天真爛漫な少女
都市を囲う、そびえたつ城壁。別名「チャパタの緑壁」
老朽化したその石壁は、積み重ねた石の表面のほとんどが苔で覆われているため、遠目に見るとくすんだ緑色に見えるのだった。
霧がかった道の中、この緑色の人工物をなんとか目印にして歩いてきた少女は、城壁の真下に着くと、ひやりとした石壁に素手で優しく触れた。目をつむり、夢見るような口調でつぶやく。
「チャパタ市さん、久しぶりです」
少女は手をひっこめると、城壁内に入る門を探すために、壁に沿って歩き始めた。背の高い草や茂みが延び放題になった、森の中のような険しい道を、彼女特有のバランス感覚を駆使して、スキップしながら歩き進める。
足を進める度にぴょこんぴょこんはねる少女の前髪と、背中に広がる長いふわふわの髪の毛は、毛先まで綺麗な栗色をしていた。ぱっちりとした琥珀の瞳で前方を見据えながら、うきうきと歩を進める。
ここはゲームの世界だとか、もう二度と現実に戻れないのではないかとか、運営陣に対する怒りとか―—そういうあらゆる負の感情と呼ぶべきものを、少女はすがすがしいほどに持ち合わせていなかった。ただ、目の前に次々と現れる光景を純粋に楽しんでいこうという気概のみを持って目を輝かせている。
この天真爛漫で愛らしいチンチラ猫のような少女が身につけているのは、柔らかな白い肌には似合わない、無骨な鋼の胸当て、すね当て、上質な革製の武具だ。どれをとっても大陸の中心都市でしか手に入らない、上級装備ばかりだった。おまけに、背丈とほぼ等しいような大剣を背負っている。
ふと、少女は足を止めて、首もとから下げた通信用クリスタルを手に取った。ふっくらとした胸を覆う胸当ての上で、クリスタルが青く明滅している。小さな手のひらでクリスタルを握ると、通信相手と繋がった。
『フロレスタッッ!!!!!』
声だけで人を吹っ飛ばしそうな怒号がクリスタルから発せられた。
フロレスタという名の少女は、慣れているのか、あるいは脳天気なのか、にこにことした表情のまま「はーい!」と元気よく返事をする。
『こちらマディスだ!フロレスタ、お前通信がきたら絶対に取れと何度も言ってるだろうが!」
「ちゃんと今通信してますよー?」
『い・つ・で・も、連絡はとれ!フロレスタ、俺が何度お前に連絡をとろうとしたかわかるか!』
フロレスタは、んーと首を横にかしげてから、ずばり!という感じで自信満々に回答した。
「2回!」
『18回だ!!!!』
「ありゃ、ちょっとおしかったですね…」
『なにひとつ惜しくない!』
ガトリング砲のように発射される怒鳴り声に全くめげた様子もなく、フロレスタは「ありゃりゃー」などと返事をする。
と、何かに気がついたのかフロレスタは顔をあげ、澄んだ瞳で、前方を見つめた。右側には延々と壁が続き、左側にはうっそうと茂る草や木々が立ち並んでいる。それ以外にはなにもない光景。
『で、無事にチャパタに近づいているのか』
通信相手が少し落ち着いて気遣うように質問すると、フロレスタは前方をじっと見つめながら、歌うような声で答えた。
「チャパタ市さんの前の森を歩いていますよー」
『アルターヌの森か。なら、その場で待機していてくれないか。この前俺達が討伐したアルターヌベアの出現頻度が異常に上がっているらしい。やはり“災害”が出現するのはこのチャパタで間違いない。ただ、いつ勃発するか分からないから、行動は慎重に―—』
「テル君はそこにいますか?」
通信ボイスを遮るように唇を開いた少女の声が、今までとはうってかわって平坦なものになる。何かを感じ取ったのか、通信相手がたじろぐように、一拍遅れて返事をする。
『いや、今は買い出しに行ってるが…』
「フロレスタは、アルターヌベアでのこと、激怒してます」
『う……それは……』
「本当に、本当に、怒っているので、覚悟して下さい」
そこまで言うと、フロレスタは背中に背負った大剣をすらりと抜き、どん!と剣先を地面に突き立てた。いつでも持ち上げることができるよう、柄を握りしめたまま、にっこりと笑う。
そして、「それでは!」とフロレスタは軽やかな声をあげた。
「フロレスタは壁のお外にいるので、中に入る門を探しますね。行ってきまーす!」
『お、おいっ、待て、フロレスタ!』
クリスタルから聞こえる声は、焦りで悲鳴のようになっている。
『壁の外は危険だと言ったろう!慎重な行動が一番だ!とりあえず俺と合流してから向かうのでも遅くは……』
「だいじょーぶ、だいじょーぶ♪」
はずむような調子で相手の言葉をさえぎると、ぶちっと通信を切った。そして、大の男でもふらつきそうな重量感のある剣を両手で持ち上げ、目をつむった。
バレエダンスでも始めるようにつま先をゆっくりと前に出し、地面に足を付ける。そのまま数秒フロレスタは止まった。
息を飲むような静寂の一時。
それから突然予備動作無しにひょいと右腕をふるい、空から襲来した巨大なコウモリを一撃で叩きのめした。見事な静と動の組み合わせ。それを涼しい顔で行った少女は黒い小さな経験値玉を割ってから、再び剣を構えた。
暗がりに隠れていた小さなゴブリンが一斉にあふれでてきたのは、その直後だった。アルターヌの森に住む、ゴブリンの群れ。それが人間の気配を感じてやってきてしまったらしい。総勢10匹以上の醜い魔物が手に棍棒を持ち、だらだらとよだれをたらしながら近づいてくる。しかしフロレスタが動じることはなかった。
まぶたをかっと開き、敵の群を見据える。踊るように足をふみだし、群れの端から襲いかかる。ひゅん!ずばん!ひゅん!ずばん!と華麗なステップを踏みながら、ゴブリンを切り刻み、うちのめしていった。
やがて、視界の前方右側から現れたのは、彼女の身長の二倍ほどもある巨大なゴブリンだった。群れのボスだろう。
襲いかかるミニゴブリンを切り刻みながら、透明なまなざしで接近する大きな敵を見据える。巨大ゴブリンはにいっと笑い、そして棍棒をふりかざそうとした―—まさにその時だった。
ずどん!とはるか上空から落下してきた何かが巨大ゴブリンの頭に直撃。ぐしゃりとその巨体を押しつぶしていた。
「うわーお!」
思わずフロレスタは足を止めた。
ミニゴブリンの残党を素早くぶちのめして剣を背中に背負いなおす。そして目をぱちくりしてその落下物を見つめた。
落ちてきたのは、さらさらの短い黒髪がよく似合った細い少女。腰の剣から彼女が剣士であるとはわかったが、全身の装備はフロレスタに比べると、かなりの安物ばかりだった。
一体どこから落ちてきたのだろう?相当高い場所からなのは確かだ。
ひょいと上に視線を向ける。目に映るのは空に向かってそびえたつは、高い高い“チャパタの緑壁”。
あの城壁の上から落ちてきたのだろうか?
なんのために?
「痛ぅ……」
黒髪の少女がうめき声をあげる。死んでいないのか、とフロレスタはさらに驚いて目を丸くするなか、「くそ、落下じゃ死なないのか」とかなんとか、顔をしかめながらつぶやいている。
ぽん、とフロレスタは手をうった。
この少女は、まるで、どんなに高いところから落ちても生き延びる、クールでキュートなあの生物のようだ!
ぱんぱかぱーん。唐突に思いついた発想の素晴らしさを讃えるように、高らかなファンファーレがそこら中から鳴り響いたような気さえした。
「猫ちゃん!」
鈴の音のようなフロレスタの声に、は?という顔で反応する、謎めいた少女。
彼女を見つめるフロレスタの目がきらきらと輝きだした。唐突な出会いに胸の鼓動が高まり始めていた。
*
そこから少し時間は前にさかのぼる。
運営陣からの連絡が書かれた紙が神殿内に張られてから、すでにゲーム内では二週間が経過していた。
「あのタコどもの×××を○○○してやったぜ!」
「てめぇにしては、最高にいかしてんじゃねぇか」
プレイヤー達が食堂内でげらげらと笑うのを聴きながら、リベネは机に1人で座っていた。ゲーム内は服装から街並みまで前近代的な見た目に設定されている。それに影響されたのか、なんとなく全体的に、プレイヤー達の言葉や仕草まで粗暴になってきている、とリベネは思っていた。
学生生活では聞いたことのない野蛮な罵り言葉を、短期間でたくさん覚えてしまったな、などと思いながらこれまでの生活をぼんやりと振り返ってみる。
情報を与えられたプレイヤー達の反応は分かれた。この状況を大いに喜ぶ者、憤る者、あの紙を信じることができない者など、プレイヤー達は自分と近しい考え方を持つものと情報を交換し、言葉を交わし、時にパーティーを組みながら己を鍛えていった。
初めの一週間は、いますぐ帰らせろとNPCに叫び続ける者や、状況を受け入れることのできなかった者が一定数いたが、やがて「現実に戻ることはできない」という真実を前に、プレイヤー達は段々と状況を受け入れ、ビュグルズ・ワールドでの生活を築きだし始めた。それができない者は、無気力に飲み屋の片隅で怠惰な時間を過ごすようになった。
初心者プレイヤー・リベネもまた、心の片隅にしこりのようなものを残しながらも戦士たる役目を果たし始めていた。
あたし達は戻れない。
日が経てば経つほど、現実味をましてくその事実に一度は涙したものの、リベネは一人で落ち着いてゆっくり考えた末に、あるひとつ結論に至ったのだった。
できるかぎり、あらゆる方法で死亡判定を食らい、システムの穴―—すなわち、現実世界に戻る術がないか探す。
もしいくら試しても無駄なのであれば、剣を最高位とやらまで鍛える。
そうと決め手からのリベネの行動は早かった。考えつく限りの死亡方法をリストアップし、次々とそれに挑戦していった。
魔物に頭から食われる、丸飲みされる、他プレイヤーの全力攻撃に巻き込まれる、炎に巻かれるなどなど……痛みに絶叫し、身もだえし、涙をにじませながらも、リベネはたった一人で試していったのだった。
死ぬたびに、「もしかして戻れたのでは」と希望を抱き、神殿の屋根を見て現実を突きつけられる。その繰り返しは、本人が思う以上に心にこたえていた。
「あと二つか……」
リベネは薄暗い大衆食堂でぼそっとつぶやいた。
彼女が握りしめた紙には箇条書きで死ぬ方法が羅列されている。試して現実に戻れなかった死に方にはチェックを付けてきたのだが、いつの間にか、挑戦していないのは、この二つだけになってしまっていた。
・赤クリスタルで自爆(クリスタル購入に金がかかる)
・高い場所から飛びおりる
メモを古びた木の机に置き、リベネは目の前に放置していた、野菜とチャパタウサギのポトフを食べ始める。とろとろに煮込まれた野菜の味わいが舌の上に広がる。素直に美味しいと思った。
クナイやあのアルターヌベア討伐のパーティーと出会ったら気まずいので、人気の少ない、チャパタのはずれにある食事屋に入ったのだが、意外と当たりだったのかもしれない。
プレイヤー達は「永遠の戦士」という立場なので、空腹で倒れることはない。何も食べなくても行動することができる。だが、娯楽の一環として、また、なんとなく生活リズム的に朝昼晩を食べなければ気が済まない感じがして、食堂などで飯を食べるプレイヤー達は少なくなかった。
ポトフを食べ終えると、「ごちそうさま」と律儀に挨拶して、皿をNPCに返す。
この食事ひとつをとってもわかることだが、この「ビュグルズ=ワールド=オンライン」というゲームの完成度が高いのはまぎれもない真実だった。
資金稼ぎのために、魔物と対峙し、それを倒した時は胸がどきどきした。レベルがあがって、お金がたまって、少しいい防具が買えた時は、やはり嬉しかった。リアルとゲームをいいとこ取りで融合した世界。ここにならずっといたい、と思えるかもしれない世界。
対して現実で待っているのは、高校の授業、話したい友達、見たいアニメ、気になるマンガの続き、母親の料理、いたずらっぽい姉……。
どれも大切なものだったが、それでも、この世界を抜け出すための決定的な理由になるのか、と言われたらよく分からなかった。リベネは、自分でもどうしてここまで必死になっているのかわからなかったのだ。それでも、理由は分からなくても、「もういいや」「ただただこのゲーム楽しもう」という思考放棄をしてはいけないような気がしていた。
「……よし」
リベネはメモを腰ポケットにしまい、険しい顔つきで店をでた。