序章 世界の崩壊 -1-
雲ひとつない水面のような蒼穹の下に、どこまでも続く緑の丘が広がっていた。
一歩踏み入ることさえ躊躇われるような自然の圧の中、しかし、今は雄叫びと咆哮が幾重にも折り重なっていた。
活力に満ち溢れていた草原は、無数の足に踏み均されている。丈の短い草が無残に引き千切られて、土は抉り取られたようにめくれ上がっていた。
草木の強い青臭さと血の鉄臭さが合わさって、むせ返るような酷い臭気が辺りに立ち込めていた。咳き込みそうになるのを我慢して、彼は自分を落ち着かせる為に深く息を吸った。
この世界に来て、もう長く経つ。それでもこの美しい自然は、初めて見たときから彼が愛したものだ。それがまた、あの汚らしいものに塗り潰されようとしている。それにはどこか、胸を締め付けるような罪悪感と嫌悪があった。
思わず感傷に浸りそうになる頭を切り替えるように、ぶんぶんと首を振って、彼――ソラ・ミツルギは剣を握り締めた。
彼の眼前で、またしてもそれが叫ぶ。
五メートル近い体躯があった。全身を鎧のような鱗に包んだ、紛うことなき化け物だ。
鋭く太い爪は大地を突き刺すように捕らえ、巨大な前腕は丸太のように太い。背にはコウモリのように薄い張りぼての翼を携え、口にはギラギラと牙を光らせて唾液を垂れ流す。
それは、正真正銘の竜だった。
ソラの知る世界ではただのお伽噺の悪役だったが、ここでは当然のように存在する、人類の天敵。食物連鎖の頂点に立ち、知恵と武器を手にした人間さえ容易く踏み砕く、暴虐の侵略者だ。
「……別に、恨みがある訳じゃないんだけどな」
そう言って、ソラはゆっくりとした動きで刃渡り数十センチの短い剣を構える。
これは、竜と人の戦争だ。互いの限られた権利を奪い合う為の、正当化された殺し合い。
本来なら、ソラはそんなものに関わり合う必要のない人間だ。それでも、これくらいでしかソラはこの世界での自分の存在理由を見い出せない。
「――お前を殺すよ」
すっ、と視線が凍る。
一切の感情を押し殺し、自らを兵器の一部だと認識を切り替える。
鼓膜を突き破るような咆哮と共に振り下ろされた竜の腕は、掠めただけでも致命傷だ。あの巨躯から繰り出される筋力なら、人体など紙屑同然だろう。
それでも、彼は立ち止らなかった。
振り下ろされる攻撃の軌道を読み切り、あえて紙一重で躱して懐へと入る。巻き起こった風のせいか頬が僅かに切れたが、その程度だ。人一人では決して敵うはずのない竜を相手にしながら、彼の足には全く迷いがない。
目標を外したことに驚いたか、その竜の動きがほんの僅かに硬直する。その隙を見逃すはずもなく、竜の足を踏み台にして飛び上がり、首へと刃を突き立てる。
頸動脈を切り裂いたのだ。剣を引き抜くと同時、鮮血が雨のように降り注ぎ、その巨躯が自ら作った赤い水溜りへと沈んでいく。断末魔さえ赦さない。
その様を眺めて、ソラは改めて周囲を見渡す。
まだ戦は始まったばかりだ。あちこちで竜と人が衝突を繰り返していて、雄叫びや悲鳴が折り重なる。それでも、今のソラのように致命傷を与えられる者はいないようだ。
そもそも、竜の鱗はそう容易く貫ける代物ではない。これはソラにだけ許された、卑怯な裏技のようなものだ。
「おい、兄ちゃん。すげえじゃねぇか!」
バンバンとソラの背中を叩きながら、名前も知らない大男が笑い声を上げる。ソラの功績を単純に尊敬し、讃えてくれているのだろう。
「竜を剣ひとつで切り裂く奴なんざ、騎士様以外に聞いたことがねぇぞ。本当に兄ちゃんは傭兵かよ!」
そんな彼の言葉に、ソラは曖昧な笑みを返すしかなかった。ソラがいったい何者なのかを話したところで、彼は信じないだろうし、下手に周囲を嗅ぎ回られる訳にもいかないからだ。
「いやぁ、でも。あの鋼の大天使様には劣るわな」
「――ッ」
その言葉に、ソラは一瞬顔を強張らせた。けれどそれを悟られぬように、先程と変わらない曖昧な笑みを浮かべ続ける。
「知ってるか? 今みたいな戦場に颯爽と現れて、竜をその威光だけで焼き殺したんだぜ? そりゃあもう一瞬だ。生き残った竜どもも尻尾巻いて逃げ帰っていったよ」
「……それは、凄い話だ」
「だろう! 兄ちゃんも強いが、やっぱり天使様には敵わねぇよ」
ガハハ、と笑いながら、その大男は肩を回して一歩を踏み出した。
「さて、兄ちゃんにはカッコいいところ見せてもらったし、俺も一頑張りするかな」
「期待してるよ。――幸運を祈る」
「おうよ」
そう言って戦場へと駆け込む姿を見送りながら、ソラは長い息を吐く。
バレはしなかっただろうかと、いつもより早くなった鼓動を感じながらソラは思う。
――思い返せば、もう二年も前のことだ。
鋼の大天使なんてものが、この世界に舞い降りたのも。
そして。
ソラ・ミツルギが全てを間違えた、あの瞬間も。
*
文字通りの、無限に広がる暗闇がそこにはあった。断続的に閃光や爆発が巻き起こり、辺りを照らしている。
直接的な音はない。伝播しようにも媒介となる空気のない宇宙空間では、たとえ大爆発が起ころうとも、それは音にはなりえない。
だがその光景は、ずしりと腹に響くものがあった。
「……ふざけるな……っ」
メインブリッジの中のモニターでその光景を見ていたソラ・ミツルギは、血が出るほど硬く拳を握り締めていた。とは言え、身を包んだ宇宙活動用のタイトなパイロットスーツのせいで、爪は言うほど食い込めなかったが。
メインブリッジの下に併設されたCICからは、さっきから怒号のように通信のやり取りがされている。門外漢のソラには聞き取れやしないはずだったが、聞こえる声の大半は、誰かの信号が消失したというものばかりだ。折り重なろうと、通信関係には疎くとも、その単語だけは嫌でも耳に入ってくる。
眼前に広がる爆発は、ソラの仲間の命の灯だ。
モニターの端で、望遠を用いて戦況の一部をズームにしていた。全身甲冑にも似た人型のロボットが、別の似通ったロボットによって串刺しにされていた。そんな光景が、この暗闇に包まれ空間の至る個所で見受けられる。
とめどなく命を散らしていく様を眺める以外に、今のソラに出来ることはない。それが堪らなく悔しかった。
これは、戦争だ。
地球と名前も知らない謎の星との間で起きた、互いの存続をかけた命の削り合い。だからこそ、どんな被害が出ようとも決して譲歩は許されない。
止めたいのならば、力が要る。
「――まだなのか……っ」
歯を食いしばって、ソラはただ呻く。脊髄の奥から溢れ出す怒りにも似た衝動を堪えるので精いっぱいだった。階位だとか立場だとか、そんなことはもう頭にはない。
「まだ修理が終わってない。今の状態であなたを出撃させる訳にはいかないわ」
「けど!」
たしなめるように言う艦長に食い下がろうとして、ソラはその顔が酷く歪んでいることに気が付いた。
彼女もまた、命を預かる身だ。大切な部下が無残に散っていく様を見て、何も思わないはずがない。彼女のその戦場には似合わない優しさを、クルーであるソラは知っている。
それでも、耐えろと言っている。
一発逆転を狙うには。
この状況を打破するには。
ソラ・ミツルギの完全な力が必要だから。
『――堪えなくていいぞ、ソラ』
そんな中で、ブリッジに内部からの通信が響く。それは、艦内であの機体の修理をしていた整備班の班長の声だった。
それはつまり、あの機体の整備が終わったと言うことだ。
「すぐに出ます!」
一言で察したソラは、確認をする間も惜しんでメインブリッジを飛び出していた。無重力でふわふわと浮く艦内で、壁を蹴って真っ直ぐに整備室を目指す。
その横に、同じようにして一人の少女が並んで走りはじめた。フルフェイスのヘルメットを腕にひっかけながら、紫がかった長い黒髪を後ろでまとめようとしている。
アイリス・ホワイトブレット。
ソラと同じパイロットにして、この状況を覆す為に必要な戦力の一人だ。
「ようやく再出撃できるね」
美しいソプラノの声で彼女は笑いかける。その姿が、ソラにはとても眩しかった。
まっ白な肌も高級なガラス細工のような瞳も、線の細い華奢な体つきも、どれをとっても完璧なほどに美しく、愛おしい。
その彼女と共に戦場へ出ることが、頼もしくもありながら、辛くもある。
彼女だけは護りたい。彼女にそんな危ないところに行ってほしくはない。それはソラにとって紛れもない本心だったから。
それでも、そんなことを口に出してはいけない。今は戦わねばならないのだから。
彼女の力もまた、この劣勢を覆すには絶対に必要だ。
「あぁ。――アイリ、行こう」
待ち焦がれた戦いのときだ。
おそらくあの異星人たちは、持てる戦力の全てを注ぎ込んで仕留めにかかっている。でなければ、こんなに急にソラ達が劣勢に立たされることはなかったはずだ。
それは裏を返せば、ここを持ち堪えればソラたち地球の勝利ということだ。
最終決戦へ向けて、ソラもアイリももう一度気を引き締め直す。
自動で開いた通路の扉を抜けて、整備室へと入る。そこでアイリとは別れて、ソラは自分の機体の待つスペースへと向かった。
そこにあったのは、純白の機体だった。
全長十メートル近い巨大なロボットだ。背には鋭い刃のような蒼き翼を携えた、白銀の騎士。その姿はさながら天使のようでもあった。
右手には、特異な形状の大剣があった。柄と刃は、逆さにしたトンファーのように垂直に作られていて、前腕ごと固定する為に籠手と一体になって右手を包んでいる。
その大剣を静かに構え、二つのカメラアイに光を灯したその姿は、自らを操る彼を待ち侘びているようにも見えた。
ITS-GW10Z『ゼクスクレイヴ』
ソラ・ミツルギの為だけに改修された、彼のもうひとつの肉体だ。
地面を蹴り無重力下の慣性の法則に従って五メートル以上跳ぶと、ソラは開いたままの胸部のコックピットへと乗り込む。
人一人が過ごすのがやっとのこの狭い空間で、ソラは何度も何度も戦って来た。
二本の操縦桿を握り締め感触を確かめると、手際良く天井や壁面のスイッチを入れていく。その間にフルフェイスのヘルメットをかぶり、スーツとの境をきっちりと固定する。いつものルーチンをこなしていくうちに、思考は徐々に研ぎ澄まされていくような感覚があった。
コックピットを閉じようと腕を伸ばしたところで、目の前に作業服の厳つい男――整備班の班長が立っているのが見えて、その手を止めた。
「万全の調整をしたんだ。あとは、お前の腕だ」
「分かってますよ。班長の整備が不良だったことなんて一度もありませんし。――そんなプレッシャーをかけに来た訳じゃないんでしょう?」
そうソラが言うと、班長はバツが悪そうな顔をした。
「……十五の坊主に頼むことじゃねぇんだがな……。それでも、お前しかいないんだ。――勝ってくれよ、人類の希望の為に」
「もう十六ですよ。――絶対に、勝って帰ってきます」
そう笑顔で答えて、ソラはコックピットを閉ざした。
扉にもなっていた前面のモニターに電源が入り、機体のカメラが捉えた映像が鮮明に、一切のラグなく映し出される。
コックピットの更に奥底から、高鳴る鼓動のようにモーターが音を立てて、回転数を上げていく。やがて、それは一本の甲高い音へと変わる。
レールに乗せられて、整備室からカタパルトへと移る。コックピットの中では管制をしてくれている頼もしい仲間の声が反響していた。
発進の準備が全て整ったというアナウンスの直後。
ソラは深く息を吸い、目を見開く。
「ソラ・ミツルギ、ゼクスクレイヴ。――出撃する!」
凄まじいGが内部にかかり、灰色のカタパルト内だけしか映っていなかったカメラは、やがて広大な宇宙を映した。