二人の少女の邂逅 1
「痛ぅ……」
目が覚めてすぐに胸を満たしたのは、何度も経験したが、なおも重苦しい落胆。また現実に戻れなかったのか、という思い。今回は神殿に行くことすらできていない。
「くそ、落下じゃ死なないのか……」
いまいましい気持ちをこめてつぶやきながら、身を起こす。その途端、着地した尻の下からみしっと不吉な音が聞こえた。
そういえば、と思い出す。
落ちる直前に何かを下敷きにしていたような気がする。これのおかげで死ななかったのだろう。痛みに顔をしかめながら足下を確認すると、魔物の頭めがけて落ちてきたことがわかった。
つぶれた魔物はリベネが退いた途端、ぱん!と光の粒に変わった。体重による一撃でノックアウトされていたらしい。こんな打撃方法でも殺せるのか、とぼんやり考えながら顔をあげると、目の前に立っていた長い茶髪の少女と目があった。
痛みに気を取られ、相手の存在に全く気がついていなかったので、率直な驚きを顔に浮かべてしまう。少女を数秒まじまじと見つめてから、リベネは視線をはずし、辺りを見渡してさらなる驚愕で息を飲んだ。
リベネが落下した場所は、壁と森の間にある道のようなところで、横幅は10メートルほどだったが、一面にゴブリンの死体がちらばっていた。遠くで横たわるものから順に光の粒となって消えていく。
全部、こいつがやったのか。
先ほどとは違った驚きを胸に抱きながら、どうにか表情を冷徹なものに切り替え、可憐な少女に目をやった。
栗色のふわふわとした長い髪の毛に、ぱっちりとした二つの目、そして愛らしい顔立ち。そして小柄な体躯に身につけた装備は、立派な装飾がほどこされたもので、いかにも高ランク剣士にふさわしいものに思えた。ランク2――いや、ランク3剣士かもしれない。剣はもう背中に仕舞ってあるが、少女の背丈と同じくらいのずいぶん大きな剣だった。
リベネが無言で見つめていると、今までずっとブリキの人形のように棒立ちの姿勢だった少女は、突如として体の動かし方を思い出したかのように動きだし、両手をぽんとうった。
「猫ちゃん!」
鈴の音のような少女の声にリベネはぽかんとなる、
何言ってるんだこいつ?
少女の視線はばっちりとリベネを捕らえている。きょろきょろとあたりを見ても、当然だが猫はどこにもいない。
落ち着かない気持ちになるほどの強烈な視線にたじろぎながらもリベネは口を開いた。
「あー…えっと、すいません。突然落ちてきて」
「どこから落ちてきたんですか?」
「あの壁の上からです」
背後にそびえたつチャパタの緑壁を指さして、むなしさを感じた。また戻ることができなかった。現実世界のVRルームがいっそう遠くに行ってしまったような感覚が生まれる。
そのときリベネは不意に赤クリスタルの存在を思いだし、慌てて肩にかけた鞄の中をのぞいた。雑多にしまわれたアイテムの中で大きな存在感を放つ赤クリスタル。最後の希望はちゃんとまだそこにあることを確認すると、ほっとため息をついた。
視線をあげると、再び少女と目があった。どうやらずっと見られていたらしい。なんともいえない居心地の悪さに、軽く一礼して去ろうとした瞬間、フロレスタが「ね!」と言いながら、リベネの服のすそを掴んで引っ張った。
「わたし、フロレスタ。あなたの名前は?」
「…リベネです」
「ふむふむ、リベネちゃん」
リベネの服のすそをぎゅっと掴んだまま、フロレスタという名の少女はぼうっとした表情でつぶやく。
「リベネちゃん。リベネちゃんかぁ……」
「はあ、リベネちゃんですが」
なにかがよほど嬉しかったのか、フロレスタが「えへ」とはにかみながら笑顔を浮かべた。それを見た瞬間、リベネの心にどかんと雷が落ちるような衝撃が走る。
なんだこの可愛い生物は。
同い年くらいの女性プレイヤーを見るのは珍しいことだった。
基本的に、VRゲームプレイヤーの性別の割合は、女性よりも男性の方が大きい。そしてアバターの年齢や性別、そして身長などの過度な操作をすることが禁じられているこのゲームでは、どうしても、女性の戦士というものが少なくなってしまうのだ。
リベネよりも少し身長が低く、あどけない顔立ちをしたフロレスタは、言葉をあまり交わさずとも年が近いのが伝わってきて、自然と親近感が持てた。
いや、親近感以上に、可愛らしいぬいぐるみを前にした時に感じる庇護欲に近しい感情が生まれる。しかしそう思う一方でフロレスタの背中で立派な存在感を放つ大剣を見ると、ただただ可愛いと素直に言うこともできなかった。
複雑な表情で黙り込むリベネを、フロレスタは上目遣いでのぞきこみながら、首をかしげる。
「リベネちゃんはどうして落ちてきたんですか?」
きらきらと輝くガラス玉のような瞳を前にすると、何故だかリベネは嘘をつくことができなかった。
「落ちて、死にたかったから…ですけど」
「どうして死にたかったんですか?」
「ちょっと色々あっただけです」
「色々ですかぁー…」
フロレスタは少し考えこむような表情で黙りこんでから、おもむろに服のすそを掴んでいた手を離した。そして何を思ったのか、リベネの頭をぽんぽんと撫で始めたのだった。
「よしよし、大丈夫、大丈夫♪」
子供をあやすような扱いに、無性に恥ずかしさがこみあげて、さっと身をひく。少し赤らんだ顔でリベネはフロレスタをにらんだ。
「い、いきなり何するんですか」
「嫌でしたか…?」
しゅんと足下に目を向けるフロレスタ。
可愛いけど、なんか調子の狂う相手だな。と思いながらリベネは首の後ろをぼりぼりと掻きながらなるべく優しく言った。
「あー…えっと、フロレスタさんが嫌っていうか、ただ撫でられるのが少し苦手で、びっくりしただけです」
そう言ってもまだフロレスタは落ち込んだ様子だった。かける言葉を探して唇の形をさまよわせ、結局リベネはずっと気になっていたことを聞いた。
「あの、ところで、さっきの猫ちゃん、ってなんですか」
質問を投げかけた瞬間、待ってましたとばかりにフロレスタが顔をあげた。ぱあああ、という効果音のついた、周囲に生える草木のつぼみが一斉に花開くような笑顔を浮かべている。可愛い。確かに可愛いけれど。突拍子もないことを言われそうだなという不吉な予感を抱き――そして、それは的中した。
「リベネちゃんが猫ちゃんみたいだな、と思ったんです♪」
不思議ちゃんオーラ全開のフロレスタがずずいとリベネに迫った。
「え、ど、どこが…」
「全部です!だからですね、にゃーって言ったらね、絶対に、すっごく可愛いんです!」
「はあ……」
「すっごく、ってこれくらいですよ、こーれくらい」
両手で大きく円を描いてから、フロレスタが宝石のようにきらきらと輝く目をリベネに向ける。だから、ね?という無言の圧力がリベネに襲いかかる。
「いや、絶対言いませんよ」
「一回だけ!」
「やです」
「お願い、一回だけ!」
「絶対にいや」
「おねがい、本当におねがい!」
「なんで」
「にゃーーー!」
「にゃーーとか言われてもしないから!」
むうと頬をふくらませたフロレスタだったが、唐突にさっと背後を振り返った。つられてフロレスタの視線の先を追う。どうしたんだろう、森の景色が広がっているだけなのに、と思った刹那。
どこからか、ケォーーンと獣のおたけびが響いてきた。
聞き覚えのあるその声音にリベネは眉をひそめる。
ケォーーン。その鳴き声を間近で聞き、そして胸の真ん中を冷たい牙で貫かれて絶命した記憶――それを思い出す。
「……たぶんアイスボアーの鳴き声だ」
「アイスボアー?」
「アルターヌの森に住む、ランク2推奨のイノシシみたいな魔物だよ。一度だけ会ったことがある。こっちに向かってこないといいんだけど…」
リベネが緊張しながら呟いた言葉は、彼女自身も気が付かないうちに敬語からいつもの口調に戻っていた。無意識の変化を気にした様子もなく、フロレスタがやたら楽しそうにうきうきと声をあげる。
「フロレスタが探査情報を確認しますねー♪」
探査とはフィールド上のどのあたりにモンスターがいるか、プレイヤーが把握できる技能のことである。レベルの低いリベネが持つ探査技能はほとんど使いものにならないが、高レベルプレイヤーになればなるほど、探査区域は広がり、視界を超えた先に何がいるのか知ることができるようになるそうだ。
装備から見て、おそらく高ランクプレイヤーだろうフロレスタは、目で見えない距離にいる敵を察知することができるはずだ。
情報を確認したフロレスタがうっそうと茂る森の奥を見据える。天性の愛らしさと人を振り回す才能を同時に持ち合わせた少女の瞳が鋭く引き締まる。唇にだけは楽しげな笑みを浮かべたまま、フロレスタが歌うような口調で高らかに告げた。
「3匹の子豚さんが、こちらに向かってます。“災害”前なので、とっても興奮状態にあるかと思いますが、ずばんっとお片づけしちゃいましょー♪」
災害って?と聞こうとしたが、フロレスタが背中の大剣を片手ですらりと引き抜いたのを見て、口を閉じる。
戦闘が終わった後で聞こう。足手まといになることはわかっていたが、リベネは腰の剣を引き抜き、魔物の襲来を待った。