仮にを考えると。
物理学とは何なのだろうか。
存在を存在たらしめる思考の一つなのか。
真理は存在するのか。
実際真理は存在してもしなくてもよい。
真理は真理によって意義的に打ち消すこともできることもある。
F=maは物理学の発展に大きく貢献したが、それはあくまで人間が、物理を物理として見ようとしただけに過ぎないのかもしれない。
善悪は対になっていると考える。電荷も同じように。+と-。2極構造は人にとって、不可欠な存在だ。解釈はすべての事象を2極にすることができる。
逆に考えると、一つ2極化できると、それはどこまでも多極にする解釈も可能である。
だが、多極とは何なのか。
しかし、それが無限極になった場合でも、真理はひたすらに存在するかもしれない。
判然と、当然のごとく、そこにあるのかもしれない。
宇宙は膨張しているといわれる。膨張は時間とともに進行する。では時間とは何か。
光によって伝搬され、人間はものを把握できる。それは視覚的にだ。
もし仮に、この世に、最小単位が存在するなら、この世界を一からシミュレートすることも可能だ。
よく、学問の世界では、偶然にもこの値になっている物理的定数がいくつも存在する。
それらの大部分は理論的にまとめ上げられるが、その際、まとめる根拠とした原理の中にも、不可解な定数は存在する。
それが何を意味するのかは分かっていない。数の概念を揶揄するかのような事態でもある。
もしかしたら、この世の現状は、シミュレートされた結果と考えることも可能だ。
人間の挙動をも最小単位からして制御する。
あるいは、宇宙誕生以前の名残か。つまり宇宙は何かほかの系に影響されて生じた系なのかという問いだ。
影響を重視すると、すべて影響しているのかとも考えられる。
惑星の誕生から、重力の生成、人間が喋ること、すべてにおいて響きわたった状態。そしれそれは今もなお、人間の知覚を内包するように響いているのかもしれない。
いずれにせよそれらは、人間が見たから憶測できることである。憶測させられているのかもしれないが。
よく考えてみると、ミクロ、ナノ以下の最小に対する考えは一般的になってはいるが、最大に対する考えはそうとは言えないかもしれない
空間に対称性があるということは、ほかの概念にも対称性が存在することを意味している。
しかしもしかすると、空間は、真の意味で非対称なのかもしれない。
素空間などスケールに縛られているが、スケールが真理を決めている根拠はどこにもない。真理的にだ。
仮に次元が支配していたら、最小最大を考慮することは意味をなさなくなる可能性もある。
もちろんゼロではない。
より有意義なものだと考える一方、同時に、より無意味なものととらえることもできる。これは2極。さらに解釈に対する解釈を広げるとどうなるだろうか。
これが幾極にわたっても、真理はあるのかもないのかもしれない。数字では語れない領域に。