初心者プレイヤー・リベネ 1
少女と剣が出会うよりも前に話は遡る。
*
クリスタルが青く明滅した時、リベネは深呼吸をしている最中だった。試験の前とか、人前で喋る時とか、とにかく緊張を和らげたい時は時間をかけて呼吸をするのがいいと聞いたことがあるからだ。
クリスタルのことを無視しようかと思った。少なくとも、深呼吸をしている間くらいは気づかないふりをしてもいいだろう。しかし、吸い込んだ息を吐き出し終える前に、リベネと共に低木の茂みに身を隠す少年―—名前はクナイといった―—が、親切にもささやいた。
「連絡、きてますよ」
「あー……本当だ」
紐を通して首からぶらさげていた青い発光物体を手にとる。形も大きさも口紅と同じくらいだ。
普段はクリスタルの名にふさわしく透き通った水色なのだが、今は光のせいで安っぽいLEDライトにしか見えない。プレイヤー登録と同時に神殿の老人に渡されたアイテムだ。君たち神の戦士に特別に授けられた、聖霊の力が宿っているうんぬんかんぬん……と設定を長々聞かされたが、一度使ってわかった。ようは、トランシーバーだ。
リベネはこの無料アイテムを貰ってからすぐに、ていやっと壁になげつけたり、げしげしと足で踏んだりしてみたが、どうやら衝撃では壊れない設定になっているようだった。火にくべた時も、『初期音声ガイダンス。精霊の宿りしクリスタルは、ぞんざいに扱っていいものではない』という声が脳に直接響いたわりに、結局燃えなかったのは印象的だった。
VRゲームのアイテムって不思議だよなあ、と思いながら、リベネはクリスタルをぎゅっと握る。すると、青い光が紫色に淡く移り変わった。通信先とつながった証だ。
紫色のクリスタルをそっと口元に寄せた、この少女のプレイヤーレベルは5。
『丈夫な服』と『ランク1』の剣、という初期装備を身につけた、まごうことなき初心者プレイヤーだった。
***
『ビュグルズ=ワールド=オンライン』
別名、BWO。
それは、VRMMOという人々の心を掴んで離さないゲームジャンル内で、企業がこぞって顧客を勝ち取ろうと切磋琢磨する中、最もクオリティが高いとうたわれているオンラインゲームである。
二年前のリリース直後からずっと、その世界のリアルさ、五感再現の完成度に高い評価を得続けている。
いくつかの課金アイテムは設定されているものの、基本的にはゲーム開始時におけるサーバー維持費数千円以外は無料で楽しむことができるゲームだ。
リアルさゆえ現実世界への支障を危惧して、現実と異なる性別選択禁止、身長・体重・年齢の過度な上げ下げ禁止、ゲーム内の死亡時には脳への負担軽減のための強制的帰還……などプレイへの障害や規制は様々あったが、アップデートを繰り返す度、世界はより洗練されていき、魅了される人々の数を着々と増やしていた。特に2度目のアップデートで追加された、現実における時間を数十倍に引き延ばしてゲームの中で過ごせるシステムにより、プレイヤー数は爆発的に増加したらしい。
魔法という概念のないBWOでは、プレイヤースキルのほとんどは用いる剣に付属されている。プレイヤーの強さを左右するのは「レベル」と「剣」なのである。
プレイヤーは皆、剣のランクアップのために日々戦っている。
魔物を倒すとプレイヤー自身に経験値がたまると同時に、剣のための「経験値玉」というものが出現する。その「経験値玉」を気の遠くなるほど無数に斬って剣を強化し、ついランクアップを成した時、剣はめざましく性能があがるからだ。
現在確認されているのは「ランク1」「ランク2」「ランク3」のみだが、それ以上ものランクもあるとまことしやかに噂されている。
今回行われたのは5度目の大型アップデート。“第二の人生、始まる”というキャッチコピーを軸に、新規プレイヤーを獲得するため現実世界では至る所で広告されていた。そして、プレイヤー名・リベネという少女もこのアップデートを機に参入した一人だった―—。
***
茂みの外に音が漏れないよう極力縮こまり、口元にクリスタルを近づける。
なにか用ですか、と言うと、申し訳なさそうな、そのくせ声量の大きな声がクリスタルの先端から発せられた。
『ごめんなぁ、しつこくて。リーダーからもう一回君達に確認をとるよう言われてさ!』
またか。面倒だなぁ、という思いを素直に表情にだしつつ、言葉の上ではてきぱきと答えた。
「ちゃんと言われた通りの場所にいますし、言われた通りに行動します」
『俺もそう思うんだけどねー!リーダーがもう一度作戦を確認しろって迫るんだよ!』
あーもー声がでかい。あんたの声で作戦が失敗したらどうする。
クナイも連絡の声の大きさに心配になったのか、茂みの外を気にしているようだった。リベネは早い口調で答える。
「敵が寝転がったら私達が最初に突撃。できるかぎり注意をひきつつ、脚部をねらう。その間にそちらが背中から攻撃。確認が必要なほど複雑なものではないと思います」
『だよな、俺もそう思うよ。じゃ、がんばってね!』
紫の光が消滅し、あっさり連絡が切られる。ふう、とため息をついたところに、隣からの声が重なった。
「リベネさんは、こういうゲームに慣れてる方ですか」
クナイの声だった。
彼もリベネと同じで、このビュグルズ=ワールド=オンラインを始めたばかりのプレイヤーだった。ふわふわの金髪に白い肌、童顔な顔つきは、ショタ好きのお姉さま達の心を鷲掴みにするような見た目だったが、多分、高校生の私よりも年上の人が動かしてるアバターなんだろうな、とリベネは思っていた。
物腰柔らかな彼は、自然に丁寧な言葉遣いができる人で、このパーティーに誘われた時も大人っぽくにこにこと話を進めることができていた。警戒心むき出しで対応していたリベネは、そのとき、自分の子供っぽさをなんとなく見せつけられたような感じがして恥ずかしかったのを覚えている。
「いや全然。これが初めてのオンラインゲームです」
「えっ、そうなんですか。きびきび反応してたから意外です…」
「クナイさんは?よくやります?」
「俺ですか?めっちゃやりますよー。ただ、リアルではかなり運動音痴なので、このBWOみたいな肉弾戦あるVRゲームはあまり手を出したことがなくて…」
「へえー」リベネが淡々と言う。「あたしもリアルじゃインドアですよ。部活も美術部で……」
「部活!」クナイが目を丸くしてリベネをまじまじと見つめる。「へえ、リベネさんは学生ですか。いいですねえ」
彼の視線にいやな感じがする何かを感じ取って、リベネはほんの少し身を引き、目をそらした。黒髪で細身のこのアバターは、リアルの自分の容姿に似せて作ったものだ。
むきだしの肩などに彼の視線を感じて、もっと本来の自分と全然違う見た目にすればよかったかも、となんとなーく後悔し始める。
「はあ…どうも」
「もしかして、女子高生、みたいな?」
その質問に、ますます気味の悪いものを感じて、嫌な気分になる。女子高生がゲームして悪いかよ!と威嚇しそうになる自分を、冷静な自分がなだめる。
「まあ、そうですね」
クナイはなにか言いたげだったが、少女のぶっきらぼうな返事によって会話はいったん途切れた。
リベネはむすっと黙ったまま低木の茂みに顔を近づけて茂みの向こう側をのぞきこんだ。茂みの干からびた葉っぱが鼻先をちくちくと刺してきて、リベネは顔をしかめる。この絶妙な不快感を仮想世界で作り出せるんだから、現代の技術はあなどれない。
そう。ここはゲームの中の世界だ。けれども、電子上の五感で触れる世界はリアルをほぼ再現している。
だから痛いのは嫌だし、死ぬのがわかってて突撃するのは恐怖を伴う。それはランク2だとかランク3のあいつらは、私たちよりもよーくわかってるはず。念押しの連絡を何回も何回もしてくるのは、私達が土壇場で逃げ出しそうな雰囲気がないかどうかのチェックだろう、きっと。――そんな限りなく確信に近い予想は胸の内に閉まっておく。
のぞき込んだ枝と葉の層の先、まばらに立つ木の向こう側で、背中に剣山のようなたてがみを持った、全長3メートルはあるだろう二足歩行の巨大なクマが、眠たげにふらふら歩いていた。じいっと目をこらすと、頭蓋骨の内側で電子音が響く。
『アルターヌベア。剣ランク3推奨』
やれやれ、と空の方向を仰いだ。
ランク1の剣を持つリベネがあのクマに攻撃をすることは、ミジンコが鮫に勝負をいどむのと同じくらい馬鹿げている。リベネは剣ランク1推奨のモンスターですら、倒すのに手間取るレベルで、ランク2推奨相手ですら瞬殺されてしまうこと間違いなしなのだった。だというのに、あのクマは滅多に見ることのない、もっとも凶悪なランク3推奨の魔物だ。一歩近づいただけでもう殺されそうな気がする。
聞くところによると、あのクマはアルターヌの森の最奥部で朝から晩まで眠っているのが常らしく、こいつが森の浅いところ―—一般市民も立ち入るような場所にでてきているのは例外的かつ異常な事態なのだそうだ。
リベネがゲームをはじめて最初に降り立ったさびれた城郭都市チャパタで、NPCの市民は明らかに対応に困っていた。ランク3の剣を持った戦士なんて滅多にいないのだ。大陸中央部から離れたこんなところでは、特に。
しかし、どういうわけか、偶然ひとつのパーティーがこのクソ田舎にやって来ていたのだった。ランク3の男二人、ランク2の男一人の計三人メンバー構成。アルターヌベア以上にチャパタには似合わない顔ぶれだった。
その実力のある彼らが、剣の振り方をようやく覚えたばかりのリベネやクナイを、何故クマ討伐パーティーに執拗に誘ったのか。誰も意図を読めず、首をひねったものだった。リベネも、この男も。
作戦を伝えられるまでは。