至れり尽くせりです
「…そんなやり方したら後悔しますよ」
魔者の口を塞いでいた手をだらりと下ろし、諫めるようにリュカが呟く。
「ふふ…そうかもね。この娘には心から名を呼んで欲しいから…今のは少し強引だったかな」
外せなかった視線の先で交わされた些か不穏な会話と、口の端をわずかに持ち上げただけの冷淡な微笑にぞわりと正気が戻ってくる。
(一瞬、どうなってもいいと思ってしまった…)
「あっ、早い。もう戻ってきた。だいじょぶ?魔者と相対するときは気を付けなよ。特にあんた、白と親和性が高そうだから」
「やっぱり何かされました?頭に靄がかかったみたいで、少し気持ち悪かったです」
目を覗き込まれた瞬間、じわりと脳を侵食する感覚があり、ふわふわとして目の前の魔者のことしか考えられなくなった。
先程までの捕食者への抵抗が嘘のように、むしろ食べて欲しいと感じるほどに。
洗脳のようなものだったのだろうか。
靄の残滓がまだ淀んでいる感じがしたがそれも徐々に消えた。
他に違和感は無いようなので、問題ないと笑む。
「気付いていたならよかった。結構、魔力はあるみたいだから大丈夫だろうと思ってみてたけど、魔力耐性も高そうだね。さっきみたいな精神干渉系の魔法は、展開に気付いていると格段に弾きやすくて覚醒が早いんだ。うん、リュカ、やっぱり彼女、適性が有りそうだ」
「適性…ですか?」
リュカと顔を見合わせ頷くアデルに、何のことだと首を傾げる。
「うん、もうひとつ、君にお願いしたい大事な話があるんだけど…疲れてない?色々話が逸れてしまって長くなったからね。保護人の件も合わせて、また明日にしようか。居住棟に客間を用意させたから、休むといいよ。食事もそちらに運ばせよう」
何やらまだ何かあるらしい。
情報過多と隣の魔者の言動に、そろそろお腹いっぱいだと思っていたリタには嬉しい提案だった。
だが、此処は王城ではないのか?
そうならば、できれば遠慮したいのだが。
身も心も何も気にすることなく休めたい。
「でも、こちらは王城では?流石に恐れ多いので宿など紹介していただければ何とかしますが…あっ、此方のお金ないですね…」
「じゃあ、私の城に来るかい?」
「いえ、遠慮しておきます」
隣の魔者の物騒な提案を微笑んで華麗に流す。
萎れてしまったが、また先程のようなことがあっては堪らない。
朝になって、骨だけでしたでは笑えないではないか。しかし、魔者も城を持っているのかと頭の端で思い、少し可笑しくなった。
「君、結構はっきりしてるね。断ってくれて助かるけど…」
何故が少し引き気味なアデルは続けた。
どうやら食人種らしいが、そんなに気性の激しそうな魔者には見えない。
もう少し言動に気をつけた方がいいだろうか。
「リタは落ち星だ。放り出したら保護責任の放棄になってしまうからね。それに此処は王城じゃなくて、魔法省だから気にしないで」
聞けば、アデルも普段は此処で政務や寝食しているらしかった。
リタを王城に預けても良かったが、今日は建国祭に伴う夜会が開かれている為、騒がしいだろうからと気を使ってくれたらしい。
魔法省ならアデルの一存でどうにでも融通が効くというのもあるそうだ。
「建国祭だったのですね。あの…本当に大丈夫でしたでしょうか?そんなに大事な行事とは知らず…」
「大丈夫だよ。心配しないで。どっちかっていうと、此方の方が大事だったからね」
建国祭といえば、国力を内外に知らしめる手っ取り早い手段の一つだ。
盛大に行うことで財力を、近隣諸国の要人を等しく招くことで軍事力と外交力をアピールできる。
一国の王族が、そんな国の一大行事より大事なことがあるのかと首を傾げたが、再度の確認もさらりと爽やかに流された為、本当にもう気にしないことにした。いつまでもうだうだとしているのは存外に疲れるのだ。
「あっちは色々とうるさいのいるしな…」
遠い目で呟くリュカに、建国祭ならば、近隣諸国の要人も王城に逗留しているだろう。
警備上の問題かと勝手に納得し、此処が王城でないならば甘えてしまうことにした。
金銭面もそうだが、正直、かなり疲れている。
少し一人で休みたかった。
初めましてな三人と、初めましてな世界についての濃密な時間を過ごすうちに、部屋にはいつのまにか明かりが灯され、外は既に茜雲に宵が混じりつつある。
途中に出された紅茶とお菓子も、手をつけないまま冷め切っていた。
昼過ぎにこの部屋で目が覚めてから数時間といったところか。
季節は元の世界と変わらず、まだ寒さの残る初春のようだから妥当だろう。
時間のずれは、すぐに調子を崩しそうで、実は心配していたのだ。
時間感覚も元の世界と大体同じようで胸を撫で下ろす。
「じゃあ、また明日。ゆっくり休んでね」
「お気遣いありがとうございます。おやすみなさいませ」
これから夜会へ出席するというアデルとは、先程の部屋の前で別れ、リュカに客間まで案内してもらうことになった。
「こんなに時間を割いて頂いた後に、片や夜会なんて、なんだか気が引けます。リュカ様は、夜会はよろしいので?」
「あー、俺はあーゆうの苦手なの。それに、別に気にしなくていいんじゃないの。王族はそれが仕事だし。あんたの事も仕事だから」
「…そうですね」
居住棟に用意されているというリタの部屋に向かう道すがら、なんとなく手持ち無沙汰になり、少しだけ前を歩くリュカに話しかけた。
一聞すると冷たく感じる返しだったが、取り繕わない正直な反応なので、リタは好ましく思う。
この分であれば、特に沈黙も苦しくないだろう。
色々話しかけると、逆に鬱陶しがられそうだ。
此方も疲れていて、会話に回す体力が惜しいので大変助かる。
部屋に着くまで大人しくしていようと柔らかく笑んで同意を返すに留め、魔法省内の装飾を眺めて歩く。
元の世界でも似たような国有の施設で大半を過ごしていたが、彼方は装飾過多に造られており、ごてごてしてなんだか趣味が悪かった。
与えられた自室ですら元からうんざりな内装で、逆にどうやって落ち着かせるか苦心したものだ。
対して、此方の造作は決して質素ではないが統一感がありとても好ましい。
色の切り替わりに太く金帯の入った蜂蜜色と赤銅色のツートーンの壁紙は落ち着いた雰囲気ながら白瑪瑙の様な廊下と相まって気品がある。
艶々としたチョコレート色の窓枠や扉などに刻まれた細かな装飾がとても美しい。
此方の魔法のことはさっぱりだが、見たところ窓と扉にはそれぞれ同じ文様が刻まれているので守護と秘匿の魔法文様だろう。
さすがは魔法省といったところか。
保全に抜かりは無さそうだ。
これならば、用意してもらった部屋も居心地が良さそうだと期待しながらリュカについて行く。
(それにしても、なんでついて来るんだろう…)
なるべく気にしないようにしていたが、白い魔者に右手が拘束されたままなので、どうしても気になる。
しかも、ほぼゼロ距離で歩きにくい。
先程のアデルの話から、取り敢えずはリタにも明日が来るようなので、今日食べられてしまう事はないはずだ。
他に行く場所もあるはずがないので逃げる心配もない。
だから離してくれはしないかと、無言で彼を見上げた。
「…無理」
リタより頭ひとつ分背の高い彼は、リタと目が合うなりまた口元に手を当て、そっぽを向いてしまう。
どうやらまた、食欲を刺激してしまったらしい。
先程から空腹らしいし、今は夕飯時だ。
今、少し齧らせろと言われては敵わない。
此方もこれ以上刺激しないよう放っておくことにした。
そうこうしているうちに、客間に着いたようで、ひとつの扉の前でリュカが立ち止まる。
居住棟に入ってからは執務棟とは色調が変わり、此方は深緑を基調としているのに、暗い雰囲気にならない見事な配色を見せていた。
部屋への扉も長方形ではなく、正円の三分の一程度の下方だけを水平に切り落とした形をしており、とても凝っている。
このドアにも、やはり魔法文様が美しく彫り込まれていた。
否応にも、室内への期待度が上がってしまう。
「取り敢えず、今日はここで休んでよ。風呂も着替えも準備されてるはずだから。食事はすぐに運ばせる」
そう言いながら渡された部屋の鍵を受け取る。
鍵ですら、アンティークな真鍮製の植物模様が美しいもので嬉しくなった。
「何から何までありがとうございます」
「ん。じゃ、明日」
「あの…」
そのまま立ち去ろうとするリュカを呼び止め、リュカとまだリタの右手にぶら下がったままの白い魔者を交互に見る。
魔者はどうかしたかとばかりにきょとんとしているが、自分が問題だということに気付いて欲しい。
リュカはリタが言わんとしていることに気が付いたようで、額に手を当てて少し項垂れた。
「あー…うん、やっぱそうだよな…。白、行きますよ?ちゃんと白の部屋も用意してますから」
「嫌」
「だから、何その潔い拒絶。流石にダメですって。この娘、まだ何にもわかってないんだから。今日のところはちゃんと休ませてあげましょうね。ほら、さっさと手を離してさくさく歩く!」
「でも…」
「でもとか、鴨とか、芋とか、あー、あとなんだ…うん、無いから。じゃ、今度こそお休みー」
「お休みなさいませ」
「あっ、俺の部屋、三階上の同じ位置だから、何かあったら呼んで」
「ありがとうございます」
一度はっきりと拒絶した割にはあっさり手を離してくれたことに感謝しつつ、諌めつつ引きずって行くリュカとぶつぶつ言いながら引きずられていく魔者を、賑やかなことだと笑顔で手を振って見送った。
今夜は部屋から出ることはないと思うが、一応部屋の周囲を見回して廊下の風景を覚えておく。
魔法省は、歩いてきた感じ、かなり大きな建物のようだ。
迷ってしまった時の為に、此処までの目印を幾つか頭の端に置いて、扉を開けた。
カチャリと小気味のいい音で鍵が開いた扉を潜ると、部屋の中はローズピンクで統一され、調度品は曲線を描くものが多くとても可愛らしかった。ローチェストの上に生花が生けられた花瓶が置かれているのも嬉しい。
バスルームも覗いてみようとしたところでドアがノックされ、声がかけられた。
食事を持ってきてくれたようだ。
「ありがとうございます」
メイドに礼を言うと、食べ終えたら部屋の外にワゴンごと出していてくれればいいとのことだった。
クロッシュの中を覗いてみると、ほやっとした湯気と共に美味しそうな香りが漂う。
透き通った琥珀色をしたスープに焼きたてのパン、色鮮やかにグリルされた様々な野菜と白身魚のムニエルだった。
デザートに瑞々しい果物もついている。
(綺麗な盛り付け。ありがとうございます)
正直、色々なことが有りすぎてあまり空腹は感じなかったが、温かいうちに持ってきてくれたことが嬉しく、味も素晴らしかったため、結局全て平らげてしまった。
人間、満腹になると急激に眠気が来るものだ。
愛用のヒールの無いバレエシューズから室内履きに変え、ベットの上に用意されていたタオルと寝衣を持って、あくびを噛み殺しながらバスルームへ向かうと、扉を開けた途端にオレンジとセージの甘くさっぱりした香りが漂ってきた。
贅沢にも入浴剤を使ってくれたようで、ここでもまた嬉しくて笑みが深くなる。
全身を清め、濡れると金の色味が強くなる長い髪を硬く絞って高く結い上げてから、猫脚のバスタブにたっぷりと張られた橙がかった乳白色のお湯に爪先からゆっくりと身を浸す。
バスタブの縁に頭を預けると、自然と深い溜め息が出た。
思い返せばとてつもなく長い一日だった。
任務中の事故に見せかけて、自裁の為に魔力災害である瘴穴に飛び込んでから、まさかこんな展開になるとは夢にも思わない。
果たして、この世界に落ちたのは本当に偶然だったのだろうか。
タイミングが良過ぎる感じがしないでも無いが、今は考えても無駄だろう。
それにしても、食事といい、お風呂といい、部屋の雰囲気といい、此方に来てから心が浮き立つ事が多くて困る。
過度に気遣われている気もするが、ありがたいので甘受しておこう。
我ながら現金にも程があると、自嘲が漏れた。
そう、全てを呑み込むあの虚無の闇の中で、命の終わる瞬間を確かに感じたのだ。
嘲笑を収め、慈愛のようだったそれを思い返しながら、リタは薄紫色の瞳を閉じた。