
保護人は自分にすること。
「…は?それだけ?それに行動に制限をつけないって…その娘、本当に伴侶なんです?伴侶ってもっとこう…なんて言うか、監禁したくなるんでしょ?俺もまだ居ないから、知らんけど…」
リュカの言い方はどうかと思うが、確かに魔者本来の性質は、伴侶を見つけると気の済むまで囲う。
誰も近づけず、身を離さず、自身の領域外にも出さない。
白い魔者とて、本当は自分の領域に連れ込んで、誰とも接触させたくはない。
彼女が知るべきこの世界の事など、自分だけでいい。
しかし、彼女にそうすると、何の迷いもなく死を持ってこの腕から逃れてしまう気がした。
存在しないと思っていた伴侶を見つけたのだ。
そんな詰まらない本能の為に失うわけにはいかない。
後者の条件は、完全に我儘の自覚はある。
領域に引き籠らない代わりに、これぐらい許されるだろう。
だから、この条件はヴァシルクに対してもリタに対しても、最低限にして最大の譲歩だ。
しかし、そんな此方の事情など説明してやるつもりはない。
リュカの問いに薄く口端を持ち上げ、どうするとばかりに視線をアデルに流す。
「…率直に申し上げて、私ももっと無理を仰られるかと思いました。本当にその程度の条件であれば、寧ろ此方からお願い致します」
「それだけだよ。心配なら制約にするかい?」
「いえ、そこまでは必要ありません。貴方の名前を扱える技量が、私には無いでしょう」
魔力を通した正式な約束事にするかとの問いに、格差がありすぎると苦笑気味に答えたアデルは、此方からも条件をひとつだけと続けた。
殊勝な割には、やはり強かだ。
「ただ、彼女の住居だけは魔法省にしてくださいますか?落ちたばかりで、此方の管轄ということもありますが…貴方との組み合わせならば、彼女が何者であっても、そのまま魔法省に就いて貰うことになるでしょうから」
魔法省に勤めるものは基本的には、住居も魔法省内に用意されるらしい。
福利厚生の意味もあるが、主に新技術や案件の機密保持のためだろう。
彼女が不自由しないならばそれでいい。
「構わないよ。身の回りのものは私が揃えよう。あぁ、それと…彼女への勧誘はそっちで頑張ってね?断られた時は…わかってるね?」
言外に、その時はその後一切彼女に構うなと意味を込めてアデルに首を傾げる。
交渉の機会は与えているのだ。
彼女がヴァシルクに組みすることを望まない時には、口は出させない。
とは言え、この世界に彼女を留め置く礎が欲しいのも事実。
その点で、彼女がヴァシルクに落ちたのは好都合だった。
この大陸では一、二を争う大国で、長く続く同系王家の善政により、国民生活は豊かだ。
王が代替わりしたばかりで、小さないざこざは燻っているが、今すぐに事態が動きそうな表立った火種は無い。
文化も発展しており、彼女を楽しませるものにはきっと事欠かないだろう。
これだけ好条件の揃った国を他に探すのは面倒だ。
彼女が嫌ならばしょうがないが、魔者としても、是非ここは頑張って交渉締結して欲しいところだ。
「…承知致しました。出来るだけ頑張りましょう」
「白、丸投げしましたねー。説明、面倒臭いだけでしょ?苦手そうだもん…」
「…………おや、目が覚めそうだね」
図星の指摘を誤魔化そうとしたところで、折よく腕の中の彼女が目を覚ましてくれた。
「リタ…君は明日、どんな反応をするのかな?私との契約も嫌がるかもね。その時はどうやって君を懐柔しよう?…楽しみだよ」
先程は、バスルームの件で警戒させてしまった。
朝まで側に留まりたいが、これ以上警戒されるのは得策では無い。
名残惜しげにリタの額に口付けをひとつ落とし、来た時と同様に転移で部屋を後にする。
部屋には魔者が来る前と変わらず、微かな寝息と柔らかな月光が揺れるだけとなった。