甘味ではありません
「じゃあ、此方では偶にあることなんですね。彼方では聞いたことが無い現象だったので、すぐには信じがたいですが…妖精さんを目の前にしてしまうと、世界が違うということを信じざるを得ませんね…」
再び膝の上から、長椅子に座るまでの一戦を終えるのを待って、この国の魔法省を統括しているというすごい人だったアデルと、その補佐をしているリュカによって、数刻掛けて丁寧に行われたこの世界の講義入門編は、入門編であるにも関わらず、なかなかに複雑だった。
まず、リタがこの世界に来てしまったのは、全くの偶然であるらしい。
そもそも世界というものはただ一つという訳ではなく、幾層にも重なって存在しているものと考えられている。
普段は違う層が重なり合う事はないが、稀に一部、ほんの一瞬だけ通じてしまうことがある。
その重なりに偶々居合わせてしまった人や動物が別の階層の世界に落ちてくるのだそうだ。
落ち星と呼ばれるそれらは、落ちた国に保護責任が発生し、人だった場合はこの世界に馴染むまで国選の保護人が付くというのがこの世界の各国共通ルールらしい。
「ちなみに、何故か物が落ちてきた事はないんだよ。命あるものに対する恩情じゃないかって言われてるけど、着てる服まで剥ぎ取ってこない辺り、めっちゃ空気読んでるよね」
あははと笑いながらいうリュカの言葉に目を瞬いた。
流石に、真っ裸で見知らぬ土地に落とされてしまったら、人間的な色々が死んでしまう。
ありがとう、恩情。いや、本当に。
だがやはり、物は移動対象外らしい。
それなりに思い入れのあるフルートだったので残念だが、服は着たままなのだから、そう文句も言えない。むしろ、心からありがとう。
しみじみと頷いていたところに、苦笑気味のアデルから説明が続いた。
「言葉も落ちた国の使用言語に調整されるみたいだね。これも温情のようだけど、文字は読めないことがあるんだ。リタは認識できてるかな?」
アデルがシンプルな作りだが深い蜜色が美しいガラスペンで、さっと紙に書いたのは極短い文章だった。
それがリタの方へ差し出される。
(“この世界へようこそ!!”か…お洒落)
流麗な筆致で綴られた歓迎の言葉に笑みを深くする。
「ありがとうございます。見慣れない文字ですが、読めるようです。不思議ですね」
「そう、よかった。読めれば書くことも出来るはずだから、違和感は直ぐに無くなると思うよ」
確かに少し違和感は感じるが、さして気にするほどでもない程度だ。
これならば此処でも本が読めるかもと期待が顔を覗かせる。
元の世界ではあまり自由が効かなかった為、本が唯一と言っていいほどの娯楽だった。他に趣味が無かったということもあるが。
平民出の為、読み書きが出来るようになったのは彼の国に囲われてからだったが、この十五年程でかなりの冊数を読んだ。
リタに学問や技術を授けてくれた老師は“知識は武器”が口癖で、まだ文字を覚えたばかりのリタの前に、およそ子供が読む内容では無い本をうず高く積んでいった。
その影響か、どんな内容でも特に苦も無く考察しながら楽しめる。
強いて言えば、自然と手が伸びるのは物語の本だった。
現実では叶わない様々な経験を、登場人物を通して体感した気分になるのが堪らなかった。
まだ出会ったことの無い物語があると思うと、また少し生きたい方に気持ちが傾いてくる。
後で書庫を覗かせてくれはしないだろうか。
「少し話がずれてしまったね。保護人の話に戻りたいんだけど、その前に、さっきの君の様子だと、元の世界には人ならざる者は居なかったのかな?」
「人ならざる者ですか…。いくつか物語や神話、聖典などには記載が有りましたが…。こちらには妖精さんだけではなく、他にもいるということでしょうか?」
「そー、沢山いるよ。総数としては一番人が多いけど。純粋な人じゃないというところで言えば竜人族とか獣人族もいるね。フツーに街中にいるよ」
カテゴリーとしては大雑把に、人語を解し且つ人型を取れる者が魔者といい、その他は魔獣という括りになるという。
それぞれ、多種多様になる為、詳細については見かけた時に説明されることとなった。
魔者達は、人間の有する国境や規律とは関係なく生活行動をしているのだが、お互いの利害や思想が合えばリュカのように一国に仕えることもするし、街のパン屋で働いているということもあるようだ。
こちらの世界の人間達にとって魔者はそれほど遠い存在ではないらしい。
「やっぱりそうなんだね。何故だか、他の世界にはあまり魔者は居ないみたいなんだ」
リタの世界だけでなく、これまでの他の落ち星達の話を聞いてみても魔者がいる世界は珍しいようだ。
魔獣を含めた人外の者の中には、見た目が変わっている者や、変わった趣味嗜好の種族も多い為、関わる際には相応の注意が必要なのだとか。
そう言った理由からそれらに慣れてもらう為に、ヴァシルクでは落ち星の保護人にはリュカのような国に属している魔者が選ばれる。
アデルはそう説明し、ちらりとリタの右側に視線を流しながら続けた。
「魔者は人にあまり関心を持たない種族が多いけど、中には人を嫌厭していたり、積極的に捕食する種もいるからね」
「捕食、ですか…」
まさかの人が食料だった衝撃が、リタの脳内をそれは主食としてなのか、嗜好品としてなのかという、食べられてしまったらもはやどっちでもいい疑問で埋め尽くしてしまう。
(…もしかして?)
ふと、先程からリタの右手をにぎにぎと弄んでいる人間離れした美貌の彼が、その見た目に違わず魔者でリタを後で食べるために捕まえているのではないかと思い至り、思わず勢いよく彼を振り向いた。
読書欲が出てしまった以上、満たさずには死にたくない。
「…そんなに見られると無理…」
急にこちらをみたリタに驚いたのか、彼は多色虹彩の瞳を僅かに瞠り、やはり口元を手で押さえそっぽを向いてしまう。
(さっきの困るって…食べられちゃいますよってことか…)
どうやら、食欲を刺激してしまったらしい。
完全に食料認定されていることがわかり、さすがに右手の安全が心配になる。
取り返そうとさりげなく腕を引いたが、逆に指を絡め取られしっかりと繋がれてしまった。
(だから、痛いのは嫌なんだけどな…)
人生の終焉が、食べられちゃいましたじゃ陰惨すぎやしないだろうか。それこそ、消えて無くなる為に選んだ自裁方法だったのだ。いや、食べられたとしても跡形も残らないのは一緒か。
でも、痛いのは嫌だ。絶対。
さて、どうしようかと回収に失敗した右手を見つめて思案していると、更に衝撃的な言葉が続いた。
「通常なら、落ち星も魔者も魔法省の管轄だから、保護人はこちらで決めさせてもらうんだけど…。君の保護人は…君の隣にいる魔者にお願いしようと思うんだ。この国に属する魔者ではないんだけど、どうしても君の世話を焼きたいみたいで…いいかな?」
とても申し訳なさそうにお伺いを立ててくる辺り、アデルもリュカも彼が食人種であるとわかった上で、リタをこの魔者に預けようとしているのだろう。
先程まで彼についてほとんど触れなかったのは、なるべく刺激しないようにしていたらしい。
これはばっちり貢ぎ物にされたなと少々困り顔で笑んだ。
「…ちなみに、拒否権無いですよね?」
一応そう聞いてみると、隣の魔者は分かりやすく萎れてしまった。
そんなに空腹なのだろうかと思うと少し可哀想になる。
だからといって、はいどうぞと差し出せるわけはないが。
それとも、やはり具合が悪いのか、額が膝につくほど項垂れている。
そのまま右手を齧られたら嫌なので、頭は上げて欲しい。
「へぇ…意外だね。結構好き放題させてたから、満更でもないかと思ったけど…。白はあんたにとって魅力的じゃない?」
先程からリュカがいう白が、彼の名なのだろうか?
というか、食べられそうになっているのに満更も魅力的もないと思うのだが。
「白…様がどうという訳ではなく…んー、なんというか…」
「白じゃなくて、リタ…にはセルディナメルって呼んで欲しい…」
どうやら白が名前では無かったらしい。
食べられたくはないとはっきり言えず言葉を選んでいたところに、殆ど会話に入ってこなかった隣の魔者が突然、自己主張を始めた。
リタの名前を呼ぶ時にやはり声がとろりと甘く響くので、きっと彼にとって人は嗜好品なのだろう。
感情の伺えない無機質な表情も心なしかうっとりと緩む気がした。
(おやつだった…)
出来れば、主食が良かったな。
いや、嗜好品としての方が光栄か…?
ちょっとずつ食べるのか?
いっそ一気にいって欲しいな。
などと要らない迷路に入ってしまう。
「あーあぁ…本人が了承もしてないのに、さりげなく契約名呼ばせようとして。うっかり成立しちゃったらどうするんですか?…アデル、今の聞かなかったことにしろよ」
「あぁ…わかってる…。秒で忘れるよ…覚えてても私にはどうしようもないけどね…」
「惜しかった…リュカ、邪魔しないで」
三者三様に溜息をつく様子にリタはこてんと首を傾げる。
「名前って…何か意味があるんでしょうか?」
「そー。魔者にとって、本当の名前はめっちゃ大事。俺のリュカっていうのも通り名だよ」
ただの取引の場合は問題ないが、アデルとリュカのように主従関係を結んだり、何か魔者と正式な契約する時には絶対必要になるものなんだとか。
魔力の差だとか属性の相性だとか、他には特殊な条件下では場合によって正式な名前を呼ばれるだけで服従してしまうこともあるし、逆に名を呼んだものが魂ごと奪われる可能性もある。
だから、双方の合意がない限り必要な時以外は伏せるのだという。
「…伴侶を決める時も相手に教えるけどね。とにかく、魔者の名前は知ってても軽々しく呼んじゃダメなやつだから」
危うく何かが成立してしまうところだったらしい。知らずに反芻しなくてよかった。
「そうだったんですか。聞いててよかったです。…じゃあ、『白』は通り名ですか?」
「それは俺が勝手に呼んでるだけ。白って通り名あるんです?」
そう聞かれた魔物は、少し考え目線をリュカに流す。
「人の子が勝手に呼んでる俗称はあるよ。君が言う白もそこから引っ張ってきたのだろう?でも、この娘にはそれで呼ばれたくはないね。だからリタ、言ってごらん。セルディナ…」
「あー!!はいはい、ストップ!あっぶねっ!油断なりませんね、白!」
整った指先でリタの顎を掬って目を合わせた魔者の言葉は、慌ててテーブルから身を乗り出したリュカの手で塞がれる。
目を細めてリュカを見る瞳は透明度が高くきらきらとして美しい。
もうこちらを見てはいないのに視線が外せず追いかけてしまう。
そんなリタをちらりと見たリュカにも気が付かない。
リタの意識は目の前の白い魔者のことで埋め尽くされていた。