第一章 戦場 -2-
じんじんとした痛みが、頬にいつまでも残っていた。
砂利の上に座らされ後ろで手を縛られたソラと、赤い顔でしかめっ面をしている少女の視線が交差している。
彼女は流石にもう着替えを済ませ、白いミディ丈のワンピースのような服に身を包み、足にはしっかりとしたレザーのブーツを纏っている。残念ながら、先程の目を奪われるような格好ではない。だが、少女の金糸のように美しい髪は濡れた肌にぴたりと張り付いていた。それだけで、先程の光景は嘘ではなかったのだと思わされる。
「……名を聞かせてもらおうか、覗き魔よ」
可愛らしい声で、しかし今はドスを利かせて、彼女は言う。その端正な顔は、羞恥と怒りで染められていた。端的に言えば、すごく恐い。
「覗き魔じゃない、傭兵だよ。名前はソラ・ミツルギ。ここで見張りをするように言われてきた。見てしまったことは素直に謝るけど、誓って、君がここにいることは知らなかった」
流石にこの手の不名誉は、時代や世界が違おうとも変わらない。むしろ宗教的に淫らな行いが禁じられているこの世界の方が、よほど重い罰になる。是が非でも誤解を解かねばならない訳だ。
「……傭兵だと?」
その単語に、彼女が興味を示す。
その様子を見て、ソラはしまったと思う。嘘はひとつもついていないが、しかし、こんな戦線から外れた場所に傭兵が姿を現す理由は考え難いだろう。かえって不信感を抱かせてしまったか、とソラは心の中で舌打ちした。
「あぁ、確かにこんなへんぴなところに、一人で傭兵が来るのもおかしな話だろう。けど嘘じゃない――」
「私もだぞ」
「……………………はい?」
「だから、私も傭兵だ。リアトリスと言う。ここで竜が攻め入ってきた場合、即座に本陣に連絡するよう仰せつかった」
その言葉を受けて、ソラはじっくりと彼女の容姿を見る。
美しい黄金色の髪、ガラス細工のような瞳、透き通るほど白い肌に、折れそうなほど華奢な身体。スレンダーではあるが筋肉質ではなく、おおよそこの世界のどんな女性と並んでも、彼女だけが視線を集めることだろう。
「……失礼を承知で尋ねるけど、歳は?」
「二週間ほど前に十六になった」
「……年端もいかない女の子が、傭兵を?」
「もう既に成人だ!」
ぷくっと頬を膨らませて言うが、その様はどう見てもただの少女である。少なくとも、傭兵なんて血生臭い仕事は到底似合わない。
だが、こんな場所に農民や商人がやってくるとも思えなかった。漁師ならまだありそうだが、網も竿もないのだからその線もない。ましてや貴族が護衛も連れないこともないだろう。職業の多様性も少ないこの時代では、必然的に、彼女が傭兵の仕事で来たということになる。
「……そうか、要するに外れくじか」
そう納得して、ソラはため息をつく。
どこの馬の骨とも知れない男に戦果を上げられたくなかったとは言え、傭兵を仕切っていた連中も流石に、一人で見張りを、などという無意味な役職にはしなかったのだろう。まだ少女で傭兵気取りの彼女ともども、へんぴな森の奥へ引っ込んでいろ、という指示だった訳だ。それにしても、連絡は行き届いていなかった訳だからひどい話ではあるが。
「どうやら、君と俺は仲間だったようだ」
「そのようだ」
「だからこの縄は解いてくれないか?」
「しかし覗きは女の敵だぞ」
じとっとした目で睨まれれば、ソラはもう何も言えなくなる。事故や過失とは言え、ソラの方に非がある以上、文句を言えば心証が悪くなる一方だ。
「……ごめんなさい」
「それでいい」
うんうんと納得したように頷いて、彼女はソラの背後に回って腕の縄をほどいてくれた。案外、素直で優しい子なのかもしれない。
ようやく自由になった腕を回し、関節などをなじませながらソラは辺りを見渡す。
「それで、リアトリス。野営の用意は出来てるのか?」
「うん? 野営?」
きょとんと首を傾げる彼女に、ソラは更に深いため息をつく。
「いい。そこで髪でも乾かして待ってなよ」
そう言ってソラは背負ったリュックの中にしまってあった長い棒と麻紐、帆布を取り出し、手際よく野営の為のテントを組み上げていく。この世界に来る前は野営のときもゼクスクレイヴの中を寝床にしていたのだが、二年もやっていればこの手の作業にも慣れたものだ。
「おぉ、なるほど! 確かにこれは必要だ」
出来上がった簡易的なテントに、彼女が感嘆の声を上げる。その瞳はどこかキラキラしていて、ソラとしても悪い気はしなかった。
「今日と明日だけ見張っていればいいらしいし、特に問題はないだろ。まぁ食事がちょっと難しいが」
「ふむ、誉めて使わす!」
「何で野営も知らなかったのに偉そうなんだよ……」
彼女の態度に少々呆れながら、ソラは森の入口で拾っておいた枝を敷いて火を起こす。その様子すら感心したようで見るものだから、いよいよもって彼女が本当に傭兵なのか怪しく思えたほどだ。
「……リアトリス。何にも知らないのか?」
「リアで良いぞ。――まぁ何も知らないな。何せ初陣だから!」
何故か胸を張って誇らしげに答える彼女だが、全くそんな場面ではない。むしろこんなド素人で、よく傭兵として雇ってもらえたものだと感心するほどだ。
「……向いてない気がする」
「向いているかどうかは関係ないよ」
率直なソラの言葉に彼女――リアは、まっすぐにそう言った。ソラの言葉を不快に思った様子はまるでない。
「私はな、騎士になりたいのだ。しかし貴族の出でもない人間が騎士になるには、まず傭兵で戦果を上げねばならんと聞くじゃないか。だから私はこうして傭兵になった訳だ」
高く昇った日のおかげでそこそこ乾いてきたのか、長い金髪を黒いリボンでポニーテールにくくりながら彼女は笑ってそう言っていた。
可憐だと、素直にソラはそう思った。
その美貌もそうだが、それよりも、自らの夢をこうも楽しげに語る様が、ソラにはとても眩しいものに思えた。
それは、ソラがとっくの昔に失ってしまったものだから。
「……なれるといいな」
「うむ。なるさ」
ソラのその呟きに、リアは笑顔で頷いた。それがあまりに眩しくて、ソラは思わず顔を逸らしてしまう。
きっと、どこかで似ていたのかもしれない。
絶対に勝とうなんてそんな不可能な希望を語り、ソラの手で散っていったあの少女と。
「――っ」
思わず、歯を食いしばってしまう。
もう二年も前のことなのに、あの日のあの瞬間の映像が、瞼の裏に焼きついて離れない。指先に僅かに返ってきたあの感触が、今でも皮膚の上を這いずり回っている。
「……ソラよ。どうかしたか?」
「何でもない。それより、見張りをどうするか決めないとな」
「……うむ。それなんだがな、それより剣を取った方がいい」
そう言って、リアは傍らに置いてあった簡素な片手剣を握った。長さは一メートル程度で、やや幅広の直剣だ。
「竜が来る」
そう言ったと同時、ソラの耳にもようやくその音が聞こえた。
まるで四駆で森を無理やりに横断するかのような、嫌な破壊音だ。酷く耳障りで、同時に、恐怖を与えるだけの力が秘められている。
「……リア、耳いいんだな」
「潜って遊んでいなければ、ソラに見られることもなかったくらいには」
そう答えるリアの横で、ソラも腰から大型のナイフを引き抜いた。
禍々しいほどの黒に塗り潰された、刃渡り四十センチほどのサバイバルナイフ。峰の部分は相手の武器をへし折る為に櫛状になっている。
それは、ソラが向こうの世界から持ち込んだ武装のひとつだ。
「……そんな小さな武器で戦う気か?」
「問題ないよ」
そう答えて、ソラは音がする方向へ向いて構えていた。殺気と戦意を研ぎ澄ませて、自らさえも刃へと変えていく。
やがて川を跨いだ向こうの森から、それは姿を現した。
五メートル近い体躯を誇る、本来は存在しえない爬虫類。――すなわち、竜だ。
鈍い刃のような牙をぎらつかせ、瞳孔は爬虫類らしく細く射抜くようにこちらを見つめている。身を覆う鱗は、一枚一枚鍛え上げた鋼のようだった。
「賢竜じゃなくて、下等竜か……」
賢竜であれば、今のソラたちに勝ち目などない。即座に撤退あるのみ。身ひとつで火を吹き空を駆け抜ける獣を相手に、ただの人の身で敵うはずがないからだ。
だが、眼前に立つのは下等竜だ。見た目こそ賢竜との差異はないが、その体躯と筋力だけが恐れるべきであって、危険度で言えば象や獅子と大差はない。
それにもかかわらず、思わずごくりと唾を呑んでしまう。
二年間傭兵として過ごして来たソラだ。かなりの頻度で戦場には赴いているし、その都度、こんな竜とは何度も何度もぶつかり合ってきた。
それでも、身体は竦んでしまう。
この身に刻まれた本能が、あれと戦っては命がないとそう叫び散らす。
「私が出る!」
そう言って、鎧も身に付けずにリアが先に飛び出した。
濡れた剣を振りかざし、川を跨いでリアは駆け抜けていく。
「――っ待て!」
遅れてソラも追いかけるが、鎧の有無のせいで追いつけない。向こうの世界でもこちらの世界でも、相当に身体を鍛え上げてきたつもりだったが、彼女の身軽さは反則級とさえ思えた。
瞬く間に竜の懐に入り込んだリアが、剣を振り抜く。
だが、その剣閃は竜の鱗に弾かれた。
「な――ッ!?」
リアはそう驚くが、しかし当然だ。
竜の鱗はそう容易く刃を通さない。基本的に、竜との戦闘で用いる武器には毒を塗り、目や口内といった鱗のない場所を狙うのだ。
「そんな……っ」
驚愕しているリアは、回避すら忘れて呆然と立ち尽くしていた。そんな隙を見逃すはずもなく、竜がその太い腕と鋭い爪を持ってリアを薙ぎ払おうとする。
「本当に素人だったんだな」
間一髪で間に合ったソラは、リアの腰を抱えて即座に離脱する。風を切ったその爪が、ソラの背中を掠めそうになるが、何とか無事だ。
「竜を相手に鱗に直接攻撃なんて何を考えてるんだ」
「……あんなに堅いとは思わなかった」
「もういい。とりあえず下がって、鎧を着てろ。あっても大した役には立たないけど、ないよりマシだろうし」
リアに言うだけ言って、ソラはサバイバルナイフを構える。
ソラの身を包む鎧は、チェストプレートやグリーブだけの簡素なものだ。これは何も、傭兵で金がない為にこんな格好をしている訳ではない。基本的に、騎士であろうと、これと似たり寄ったりのものになる。
理由はひどく単純だ。
軽いものでも体重が三トンを超える巨躯から繰り出される打撃など、鎧をいくら着こんだところで意味を成さない。それならば、余波程度は防ぎつつ回避に徹した方がまだ生存率が高い。
だから、この世界での鎧は簡素なものになっている。回避の妨げにならない為だ。おそらく時代が下っても、全身甲冑のようなものは生まれないだろう。
「……まさか、私が鎧を着る間、一人で戦うと?」
「戦果が欲しいなら山分けでも譲渡でもいい。日当の前金は貰ってるし、勝ちさえすれば残りの給料は貰える」
「そういう問題ではない!」
「いいから、下がっててくれ」
そう言って、ソラは竜へと立ち向かった。
振り下ろされる腕の軌道を予測し、難なく躱す。反撃に出るほどの隙はないが、それでも巧みなステップだけで竜を翻弄していた。
伊達に二年も傭兵をやってはいない。まして、元の世界でも軍人だったのだ。たとえ機械の塊に乗っているだけだったとしても、個人の戦闘訓練を欠かしたことはない。
その上、あの『ゼクスクレイヴ』の大気圏内での最高速度は時速千キロ近い。流石にそんな速度で戦闘はしないが、それでも、そんな速度を繰り出せる機体を操って来たのだ。反射神経だけで言えば、常人のそれを遥かに凌ぐ。
やがて、振り回され続けて僅かに消耗が見えた隙に、ソラは竜の懐へ入り込む。
竜自身の足を踏み台にして飛び上がると、ソラは先ほど叱責したリアのように、そのまま鱗に覆われた首に対して刃を当てた。
しかし、引き起こされた結果は正反対だった。
鱗が容易く切り裂かれ、赤黒い血がまるで噴水のように噴き出す。
自らの身に起きた事象が認識できないのか、竜は咆哮を上げてもがき苦しむ。だが、首の動脈を掻き切られているのだ。竜であろうとも、今さら何をしたところで助からない。
高周波ナイフ。ソラのいた世界の支給品としてはありきたりな、振動によって全てを断ち切る武装だ。たとえ竜の鱗であろうと斬り裂けない道理はない。
血の海へ沈んだ竜の心臓へ、もう一度そのナイフを突き立てる。分厚い鱗を容易く貫き、その刃の一撃で鼓動は永遠に止められた。
「終わりだ。――さて、リア。さっさと荷物を畳んで本陣へ戻るぞ。見張りの仕事は終わりだ」
「う、うむ」
返り血で真っ赤に染まったソラに、リアは僅かに畏怖したようだった。だが、どこか嬉しそうにも見えた。それの意味が分からなくて首を傾げるソラだが、リアは何も言わずに支度を進めてしまうのだった。