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第三章 もう一度 -6-


「おかえり、ゼクスクレイヴ」


 そう言って、ソラはゼクスクレイヴの立てた膝に足をかけ、軽々と飛び越えながら開かれた胸部へと入りこんだ。――クロイツアインは、未だに動かない。

 黄金の剣を横に置いてシートに腰かけ、ソラはヘルメットを装着する。見渡すコックピットの中のどれもこれもが、新品のように美しかった。膝前のサブスクリーンに表示された機体状況は、ほんの十分前までの夥しい赤色など微塵もない。


「お疲れさま、リア」


「あぁ、本当に疲れるな、これは……。流石にもう、時間は戻せないぞ……」


 傍らの黄金の剣から返ってくる言葉は、確かにリアのものだった。その声は、平静を装おうとしているようではあったが、疲労にまみれて聞こえた。


「帰ったら、フローラさんのご飯をたくさん食べよう」


「それは、もう少しくらい頑張らないといけないな」


 小さな箱の中で、二人でひとしきり笑い合う。

 けれど。

 その温かさを引き裂くように、コックピットの中に直接通信が割り込んだ。


『こういうことをするんだ、ソラ』


「……あぁ。――俺は、君と戦うよ。俺はもう君とは一緒にいられないから」


 ゼクスクレイヴの双眸に、翡翠の光が宿る。同時、ゼクスクレイヴは跳び上がってクロイツアインを見下ろしていた。


「終わりにしよう、アイリ。俺は今日、君を殺してあの日に決着を付ける」


 宣言する。

 決別の為に。

 そのソラの瞳は、覚悟で満たされていた。


 ――なのに。


『……偉そうに』


 ぞっとした。

 たった一言放たれたその声に、ソラは全身が当てられ、震えたのだ。


『私を殺しておいて、生き延びていたから、また私を殺す? そんな権利が、ソラにあるの?』


 分かってはいたことだった。

 それでも、突きつけられればソラの心は揺れ動く。


『……ねぇ。ソラ』


 ふいに出てきた彼女の声には、憎悪や憤怒は消えていた。

 まるで、友達に話しかけるかのような。

 この状況で出来てしまうことが酷くおぞましく思えるような、そんな声で彼女はソラへ呼びかけた。


『許してあげてもいいよ』


 甘い、甘い言葉だった。

 戦うと、殺すと、そう決意したソラの芯を的確に揺さぶってくる言葉だった。


「……どうして」


『だって、私はソラが大好きだもの』


 二年前は、その言葉だけでどれほどの勇気を貰えたか分からない。胸がじわりと熱くなって、何だってやってやると、そんな全能感に包まれた。

 けれど、今は真逆だった。

 それは心臓を鷲掴みにして、離さない。ソラの全身が一気に冷えていく。彼女に立ち向かう意志さえ、簡単に折れそうになってしまう。


『だから、その竜のを捨てて』


 分かってはいたアイリの要求に、ソラは顔を悲痛に歪めた。これ以上はもう、そんな言葉を聞きたくなかった。――愛した少女からそんな言葉が出ることが、耐えられなかった。


『私を選んでくれるのなら、全部、全部なかったことに――』


「出来ないよ」


 それ以上を言わせずに、ソラは断ち切った。


「俺はリアを選んだんだ。俺が心の底から守りたいと、傍にいたいと願うのはリアだけだ。――もうアイリを選べない」


『……そう』


 すっ、と。彼女の全ての温度がゼロへと向かっていた。

 怒りすら感じられない。真冬の空のような、どこまでも冷たく空虚な何かに満たされていた。

 クロイツアインの身体が、ふわりと舞い上がる。その夕焼けのような瞳を揺らして、ソラと対峙する。


『なら、私はソラを殺す。私の想いを踏み躙ったソラを、この手ですり潰す』


 同時。

 クロイツアインの翼から、十の自立砲台が放たれた。

 それはゼクスクレイヴの周囲を取り囲み、全方位からソラを貫かんと迫る。

 完全に復活したゼクスクレイヴは、それを旋回だけで躱す。放たれたビームの嵐をかいくぐり、十基で構築された包囲網すらすり抜けてみせる。


『――相変わらず、動きだけは速いんだから』


 アイリの言葉の直後、ゼクスクレイヴのマイクは羽音を聞いた。

 即座に振り向きカメラを合わせると、それは竜の群れの大半がソラへと向かっているところだった。


『ところで、いくらソラでもあれだけの数を前にしたらどうなるかな? ――二年前は押し負けてたけど』


 結果がどうなるのか分かっていて、それでもアイリはそう笑っていた。いっそ、せせら笑っている、と言った方がいいかもしれない。

 それでもソラは迷わない。

 迫る竜の群れへ、自ら突っ込んでいく。

 生身で戦ったときはあれほど巨大だった竜も、ゼクスクレイヴに乗ってしまえば小人のようだった。振りかざした爪を躱し、彼らの翼だけを的確に斬り落として地面へと叩きつける。――刹那の一閃だけで、三匹の竜が落ちていく。


『――ッ!』


 驚愕するアイリを置いて、ソラは修羅のようにゼクスクレイヴを操り続けた。

 迫る竜を片っ端から斬り伏せる。――それも、羽根や腕だけを狙って、だ。力を失った竜は、そのまま無残に地面へと落ちていく。生き延びたとしても、戦力には数えられないだろう。


「……ソラ」


「アイリに操られてるだけなのに、殺せる訳がないだろ」


 戦場でそんな情けをかけるものがどうなるか、分からないソラではない。それでもソラはその道を選んでいた。

 リアが目指すのは、人と竜の共生だから。こんなところで無残に虐殺することは、彼女の夢を踏み躙ることに他ならない。

 そして。

 そんな甘ったれたことを言うだけの力が、このゼクスクレイヴにはある。


『流石に、竜だけじゃ駄目か。けど、数の暴力はそんな戦力差は――』


「なら、振り切るだけだよ」


 更に迫る竜の一団を斬りつけ、そのまま掻いくぐるようにソラは竜の群れから抜け出し、更に大空へと飛翔する。上空に行けば行くほど大気は冷えるし、揚力は減少する。つまり、生身の下等竜では近づけなくなっていく。

 厚く張っていた雲を突き抜け、澄み渡った蒼穹の下へと躍り出る。だが、紅の悪魔もまたそれを追って雲を突き破ってくる。


『何度も何度も逃げないでよ』


 同時、左手で腰から巨大なチェーンソーのような剣――高周波ブレードを引き抜く。それをもって、アイリはソラへと斬りかかった。

 とっさにソラは左前腕のシールドを広げ、斥力場を展開してその高周波ブレードを防ぐ。だが、それでも押し切ってきそうなほどの迫力があった。


『じゃないと、上手く殺せない』


「殺させないよ」


 右の大剣を振りかざし、ソラはそのままクロイツアインを斬りつけようとする。だが、即座に攻撃から回避へと転じたアイリへは全くダメージを与えられず、斬撃は無残にすり抜ける。


『ソラの行動パターンも、その間合いも、私は全部知っている。なのにどうして、勝てる気でいるの?』


「……護りたいからだ」


 そう、ソラは答える。その言葉ひとつで、アイリが無言のままに激昂するのを肌で感じながら、それでもなお続けた。


「俺はリアを護る。アイリなんかに殺させない。その為なら、無駄だとしても剣を取る。君をもう一度殺すことになってもだ」


『……ほんと、ソラはその言葉が好きだね。――それで結局、君は何を護れたの?』


 言葉と共にアイリが引き金を引く。

 放たれた銃撃は光の速さだ。その前に全速力で跳び退っていたゼクスクレイヴの顔の横を、ギリギリで掠めていく。


『みんな俺が護る、だっけ? そんな言葉を言って、ソラは結局何をした? 迫る敵の数に押されて何も出来なかった。ただ呆然と、そのみんなっていうのが殺されるのを眺めていただけなのに』


「――ッ!!」


『他の言葉もそうだね。生きて帰ろうだなんて言っておいて、私を殺して他の世界に逃げ込んだ。まったく、酷い話があったものだね』


 言う間にも、アイリは引き金を引く指を止めなかった。周囲に展開されていた自立砲台を含めて、ソラを取り囲んで殺そうとしている。それを全て紙一重で躱しながら、ソラはどこか遠い目をしていた。


「……あぁ、そうだな。俺はアイリに、酷いことばっかりしてたよ。思い返したって、君が俺に感謝してくれるようなことがあった気がしない」


『今さら謝罪?』


「――でも、それは、アイリがリアを傷つけていい理由にはならないんだよ」


 きっと、この場において間違っているのはソラの方だ。アイリの糾弾は正義の鉄槌とさえ言っていい。それほどに正しさに満ちている。

 それでも、ソラはアイリへその首を差し出せない。


「君がディアスキアの命を奪ってまでそんな鎧に身を包んでいる理由にも、俺にリアを殺させようとした理由にも、何にもならないんだよ。そんなことを認めちゃいけない」


 ぎりっと奥歯を噛みしめた。鉄臭い味が口の中に広がる。


「俺がしたことで、君に謝れば済むのなら、それで良かった。君の怒りが俺にだけ向いていて、俺一人が死ねば終わるのなら、それで終わらせたって良かった」


「ソラ!」


「リアは黙っててくれ」


 止めようとするリアの言葉を遮って、それでもソラは続けた。

 その間も迫る銃撃を躱し続け、ソラの大剣はその自立砲台のひとつを両断した。


「でも、そうじゃない。君は、関係ない奴を巻き込んだんだ。そのことを何とも思わないで、平然と笑っていられる。きっと俺が死んだら、君は他の連中も殺すんだろう」


『……それが何?』


「だから、俺は死ねないよ。君の怒りなんかの為に、俺の大事な人たちを殺させる訳にはいかない」


 迫る銃弾を躱しながら、ソラはそう告げる。


『……なに、その開き直り』


 銃口をソラへと向けながら、アイリは声を震わせる。


『あなたが、私を討ったせいでしょう……ッ!!』


 引き金を引くと同時、ソラが飛び出す。

 右の大剣を振り抜くが、それはクロイツアインの左の斥力場シールドに防がれた。だが、そこで終わらない。防いだと同時、彼女の両肩の砲門が光る。


『ソラが私を討ったから、だから私はここまで堕ちた!!』


 紅の光に包まれて、ゼクスクレイヴの左腕が弾け飛ぶ。とっさに避けていなければ、今頃は胴と腰が切り離されていただろう。


「あぁ、そうだ。今さらあの日になんて戻れない。俺が君を討ったっていう事実は、もうどうしたって覆らない! そんなこと、君だって分かってるだろう!!」


 そのままソラは大剣を振り抜く。その刃からビームを迸らせ、斥力場を貫通して腕を切り落とした。ディアスキアの血液と共に、その腕が爆散して消える。


「分かっていて、それでも刃を振り上げた。俺だけじゃない。俺の大切な人だけでもない。ディアスキアなんて無関係な奴すら殺したんだぞ。それまで俺のせいにするな! それは、君が自分で堕落した証だ!!」


 更にもう一基、ソラは自立砲台を撃墜する。だが、それでも残存数は八基だ。まだソラには余力がない。

 赤い光線が檻のようにゼクスクレイヴを囲む。その中で、ソラは駆け抜け続ける。


『……私を殺そうとしたくせに。開き直りの次は説教? いい加減にしてよ』


「いい加減にするのは、お前の方だ」


 そして。

 今まで閉ざしていた口を、リアが開く。


「こんな形でソラを苦しめて、挙句、自分は被害者だと? 悲劇のヒロインぶるのもいい加減にしておけよ」


『……何よ』


「いっそ哀れだな、お前。結局ソラに構ってほしいだけじゃないのか」


『――うるさい……ッ』


 ビームの嵐が飛び交う。


『うるさい、うるさい、うるさい!! あなたが私に説教をするな!』


 飛び交う紅の光が、ゼクスクレイヴの右足を貫いた。開いた穴で回線がショートしそのまま膝下が爆発して、コックピットを激しく揺さぶる。


『私からソラを奪ったあなたが! あなたにだけは!!』


 高周波ブレードをきらめかせ、クロイツアインがソラへと迫る。だが近接戦闘に関して言えば、ゼクスクレイヴが負ける道理はない。

 右の大剣で迎え撃つ。ビームの刃は、高周波ブレードすら叩き切る。バッテリーを積んでいるせいかその剣は折れることなく爆ぜて消える。

 そこで終わるはずもなく、クロイツアインの左腕がゼクスクレイヴの肩を掴む。その瞬間、クロイツアインの騎士のような仮面の口が開いた。

 そこにはディアスキアのものらしい、ぎらぎらと獲物を求めて輝く牙と、ひとつの砲門があった。


「――ッ!?」


 即座に回避しようとするソラだが、もう遅い。

 その口に隠された至近距離ビーム砲は、ゼクスクレイヴの頭蓋を弾き飛ばしていた。コックピットの中のモニターが、一斉に死んだように黒く染まる。

 即座に胸部のサブカメラの映像に切り替わるが、その映像には先程までの鮮明さは失われている。ジャミングが入ったように荒い映像だ。


『……ねぇ、ソラ。地上はどうなってるかな』


「――ッ!」


『二〇〇の竜の軍勢を置いて来てるんだ。ソラがかなりの数を切り捨ててはいたけれど、それでも一〇〇は残ってたよね。そろそろ、カールライルの人たちが殲滅されている頃かな』


 その言葉に、頭も足もない状態でソラはクロイツアインに突っ込んだ。

 カールライルはアルビニアの最後の砦とさえ言っていい。ここを護る為なら、ジャスパー卿は絶対に引き下がらない。その命に変えてもだ。


「そこを退け……ッ」


『嫌だよ。だって、そうしないとソラが絶望しないじゃない』


 腰のビームライフルを展開し、ソラはクロイツアインを撃つ。だが、彼女はそれをひらりと躱してしまう。

 ゼクスクレイヴがあれば、一〇〇の竜が相手でも屠れる。いま地上で起きている地獄を、ソラなら覆せるのだ。

 けれど、ここからではソラは加勢できない。分厚い雲が邪魔をして、どんな状況になっているのかすら分からないのだから。


「……アイリ……ッ」


『これが、ソラのしたことの結末だ。あなたが私を討ったから、私はここまで歪んだ。私がここまで歪んだから、あなたの周りにあるものは全部壊される。あは。あははは! そうだよ、これが、罰だ!!』


 狂ったように彼女は笑い続ける。

 その声は、甲高く、耳を切り裂くような音だった。

 あの優しく済んだソプラノは、見る影もない。


「……俺は、ずっと、あの日を後悔していた」


 ぎゅっと操縦桿を握り締めて、ソラは言う。


「アイリを討ったときから、俺はずっと、後悔ばかりをしていた。どうしてあのとき止まれなかったのか。あのとき怒りに呑まれさえしなければ、もっと別の未来があったはずなのに。そんな後悔で、俺は押し潰されそうだった」


 だけどな、とソラは続ける。


「今も後悔しているよ。――あのときどうして、ちゃんとアイリを殺せなかったのか」


 きっと、アイリス・ホワイトブレットの本性がこれなのだ。

 人を殺すことにさえ喜びを感じる、道を踏み外した畜生だったのだ。

 だから、あのとき殺すべきだった。

 奇跡的な生還なんて許さぬよう、この剣で彼女の身を両断するべきだったのだ。


『うるさい、うるさい! 全部ソラが悪いのに! どうして私が悪いみたいに言うの!?』


 クロイツアインが銃口を剥け、何度も引き金を引く。当たったかどうかさえ確認せずに、何度も何度も何度も。周囲の自立砲台すら駆使して、ゼクスクレイヴを射貫こうと躍起になっている。

 それをソラは躱し続けた。広げた蒼い翼が光を受けて煌めきを返すその中で、少しずつでもクロイツアインへと近づいていく。


『だって、だって、全部あの日のソラが悪いのに! 私は、私はただ、ソラを信じていただけなのに!!』


 その声に涙が混じっているようで、ソラはぎゅっと唇を噛みしめた。

 それでも、剣を手放さない。


 迫る砲撃がゼクスクレイヴの身を叩く。右肩の装甲が爆ぜた。

 腰に垂れ下がった直結型のビームライフルが二門とも弾け飛んだ。


 躱そうとしたゼクスクレイヴの胸部を自立砲台の砲撃が掠め、装甲は焼き切られ、赤熱した断面と共にコックピットの中を大気へ晒す。


 それでも、ソラは止まらない。

 装甲の裂け目から、クロイツアインとディアスキアの融合体を――アイリス・ホワイトブレットを睨みつける。


『私は、今だって、ソラのことが――ッ!!』


 その言葉を、これ以上続けさせる訳にはいかなかった。

 大剣を振りかざし、クロイツアインの右手を斬り飛ばす。最大の武装とも言っていいライフルを失って、アイリの声に動揺が走る。


『そんな……ッ!?』


 後方へ逃げようとするアイリへ、ソラは追い打ちをかける。切先は胸部の装甲を掠め、ディアスキアの血と共に、ソラのようにそのコックピットの内部を露出させた。


 雲の上。

 血と油の入り混じる臭いの中で、アイリとソラの瞳が交差する。


「俺はお前を選べない。だから、だから――ッ!!」


 そのままアクセルを踏み抜いて、ソラはアイリへと突撃する。

 ゼクスクレイヴの右手には大剣がある。

 二年前のあの日と全く変わらない。

 その切先を眼前のクロイツアイン――否、アイリス・ホワイトブレットへ向け、スラスターを全開にする。


『ソラぁぁぁああああああああ!!』


 アイリの絶叫が響く。同時、クロイツアインの口がもう一度開く。その一撃を持って、ソラを消滅させる気だ。

 ゼクスクレイヴでクロイツアインを破壊すれば、核エンジンまで爆発して周囲一帯が焼け野原になる。だが、立ち止まればあの顎から放たれる悪魔のような一撃に呑まれて消える。


 逡巡はあった。

 けれど、ソラは立ち止らなかった。

 ゼクスクレイヴの剣は、クロイツアインの胸の横をすり抜ける。


 白と紅。二つの機体が抱き合うようにその距離を失う。


 そして。

 ソラはコックピットを蹴ってアイリの眼前に立ち、

 アイリもまた、彼の前にいた。



 彼女の胸には、黄金の剣が深々と突き刺さっていた。



 ぐっと拳を抑えるように、その剣を鍔元まで押し込む。

 ぶよぶよしたような柔らかく不気味な感触が、柄にまで返ってくる。


「……あーあ。やっぱり、こうなるのか……」


 ぺたぺたと、今の状況が信じられないのか、自身の胸を刺した天竜ノ剣に触れる。同時、彼女の口から大量の鮮血が溢れ出た。

 その姿を、ソラはただ黙って見ていた。

 今にも泣き崩れそうな顔で。

 それでも、その最期を見送ろうと、必死に目を見開いて。


「ねぇ、ソラ……」


 血まみれの手で、彼女はソラの頬を撫でる。温かく粘ついた彼女の血が、ソラの頬を濡らす。


「私、どこで間違えちゃったのかな……」


 その声は。

 さっきまでの歪んだものとは全然違う。

 二年前までソラが愛してやまなかった、あの澄んだソプラノの声だ。

 くしゃくしゃに歪んだ顔で、それでもソラは、必死に笑顔を作った。


「……間違えてないよ」


 だから、ソラは彼女を抱き寄せる。

 もう戻らないと知りながら。

 それでも。


「アイリは間違えてなんかない。間違えたのは、俺だよ……」


 その言葉が聞こえていたのかどうかは、分からない。

 ただソラの腕の中で、アイリの身体から力が抜けていく。

 降ろした彼女の瞼は、二度と開くことはなかった。



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