第一章 戦場 -3-
動物は巣を失くしても、存外、あっけなく新しい住みかを見つける。それは人にとっても同じようで、何もかもを失ってこの世界に放り出されたソラにも、二年もいれば帰る場所というものが出来た。
リアと出会ってから数日後のこと。国境から四十キロ以上離れた都市『ケズウィック』に戻って来たソラは、ほとんど家のように滞在している宿屋兼酒場の扉を開いた。
ぎぃっという扉なのか床なのかが軋んだ音をくぐり抜けると、さすがにもう夜だけあって、仕事で疲れた商人やら職人やらが飲んだくれていた。
「いらっしゃい! ――ってあんたか」
活気溢れる挨拶かと思えば、途端にしぼんで舌打ちでもしそうな声に変わっていた。
癖っ毛の黒髪を束ねた、この店『黄金の大鷲亭』の女主人――フローラ・ライトである。何人か従業員を雇ってはいるが、ほとんど一人で切り盛りする凄腕でもある。
まだ二十代前半の若くて美人な女性なのだが、酔っ払い連中を相手に鍛え上げられたのか、喋りも性格も男勝りになってしまっている。
「客を差別するのはどうかと思うよ、フローラさん」
そう言いながら、ソラは丁度空いていたカウンターの席に腰かけた。
「あんた、いつまでうちの宿に居座る気な訳? いい加減出て行ってよ」
「お金はきっちり払っているけど」
「長期宿泊向けの客の割引を多用しまくってるくせに何を言ってんの。回転率悪くて利率下がるんだけど」
「どうせ満室になったこともないし、いいじゃないか。――それより、ビールと適当にご飯を貰えるかな」
「……はいはい」
まだ何か言いたげだったフローラは、諦めたように目の前の調理場で肉や魚を焼き始めた。その間が暇なのかそれともサービスの一環なのか、彼女はふと適当に会話を振ってきた。
「そういやあんた、傭兵の仕事はどうだったの?」
「ひどい雑な作戦だったよ。まぁ日当はちゃんと出たから文句はないけど」
辟易したようにソラは答える。こうしてソラが早々に街へ戻って来たのも、その雑な作戦のせいだ。
ソラたちが本陣へあの森で竜の襲撃があったことを伝えると、本陣は焦り始めていた。どうやら向こうは竜の動きがなかった為、勝手に撤退したと思い込んでいたようなのだ。それも仕切る騎士の言葉を聞かず、傭兵たちだけで勝手にだ。
今は想定外の個所から竜の襲撃に対して、慌てて正しい情報収集をしながら、上位騎士自らが前線へ出て、作戦を立て直そうとしているらしい。その間の給料を払う訳にもいかない為に、傭兵のいくらかは一時的ではあるがお払い箱という訳だ。
もちろん車などあるはずもなく、道が整えられていないこの辺りでは馬に乗る訳にも行かず、ただ街へ帰るだけでも一日二日かかる始末だった。しかし当然、移動中の食費や宿代、交通税などの金は出ない訳だから、余りに短時間の作戦は傭兵として割に合わない。
竜の存在を報告し、かつ屠ったことに対し、ボーナス的に報酬が少し上乗せされて支払われていなければ、ソラとしても納得できなかっただろうほどの適当さだ。
「ほいよ、お待たせ」
イライラし始めていたソラにタイミングよく、フローラは簡単に肉や魚を焼いただけの料理とパンを差し出した。木皿の上の料理たちは文字通りの山盛りで、木製のジョッキには色の濃いビールが並々と注がれている。この世界の基準で照らしても十人前、元の世界でもさして変わらないほどの人数で食べるような量だ。――これが全て、ソラが一人で食べる量だ。
「毎度思うけど、その細っこい身体のどこに入るんだろうね」
「傭兵の仕事はお腹が空くんだよ」
適当にうそぶいて、ソラはがつがつと食べ始める。正直なことを言えば、調味料などがまだ発達しきっていないこの世界の食事は、ソラが元々いた世界に比べれば味気はない。しかし、慣れてしまった今では十分に美味に感じられる。それだけの味でこの量が中銀貨三枚――おおよそ三千円――で食べられるのは、この店の主人、フローラの手腕によるものだろう。
素直にソラが舌鼓を打っている間も、店の喧騒は絶え間なく続いた。酔った客がいつものようにフローラにセクハラをかまし、手ひどく痛めつけられて笑いが起こる。各々が好き勝手に騒いでいる卓もあるし、ソラのように食事に没頭している人もいる。
だが、その喧騒の種類が僅かに変化を見せた。
多少どころでなく下品だった笑い声が止み、どこか歓声にも似た色合いが混じっているのだ。
「ん?」
食事に夢中だったソラも、パンを頬張りながら後ろを振り返る。すると店の客のほとんど全員が入り口の方を注視していた。
「――おぉ! やっぱりここにいたか!」
むさくるしい男の山を割るようなその可愛らしい声に、ソラは確かに聴き覚えがあった。
酔った男どもをかき分けて現れたその相手は、白いワンピースに身を包み、黒のリボンで結った金色の髪を揺らす可憐な少女だ。
見覚えがあるなどという話ではない。
一度は全裸まで見てしまった少女――リアトリスである。
「……リア。何でここにいる?」
「お前を追って来たに決まっているだろう?」
さも当然のように答えるリアだが、ソラにはそんな理由に皆目見当がつかない。
「……報酬はきっちり等分して支払われているはずだけど」
「誰もそんなことを言いに来た訳じゃない」
むっとした様子で、可愛らしくリアは頬を膨らませる。その余りの可憐さのせいか、酔った連中が訳もなく盛り上がっている始末だ。
「じゃあ、いったい何の用だ?」
「礼を言いそびれたと思ってな。――この間は、竜から私を助けてくれてありがとう。おかげで命拾いした」
「……仲間を見捨てる気はないよ」
その礼に、ソラはただ短くそう答えるだけだった。
少年だったとは言え、ソラは仮にも軍隊に所属していた。軍規に従えば、仲間を見捨てなければいけない場面もあった。二年前の最終決戦でも、出撃できずに多くの者を見捨ててきた。
しかし、だからこそ何に縛られることのない今、そんな後悔はもう抱きたくなかった。そんな理想を掲げることが許されるのだから、それにしがみつきたかっただけだ。
だから先日の河原での戦闘は、リアを助けた訳ではない。ソラが、ソラ自身の理想を守ったに過ぎない。
「うむ。やはり気に入った!」
その返答に気を良くしたのか何なのか、リアは一人満足げに頷いている。その顔は少し、興奮しているようにも見える。
「用が終わったなら帰った方がいい。酔っ払いだらけで危ないし」
ソラが言う間も、ひげを蓄えたオッサン達が唐突に現れた若い美女に鼻の下を伸ばしている始末だ。今はフローラが納めてくれているが、馬鹿騒ぎに発展する未来は見えている。
「いや、用はまだあるのだ」
彼女はにやりと笑う。
まるで何かを企んだ少年のような笑みだった。
「私と傭兵団を組もう!」
声高々に彼女はそう宣言する。
傭兵団。文字通り、傭兵の集団だ。この世界において、傭兵が一人で食べて行くのは難しい。仕事を集めるのもそうだし、武器の整備もなかなか上手くいかない。だから寄り集まって、よりそれらを効率的に行う為に結成される。
傭兵団を組むことそのものには、ソラにだってメリットがある。だが、ソラは「うへぇ」という顔をするだけだった。
「……断る」
「何故だ? お前の腕は素晴らしいものだし、その心根も非常に好感が持てる」
「俺にメリットがないだろう。言っておくけれど、俺から見れば君はただのド素人だ」
「う、うむ……。まぁそうなんだが……」
「そういう訳だから――」
「ならば、次の戦で私の腕を証明しよう! だからそれまで暫定的に組もうではないか!」
きっぱり切り捨てようとするソラに対し、めげる様子もなくリアは更に食いついてくる。
「……まさか、今度の戦にも出る気なのか……」
「まだ私の実力を見せていないからな」
どこから来る自信なのか、リアの方は自分が優れた傭兵であるということを疑っていない様子だった。その豪胆さだけは、評価に値する。
「……君の言っていることは、要するに、傭兵団として俺と一緒に組むことで、野営だとかの基礎知識を教えてもらおうってことだろう?」
「……さぁ、暫定的に組もうではないか!」
「会話を巻き戻したって意味はないよ」
さらりと聴かなかったことにしようとするリアの額に、だらだらと汗が流れている。分かりやす過ぎるほど、図星を突かれたらしい。
「傭兵団は組まない。悪いけれど、それは君が相手じゃなくても同様だ」
ソラはそう答えて、木皿にナイフやフォークを置いた。
「ごちそうさま、フローラさん」
「はいはい、料金はまた今度、まとめて払ってくれればいいから。――それで、さっさとその子、外に連れてってくれない? この酔っ払った馬鹿どもが騒がしくて仕事にならないのよ」
「了解した」
そう言って、ソラは少し呆れたようにリアの手を引いて外へと連れ出す。何故かソラとリアの関係を誤解したオッサン連中がはやし立ててくるが、さして気にもならない。
「宿までは送るよ。どこ?」
「お前が傭兵団を組んでくれると言うまで、私はお前から離れる気はないぞ」
「……なるほど。それは困った」
冗談めかしてソラは答えたが、実際、ソラとしてもそれは非常に面倒なことになってしまう。
先日、竜と戦ったときに使用した高周波ナイフ。あれは充電式の武装だ。出来るなら山奥に隠したゼクスクレイヴの元へ行って、早いところ充電してしまいたい。
だが、このまま彼女に密着されていればそれは出来なくなる。必然、次に傭兵の仕事があったとき、ソラの身を守る武器のグレードが大幅に下がることになる。
「ならば、早々に傭兵団をだな――」
「よし」
リアの言葉を遮って、一人で結論を出したソラは、その場で屈伸運動をし始める。傭兵の荷物の大半は店の前に置きっぱなしだが、今のところ問題ない。フローラの店に来る人たちならば盗んだりする心配はないし、盗まれて困るようなものも入っていない。
腰に高周波ナイフを差していることを確認し、ソラはその場で重心を低く落とす。
「……ソラよ。いったい何を――」
「全力で逃げる」
短く答えた直後、ソラは地面を蹴りつけた。
宵闇の中に砂煙が舞う。元々軍人だったソラは体を鍛えていたし、この世界で戦う為にも回避力――すなわち脚力は更に鍛えてきた。
一瞬でトップスピードに達したソラは、未だ事態を呑みこめていないリアを置き去りにして路地裏へと入った。ぽかんと口を開けていたリアが「はっ!?」と気付いた頃には、ソラの姿は闇に紛れて消えている。
リアの脚力は先日の河原でも見ている。おそらく、あの身軽さならソラとも遜色なく競えるだろう。だがこうして虚を突かれスタートに差がついている今、それを覆すのは容易ではない。
まして、この街はソラが二年間過ごしてきた、ある意味で庭のようなものだ。頭の中にある地図を頼りに、次々と建物に身を隠すようにターンを重ねていけば、もうリアはソラの姿を見つけられない。
あっという間に街の端まで来たソラは、後ろを振り返りリアが追ってきていないことを確認すると、そのまま森の中へと足を踏み入れるのだった。