第一章 戦場 -1-
あの日から、もう二年の月日が流れていた。
なぜ生きるのか。それは分からない。だが、生きようと活動している間は、アイリのことを考えずにいられた。元いた世界への郷愁や後悔で心が押し潰されるようなことは、そのおかげで次第に減っていた。
最初の数週間で、ソラはこの世界で暮らすのに必要なものを揃えていた。
まず始めに必要だったのは言語だった。そして、これが思いの他に大きな壁となっていた。英語と日本語しか喋れないソラだが、この世界の住人の喋る言語は、ソラの世界にあったいずれの言語でもないことだけは分かった。
どうにかこうにかジェスチャーだけで自分が行き倒れ寸前の人間であることを説明して、日雇いの職業を斡旋してもらうのにさえ、数日かかった。持ち込んだ携帯食料がなければ、この時点で相当に追い詰められていただろう。
どうにか金を得たあとは、いくらか楽にはなった。
寝床として宿も借りられたし、この世界に見合った麻と綿の混じった服も一式買えた。食事は安いパンとワインだけだったが、それでも衣食住は賄えた。言葉を覚えるまでの間としては、十分すぎるほどの用意が整えられた。
そうして教会の手伝いやら酒場の荷運びやらで、その日暮らしの生活を続けながら言葉を覚えていく中で、ソラはこの世界についての理解を深めていった。
ひとつは、ここ――ナヴィガトリア大陸の文明レベルは中世ヨーロッパ程度ということだ。
ただし古代ギリシャのように、上下水道などが完備されていて、衛生レベルは高いと言ってもいい。だからこそ、タイムリープのような現象ではないと暗に示されていた訳だが。
もうひとつは、竜の存在だ。
この世界には、竜と呼ばれる巨大な爬虫類が生息している。それも、賢竜と呼ばれる種は、人間と変わらない知能を持ち人語を話し、あまつさえ、賢者の名に相応しく、魔法や錬金術のように、おおよそ物理法則を超えた所業を成せるとすら聞いた。
その賢竜と人間の間で、延々と戦争が繰り広げられているのだ。
賢竜には知能はあれども知恵はないらしく、魔法のような力で人間の文明を再現する力はあっても、自らでは開拓できない。だから、人間を侵略することでその文明を奪おうとしているようだ。
一方で人間はその蹂躙行為に敵対する為に剣を取ったそうだ。ソラからしてみれば、それはただの建前で、大方、食物連鎖の頂点に対する根源的恐怖が原因だと考えているが。
ともあれ、ここは完全にソラの知る世界ではないことは証明されてしまった。
完全な別世界。巨大ロボットも異星人も介在しない、人と竜の戦争によって歴史が作られた、特異な世界だ。
そうして、そんな世界に迷い込んだソラは、生きる為の職を選らばねならなかった。日雇いの仕事にも限界があったのだ。だが、この世界で商人や職人をやるには、元手がない。家屋が用意できなければそんな商売は始められない。
だからソラは、己の経験を生かせる道を選んだ。そもそも、それ以外の選択はなかっただろうが。
傭兵。
それが、この世界でソラが手につけた職だった。
*
がしゃがしゃとチェストプレートとグリーブが音を立てる中、ソラ・ミツルギは深い森をかき分けるよう歩いていた。
GPSもなければまともな方位磁針さえろくにないこの世界で、真っ直ぐに目的地を目指すのは至難の技だった。一歩進む度に頭の中に組んだ地図を確認するが、不安は拭えない。
道を間違えていなければ、ソラがいるのは人が統治する島国『アルビニア帝国』と、同じ島の北側を領土とする竜の国『カレドリオン王国』の、国境からやや外れた山奥のはずだ。
国境に程近いアルビニアの城塞都市を防衛することが今回の作戦だったが、ソラはその作戦の要に選ばれなかった。白人系のこの国で、黄色人種のソラの肌色は明らかに浮いて見えるからなのだろう。ましてや、ぽっと出でありながらきっちり戦果を上げてきたソラの存在は、疎まれても仕方ない。
だから、わざわざこんな竜が来るはずもないへんぴな森へ送られたのだ。
「……だいたい、一人で見張りって何の意味があるんだ……。伝書鳩とかを使って知らせようにも、そもそもの鳩がないし」
思わず独り言でも愚痴を言いたくなるほど、この作戦と配置は杜撰としか言いようがなかった。文明が進んでいた世界にいたソラの方が戦争や作戦に詳しいから、などというレベルですらないのだ。
万が一ここで竜が現れたら、普通なら一人では対処できない。ただただ無残に殺されるだけだ。しかも定期連絡の手段がない以上、竜の存在を本陣には知る術がないのだから、こんな見張りはいてもいなくても変わらない。
とはいえ、傭兵の給料は基本的には歩合制ではなく日当だ。ソラとしては戦わずに金が貰えるのならそれでもいい。戦果を上げて得られる名誉に興味はないし、名誉を積み重ねて国に仕える兵士や騎士になるなど、なおさらだ。
「この先に川があるから、そこでキャンプだったか。この地理情報くらいはちゃんとしてるんだろうな……?」
そんな疑いを持って歩くソラだったが、幸いにもそれは杞憂で済んだ。
ざくざくと森を進んでいくうちに、彼の耳に水音が聞こえてきたからだ。
「川はあるか。よし、さっさと行って休憩しよう」
ようやく目の前にゴールが見えて、ソラは足を速めた。枝や葉で何度か頬や指先を切りそうになりながら、ソラはどうにか森を抜けていく。
そこには、求めていた通りの小川が広がっていた。庭園のように小石が敷き詰められたその場所は、確かにキャンプにはもってこいだろう。穏やかな自然という言葉がぴったりと似合うような、そんな風景だ。
さっそく川に近づいて、手にした金属の缶に水を汲む。生水を飲むのは危険だから、一度沸騰させなければいけない以上、真っ先に水を確保するのは当然だった。
川の傍でしゃがみこみ、缶の中へ水を注ぐ。よく澄んだ水は、このまま飲んでも大丈夫だろうと思わせるほどに透明だった。
そんな誘惑と僅かに葛藤していた、そのときだった。
ざばっと、川の流れとはとても思えない水音があった。
そして、ソラは目の前に広がった光景に絶句した。
少女が一人、一糸まとわぬ姿で川の中央に現れたからだ。
白磁のように透き通った肌には水滴が滴っていて、ただそれだけだった。膨らんだ胸や折れそうな腰にすら、何も隠すものが存在しない。
さながら絵画のヴィーナスのような、そんな造形美があった。
「……え?」
その声は、ソラと彼女が発したものが重なったものだった。
互いの視線がぶつかり合って、そのまま硬直する。数瞬ではあるが、しかし確かに時間が止まったような感覚があった。
やがて。
顔を烈火のように燃やした彼女が刹那の内にソラの間合いへ入り込み、手ひどく彼の頬を引っ叩いたのだった。