診断2
「レントゲン撮影の結果、脾臓に影が見つかりました。――ここですね。腫瘍があります」
検査結果を聞きに行った慎太郎に、獣医はレントゲン写真を指しながらそう説明をはじめた。
「脾臓というのは血液を貯蔵しているところで、腫瘍が破れると大量出血してしまいます」
大量出血という不吉な言葉に、慎太郎は息を飲んだ。
「手術したほうがいいんでしょうか?」
「見つかったらすぐに手術をお勧めしています。……ただ、マロちゃんは高齢のため、全身麻酔のリスクが高いんです」
「麻酔のリスクというのは?」
「目覚めないことです」
慎太郎は頭をガツンと殴られた気がした。目覚めないとはつまり、そのまま死んでしまうということか?
マロには持病があったし、体調で気になるところもあった。老いるほど病気が増えることはわかっていたし、人間と同様に癌で命を落とすペットが多いことも知識として知っていた。
けれど、治療すればなんとかなると高をくくっていた。長年苦しんだ気管虚脱も、薬を代えておさまったばかりなのだ。それがまさか手術そのものにリスクがあるとは想像もしていなかった。
――全身麻酔をして、目覚めない確率は?――
そう尋ねようとして、慎太郎は言葉を飲み込んだ。
仮に5%といわれて手術に踏み切れるだろうか?
マロが目覚めなかったら、自分は納得できるだろうか?
そもそも具体的な数値を獣医に求めるのは酷ではないだろうか?
慎太郎が獣医の立場であれば、自分の発言が生死の判断に直結するのは、たとえ医療技術を持っていたとしても辛すぎる。
「手術をしない場合、なにか打つ手はあるんでしょうか?」
「経過観察になりますね。短期間に腫瘍が大きくなるようなら…… 例えば2倍になると破裂の危険も高くなるので、手術に踏み切らねばならないと思います。今はそこまでのサイズではありません」
今日、明日危ないというわけではないらしい。
「経過観察の場合、定期的に検査するんでしょうか? 3か月に一度とか?」
「マロちゃんの場合、検査で興奮して腹圧があがるのもよくないので、4か月に一度でよいかと思います」
「……わかりました。考えてみます」
慎太郎は礼を述べて病院を後にした。
帰り道、愛犬はいつもと変わらず、散歩を楽しんでいた。15歳の老犬とは思えない軽快な歩きだ。
それなのに腹の中には、爆弾を抱えているという。人間でいえば80歳になるのだ。健康診断を受ければ、悪いところが見つかって当然なのかもしれない。そう頭では理解できても、慎太郎が受けた衝撃は大きなものだった。
このまま放置すれば、いつか何かの拍子に大量出血を起こすかもしれない。その時、助けてやることはできるのか?
慎太郎は1人暮らしのサラリーマンだ。出勤中はマロが1匹で過ごしている。不在時に出血を起こした場合、家に帰ったら手遅れだったという可能性もある。間に合ったとしても、動物病院はとうに閉まっている時間だ。夜間でも受け入れてくれる緊急病院もあるが利用したことはない。
慎太郎は社会人になる前にも犬を飼っていたことがある。マロと同じ柴犬だった。
最初に飼った柴犬は、慎太郎が小学校低学年のときに飼い始めて、三歳で死んでしまった。
朝起きて散歩に連れて行こうとしたら、横になったまま死んでいた。かちんこちんに体が固まって、父親が体を動かすと、尿が漏れて地面を濡らした。
子犬の散歩は慎太郎の仕事だった。けれど遊び盛りだった慎太郎は、散歩を面倒くさがって、早々に切り上げることが多かった。
死ぬ数日前、子犬を譲ってくれた近所のおじさんにたまたまあった時、おじさんの犬と並んで、いつもより長めの散歩に連れ出した。その時「犬に元気がないね」と言われたことをよく覚えている。
慎太郎は元気がないことにすら気づけなかった。もっともっと長生きできたはずなのに、たった3歳で死なせてしまった。
慎太郎は後悔した。悲しかったし、情けなかった。その想いと死んだときのあの姿は、大人になった今でも忘れられない。
かつての愛犬の最期を思い出し、今、目の前を歩いているマロも、死を迎えるのだと改めて実感する。ある日突然動かなくなるのだ。もっと先だと思っていたものが、思いのほか、早くやってくるかもしれない。
目頭が熱くなり、表情が崩れそうになるのを、慎太郎は懸命にこらえた。滑稽な話だと思った。立派な大人を自負する自分が、犬のことで半べそかきながら歩いているのだ。社会人になってたいていの理不尽は飲み込んだり、受け流せるようになっていた。けれど愛犬の身に振りかかった病魔は、思いのほか強く、慎太郎の心を揺さぶった。
帰宅後、いつもと変わらない食欲でマロは餌に貪りついた。ここ数年は柴犬専用ドライフードを与えている。7歳以上の高齢犬にあわせて調合されたものだ。たまに食欲がない時は、鶏肉を材料にした犬用のふりかけを利用していた。
食事には気を使っているつもりだったが、それでも病気の発生を防ぐには至らなかったと思うと、無力感に襲われる。
ペロリと完食したマロが食事前と同じ、期待に満ちた目を向けてきた。慎太郎は冷蔵庫に保存しておいた『焼き芋』を取り出すとちぎって丸め、錠剤を入れて与えてやった。持病『気管虚脱』のお薬である。そのまま与えても苦い薬は吐き出してしまうため、芋などにくるんでやっているのだ。薬を気にする様子もなく、マロはつるんと芋を飲み込んだ。
食事を終えると、マロはお気に入りのクッションに移動する。日向ぼっこをしながらお昼寝し、ときどき眠る場所を変えては、次の散歩時間までのんびり過ごすのが、老犬の日課だった。
慎太郎はクッションの傍に腰を下ろすと、優しく愛犬の体を撫でてやった。マロは横になったまま、前肢をあげるとお腹を撫でるように要求してきた。慎太郎もそれに応えてやる。いいかげん撫でられるのに飽きて、マロが自発的に場所を移すまで続けてやった。
いつもの何倍もスキンシップをはかりながら、手術をするべきか否か、堂々巡りを繰り返すうちに、貴重な休日は終わってしまった。
その夜、不思議な夢を見た。
迷子の犬を保護した慎太郎が、様々な障害を受け入れて、それでも犬を飼うか否かの決断を迫られる。そんな荒唐無稽な夢だった。
夢の中で慎太郎は悩んでいた。その犬を引き取るか否か。決断が出ず悩みに悩んで、そこでふと気づくのだ。自分は既に犬を飼っていたはずだ。マロはどうしたのか。なぜマロがいるのに、別の犬が出てくるのか――と。
そこで夢だと気がついた。夢の中で夢だと気づく。そんな経験がしばしば慎太郎にはあった。気づいてしまえば目覚めることができる。悩ましい夢から起きた慎太郎は、すぐにマロの姿を探した。部屋の片隅、マロはクッションで眠っていた。
布団から起きだした慎太郎は、愛犬が息をしていることを確認した。
――よかった。生きている。
昨日まで当たり前だったことに、慎太郎は心から安堵した。同時に夢にまで問題が出てくることに、自分の神経が深くやられていることも実感した。
マロも目を覚まして、顔だけこちらに向けてきた。午前五時。外はまだ暗く、朝の散歩には早い。
「マロ、おいで」
慎太郎は布団に戻ると、掛け布団をまくってマロの名を呼んだ。
すると身を起こしたマロがやってきて、もぞもぞと布団に入ってきた。背中を慎太郎に押し付けるようにして腰を下ろすと、もともと自分の寝床だったかのように、体を丸めて眠り始めた。
人間より少し高い体温を感じながら、慎太郎はその背を撫でてやった。
全身麻酔の手術を行うリスク。
爆弾を抱えたまま過ごすリスク。
どちらかを慎太郎は選ばねばならなかった。
手術を選んで無事終われば何も問題はない。けれど目覚めなかったら、愛犬の命はそこで終わり。この生活も唐突に打ち切られ、終わりにしなければいけない。
何度考えても答えが出なかった。
まだ暗い中、慎太郎はスマホに手を伸ばすと、メールを打った。
件名は『相談したい』
宛先は、古田勇夫。ともだちだ。




