第二章 たった二人の傭兵団 -3-
ケズウィックの街外れの森の奥には、大きく流れの速い川が流れている。それは切り立った崖の上から流れ落ち、川底を貫いて深い滝壺を生み出すほどだ。
その周囲は砂利が敷き詰められていて草もなく、水音の涼しさと相まって、夏場に過ごすにはもってこいだった。
そんな河原で、ソラはリアに対してクロスボウの扱い方を教えていた。市場でクロスボウを買ってからの一週間、ほぼ毎日、どちらも飽きることなく真剣に時間を費やしていた。
「よし!」
板が割れる綺麗な音を聞いて、リアは思わず拳を握り締めていた。
ソラが教え始めてからまだ日が浅いというのに、射程距離の五〇メートルギリギリに置いた十センチ四方の板の真ん中を射抜いて乗せたのだ。そのポテンシャルは、ソラも感嘆せざるを得ない。
「どうだ、ソラよ!」
綺麗な金髪を揺らして勢い良くリアは振り返る。その様子は、どこか懐きやすい犬のようにも見えた。
「あぁ、凄いな」
「ふふん! もっと誉めても良いのだぞ!」
胸を張って誇らしげに言うその様にくすりと笑う。たまに見せる彼女のこういう態度はどこか子供っぽくて、年相応の可愛らしさが見える。
「しかし、ソラはクロスボウを使わんのか? 最近出始めた武器とは言え、知っているということは心得があるのではないのか?」
「俺がいた世界じゃクロスボウは過去の武器だよ。――ただ、俺に射撃のセンスはないからな」
ソラはそう返して、決してクロスボウを取ろうとはしなかった。元いた世界でも、銃は苦手だった。それが得意なのは、ソラではない。別の少女だ。
それを思い出しそうになって、ソラは頭を振った。それ以上考えては、またリアに余計な心配をかけそうだったから。
そんなソラの様子に気付いた様子はなく、リアは身体を伸ばしながらソラと向き合った。
「次は組み手か? ふふん、そろそろ私も負けないぞ」
「はいはい」
息巻いているリアにソラはちょいちょいと指を動かし、どこからでもかかってこいとジェスチャーする。
その余裕ぶった仕草が癇に障ったのか、いつもの笑みが消え、むっとした様子でリアは地面を蹴りつけた。
相変わらず、ソラでも驚くほどの脚力だった。実戦を想定してチェストプレートやグリーブは付けさせているのだが、その重みをまるで感じさせない。元の体重の軽さもあるのだろうが、その走りだけでも見とれるほど美しく無駄がない。
その状態から振り下ろされる木剣を躱し、ソラはリアの背後を取る。ソラもまた鎧を付けているとはいえ、二年も傭兵をやっていればこの程度の機敏な動きに、淀みはない。
だが、即座に危険を察知したリアが、更に地面を蹴りつけて前方へ転がるように回避していた。ソラが攻撃するだけの余裕は全くなかった。
教えた成果は確かに出ている。竜との戦闘で何よりも優先すべきは回避であるから、まずはそれを徹底して体に染みつかせなければいけない。こうして背後を取られた時点で、ほぼ反射だけで回避行動に移れるのであれば及第点だ。
その後も、ソラが攻撃をするまでは、リアはあえて動こうとはしなかった。たまにソラが挑発をするが、それもきっちり無視した上で、的確に攻撃を捌いていく。メンタル面でも十分に素質があると言えた。
やがて、遠くから微かに鐘の音が聞こえてきた。昼を知らせる教会の鐘だ。
「――終了だ」
おおよそ五分程度の組み手だったが、その間全力で動き回っていたせいもあって、ソラは組み手が終わると同時に、その場に腰を降ろした。流石のソラも、全速力のリアと対峙し続けるのには厳しいものがある。いつもより重く感じる鎧を脱ぎながら、ソラは呼吸を整えた。
「……ソラよ。私は強くなっているか?」
そんなソラに、リアは不安そうな顔を向けた。
彼女からすれば、傭兵という仕事は何も分からないのだろう。今まで誰かに教わったこともなければ、自分の経験で補えるほどの数を経験した訳でもない。
だから、いつもの自信が揺らいでいる。
本当に自分は強いのか、と。ソラに傭兵団を組ませるほどの強さを見せつけると、そう豪語するだけの力はあるだろうか、と。彼女はそう問いかけているのだ。
そこまで察しているから、ソラはあえて冗談めいた口調で返した。
「当たり前だろ。ソロの傭兵でも食っていける程度にはなってるはずだ」
「……私はソラとしか組まないと言っているだろうに」
むぅっと膨れるリアに苦笑いで返しながら、ソラは草原の隅の木陰に置いていたバスケットを取りに行く。
「昼食にしよう」
「うむ!」
楽しみにしていたのか、すぐに笑顔になったリアが鎧を脱ぎ捨てながら駆けてくるので、ソラはそのまま木陰に腰かけてバスケットを開く。
中に入っていたのは硬く焼いたパンや干し肉、チーズなどの日持ちする食材で作られた、サンドウィッチのようなものだった。弁当という文化が浅く、衛生状況も万全ではないこの世界では、一般的な弁当と言えるだろう。――ただし、その量は大食漢のソラに合わせて十人前以上というものだったが。
「しかしフローラの食事はいつも美味いな。ソラがずっとあの宿から離れないのも納得だ」
「あの人は、俺がこの世界の言葉を喋れない頃から、ずっと良くしてくれていたからな。礼を兼ねて金を落としてるだけだよ。――まぁ、食事が美味いのはいいことだけどな」
もしゃもしゃと二人でその硬めのサンドウィッチを頬張りながら、仲良く談笑する。
その光景を、ソラはどこか乖離した心で俯瞰的に眺めていた。
リアの傍にいることに、心地良さを感じている自分がいる。だが同時に、そのことに罪悪感を覚えていた。
あの日。二年前に、仲間も最愛の人も助けられなかった分際で、今さら幸せに浸ろうとしていることが、酷く歪に思えてならないのだ。
自分がいるべきはここではないと。もっと血に塗れたおぞましい場所で生きてこそ、ソラの罪過は流されるのではないのかと。そんな思考がよぎってしまう。
「……どうした、ソラよ。またぼーっとして」
「何でもないよ」
首を傾げるリアから視線を逸らして、ソラは答える。こんなどうしようもない罪悪感を彼女に吐露したところで、何にもならないことは分かっているからだ。
「何でもないのならいいが。何かあったなら相談に乗るぞ? 何て言ったって、私はソラと傭兵団を組むのだから」
いつもの口調で、彼女はとてもあたたかく笑っていた。ずっと、その傍にいたいと思えるほどに。
「…………何で、俺なんだ?」
だから、思わず、ソラは訊いてしまっていた。自分がこの場所にいていいのか、それをリアに確認したかったのかもしれない。
「何の話だ?」
「傭兵団の話だよ。だって、君が俺にこだわる理由が分からない。信頼できる奴なんて、探せば他にもいるじゃないか」
「……教えない」
「え?」
「ソラにだけは、絶対、教えないぞ」
どこか怒ったような照れたような、複雑な顔をしてリアはそう言った。そのままついっと顔を背けて、サンドウィッチを口いっぱいに詰め込んでいた。
「何でだよ」
「ふん!」
少し頬を紅くしたままリアはサンドウィッチを咥え、ピョンと器用に立ち上がって走り出していく。――その手には、ソラの残りの八人前ほどの昼食が詰まったバスケットまである。
「おいそれ返せ!」
「返す代わりに教えるのはナシだ!」
「分かったから! 水に濡れたら不味くなるだろ!」
ばしゃばしゃとそのまま水の中を突っ切って対岸まで行こうとするリアを追いかけ、ソラも川へと足を踏み入れた。水の冷たさと、川底の滑らかな石の感触が心地いい。
やがて川の中央でリアを捕まえたソラは、バスケットの奪取に成功する。幸い、水に濡れた様子はない。
「まったく……。別にそこまで言いたくないなら、俺も聞きはしないよ……」
「ソラはたまに意地悪だからな。そういう部分は信用できない」
「……俺、何かしたか?」
「今でもずっと傭兵団を組まないと言ってくるじゃないか」
「それは意地悪じゃないだろ……」
川の中でそんな風に返すと、リアは急に険しい顔をしてソラを睨みつけていた。思わずソラはぎょっとしてリアから距離を取る。
「そ、そんなに怒ることか……?」
「違うそうじゃない! いいからすぐ、そこを――ッ」
リアの声は、そこで途切れた。
けたたましい滝音とは別に、何かが激突するような音が頭上で聞こえた。
「――え?」
見上げるソラの顔が、真っ黒い影に覆われる。
その正体が流れてきた巨大な流木だと気付いたときには、既に、ソラが避けられないところにまで迫っていた。
時間が止まったような感覚があった。
真上から迫る脅威に足が竦んで、ソラは一歩も動けなかった。だが、それが激突するよりも先に、身体に鈍い衝撃が走った。
視界が一瞬で揺れ動いて、何が起きたのかソラには分からなかった。だが水面が割れるような音と、乾いた何かが砕けるような音があった。きっと、流木はソラではなく川へと激突したのだろう。
「痛ぇ……っ」
倒れていたのか、全身の服が水を吸ってひどく気持ち悪かった。だが起き上がろうにも、何かが覆いかぶさってそれが出来ない。
「何が――……」
言いかけて、気付く。
目の前にはリアがいた。ソラを突き飛ばしてでも助けようとしてくれたのか、焦りからの安堵でか、彼女の息が上がっている。
そして。
彼女の服の背が、ばっさりと破れてしまっていた。
「おい、リア……」
落下してきた流木が掠めたのだろうか。だとしたら、それはかなりの傷のはずだ。早急な手当てが必要になる。鎧を着ていたのならまだマシだっただろうが、昼食前にそれは脱いでしまっている。
慌てて彼女の肩を掴んだソラは、そこで、言葉を失った。
それは何も、背の傷が酷かったとか、そういう話ではなくて。
むしろ、逆。
その背には、傷ひとつなかった。
「……は?」
理解が出来なかった。
服が破れる以上、流木はその背に刺さったはずだ。その白磁のような肌が、全くの無傷で済むなどあり得ない。
けれど。
傷はどこにもなくて。
その代わりに、うっすらと蒼い鱗のようなものが浮かび上がっていた。
「……ッ!」
それを見られたことを悟ったのか、リアがばっと立ち上がる。その瞳は、羞恥や絶望にも似ているようで、まるで違う、あまりにも不安定な感情に染め上げられていた。
かたかたと震えているその身体は、川の水で冷えてしまったせいではない気がした。
「その、背中……。鱗って、それ、竜……」
言葉は決して文章にはならなかった。だが、それでもリアは理解してしまったらしい。
瞳いっぱいに涙を浮かべて、そのまま背を翻して走り去っていった。ソラの制止すら気に留めず、川を突き抜けて森の奥へと姿を消す。
ソラはただ、それを黙って眺めるしかなかった。




