泡沫夢幻
やっと全てが終わる。
全てを知ったあの日から今日まで、綿密に触手を伸ばしてきた。
何年も掛けて、寄生木が宿主を絞め殺すように、外側からじわじわと。
(もっと達成感みたいなものがあるかと思ったけど)
リタは、これから自身を葬ってもらう瘴穴を眺めながら判然としない想いを抱えていた。
けじめをつける覚悟は揺らいでいないが、実感がないままに決行するのは釈然としない。
あの男の処刑日に合わせ、任務を同日に調整した。
処刑を見届けたところで、良心は微塵も痛まないが、嗜虐趣味があるわけではない。
わざわさ血生臭い光景を見たいとも思わなかっただけだ。
ただあの男に死が齎される事実だけで良かったはずだった。
だが、何かすっきりしない。
頭が僅かな引っ掛かりを訴えて、もやもやする。
やはり、最後を直に見たほうが良かっただろうか。
「リタ?難しそうか?」
今日の任務に、護衛騎士としてついてくれた同郷の幼馴染が、心配そうに小声で問いかけてくる。
振り返り、随分と背が高く、逞しくなった彼の蒼穹の瞳を微笑んで見上げる。
彼が、瘴を癒す魔癒術士専属の騎士になって再会した時には、とても驚いた。
最後に会った記憶の中の彼は、歳は三つ上だったが、身長はリタとそう変わらなかったように思う。
かなり伸びた身長もそうだが、ほぼ貴族の子弟で構成されている騎士団の中で、平民から若くして王城騎士に、更には専属騎士になるまでにどれだけ鍛錬を積んだのか想像すら難しい。
リタには騎士の優劣の判定はしかねるが、最も誉高い近衛騎士への推薦を断って、専属騎士を選んだと言うのだから、実力はかなりのものなのだろう。
しかし、冴え冴えとした印象的な双眸は変わらず、幼少期の懐かしさを呼び起こすのには十分だった。
「ミュシャ、すみません。そこそこ大きいですが大丈夫ですよ。でも、少し暴れそうです。みなさんを下がらせてください」
拡大の止まった瘴の成れの果てである瘴穴は、普段はそこに澱んでいるだけだが、閉じる際に拒むように荒ぶることがある。
それを利用しようと前から目星をつけていたのが、今日の任務対象だ。
ある程度大きさがあり、闇が濃く重い。
これまでの経験則で荒ぶる条件は揃っている。
「わかった。気をつけろ。…大丈夫か?」
「ん?何がです?」
「…いや、いい。みんな、下がれ!術士様が始めるそうだ」
きっとミュシャは、先程のリタの逡巡に気付いていた筈だ。
それでいて深くは聞いて来ないのが、彼の長所であり、短所だ。
端正な容姿に寡黙で実直、加えて専属騎士の中でも期待の出世株である彼は、平民出であるにも関わらず、貴族令嬢から引く手数多だと聞いている。
そこで彼が相手にその気さえ見せれば、縁談など直ぐにでも纏まる筈なのにと、リタは部下に指示を出すその広い背中に苦笑した。
何故かミュシャの縁談が決まらないのは、いつもリタのせいにされるのだ。
確かに、ミュシャとは毎回と言っていいほど任務が被る。
だが、ミュシャはリタだけの専属でも無ければ、騎士の任務日程に、リタが口を出せる立場では無い。
偶々、被るのだ。
それを、『満月の子』をいい事にミュシャを独占してるやら、他にも粉を掛けている等、かなり理不尽な言い掛かりだ。
一度、こういった令嬢方からの陰口に辟易して、本人に結婚しないのかと聞いたことがあるが、興味がないと返されただけだった。
不要だと思えばすぱっと切り捨ててしまう彼の性質が、少しだけ心配になる。
(でも…ありがとう)
この国は中堅国にしては国土が広く、地方に行くほど中央の監視が行き届いていないのが現状だ。
辺境地の状況は、半期に一度の報告書をほぼ鵜呑みにしており、それと実情が伴っていない領地を、任務で赴くたびにいくつも見てきた。
中でも、故郷のある領地は報告と実情の乖離が甚だしい場所のひとつだろう。
ミュシャには、報告書程中央からの恩恵を受けていない領地を、領主を通さず内々に支援したいと言って、故郷の現況を逐一集めてもらった。
お陰で随分と今日までの時間が短縮できた。
あまり自由の効かないリタだけでは、未だ尻尾の先にすら手が届いていなかったかもしれない。
ミュシャによって得た情報と、王都に上がってくる領地の報告書を元に、あの男を崩すのはさほど手間ではなかった。
様々な悪事に手を染め、私腹を肥していたあの男は、隅の方を突けば、後は済し崩しに自滅してくれた。
領主の交代とあの男の処刑が決まった日の晩、珍しくリタの自室に上物の葡萄酒と、全く似合わない有名店のアントルメを持参して訪ねて来たのを見るに、聞いてこなかっただけで一連の出来事がリタの采配だと気付いていたのだろう。
共に飲みながらただ一言、ありがとうと言われただけだった。
ミュシャとしては、あの男のせいで長いこと苦しんでいた故郷を救ってくれた礼だろうが、報復の本質はもっと別にある。
でも、それを知らせるつもりは一切無い。
ミュシャには、リタのどろどろとした黒い部分を知らずにいて欲しかった。
彼は、リタの最も幸せだった頃の思い出の一部だったから。
リタも、彼にとっていい思い出でいたかった。
「ミュシャ…いえ、なんでも。始めます」
太陽がよく似合う小麦色の髪に思わず呼びかけ、なんだと此方に首を傾げている彼に、微笑みながらゆるゆると首を振って、任務の開始を告げることで誤魔化す。
彼はいつだって温かかった。
彼の兄弟たちと共に駆け遊んだ日々も、母を亡くしたあの日も、故郷を旅立ったあの日も、全てを知ったあの日も、いつだって。
特に、王都で再会してからは、事あるごとに気を回してくれる。
少々過保護とも感じるが、両親は亡くなり、兄弟もいないリタにとっては、本当の兄の様な存在で、有り難かった。
唯一、悲しませるのが辛いと感じるミュシャが最後の護衛騎士でなければ良いと思っていたが、そればかりはリタの調整の範囲外だ。
(泣いたりしないでね。どうか元気で。さようなら)
声にして届けることの出来ない別れを、胸の内で呟き、唇を舌で湿らせてフルートを口元に当てる。
もう処刑も済んだ頃合いだろう。
迷いはもう無い。
魔力を織り込んだ旋律で瘴穴を囲むと目論見通り、すぐに闇が暴れ出した。
いつもなら隙間のないように術を広げていくが、今回はわざと綻びを作った。
その綻びから闇が勢いよく抵抗を見せる。
その一瞬をリタは逃さなかった。
自分より後ろには広がらないように、ちゃんと自分は連れて行ってくれるように、しかし、わざとらしく無いように慌てたふりで旋律を奏でる。
これは飽く迄も事故なのだ。
万が一にでも、ミュシャの責任が問われることになってはいけない。
「っ、リタ!!」
事態にすぐさま反応したミュシャの腕がリタに伸ばされるが、リタが身を捩って避けたため僅かに届かない。
振り返り見たミュシャの瞳は、此方が悲愴になる程見開かれている。
闇がリタを呑み込み閉じていく瞬間、今日がミュシャの瞳のようによく晴れていてよかったと、どうでもいいことを考え、唇が弧を描いていた。