三日月と満月と夜の海
翌日、コージから謝罪のメールが届いていた。それに気づいたのは届いてから7時間後の夕方だった。
「昨日は、悪かった。アキラに送ってもらったんだよな?1人で潰れるなんて情けねーな。また埋め合わせするから、付き合ってくれ」
寝起きでハッキリしない頭。辛うじて読めた視界。何もかもがふわふわする。この感覚がわたしは嫌いだ。中途半端で気持ちが悪い。
「きにしてない。いま起きたばかりだから、機嫌悪い」
「ああ、悪い。今日はでかけないのか?」
コージの返事はいつも早い。わたしはタバコに火を付けて返事を考える。そしてわたし自身、今日何をするのかも考えた。
簡単に仕度を済ませてとりあえず駅に向かう。今日はあのお気に入りのヒールを止めて、セールで買った安物のスニーカーだ。1人の時はとにかくシンプルでラフな格好がいい。気の向くまま自由に旅ができるように。
駅についてから、どれだけの人間とすれ違ったのだろう。数える気なんてないけど、でもすこし気になる。
わたしは昔から変なことを気にする。周りの人間が深く気に止めないことを気にして、逆に周りの人間が気にすることを深くは気にしなかった。そのせいか、変わってるだの、個性的だのと言われることも多かった。
「生ビール追加で」
コージから呑みの誘いが来ない日は、たいてい1人で呑む。1人で居酒屋に入るのに抵抗はない。呑みたいときに呑むし、誰かの好みに合わせて店を選ぶのは億劫でしかない。わたしは、残りのビールを流し込んで、お通しの枝豆を摘まみながら次のジョッキを待った。
「おまえ、1人か?」
振り返るとそこには、無表情なアキラが立っていた。
「アキラ、知り合いの子?」
アキラの後ろからひょっこり出てきた小柄な男性が不思議そうにわたしを見つめる。アキラは男性に向かって、まあな。と言ったのが口の動きで分かった。
小柄な男性は、明るめの茶髪で、毛先がくるくるとカールしている。まるで小型犬だ。
「あ、俺シンっていいます。良かったら相席してもいい?」
「べつに。いいけど」
「やったー」
わたしの返答にシンは両手をあげて喜んだ。シンはコージとすこし似ている。一瞬一瞬をきちんと楽しもうとしてる。わたしには難しいことも、コージやシンは自然と出来ている。羨ましい反面、温度差が気持ち悪くて不快にも思った。やっぱりわたしは、コージやシンみたくはなれない。
「1人で、よく呑むのか?」
「まあね、人に合わせるの怠いし」
わたしの向かいに座るアキラは目を合わせずに話した。シンは既にメニューを大きく開いてうきうきと眺めていた。そういうところもコージとよく似ていた。アキラはこういう性格を好むのだろうか。確かにその方がバランスはとれるとは思う。到底わたしには無理だけど。
「お待たせしました。ビールと芋の水割りです」
シンは届いたばかりのグラスをきゃっきゃと2つ取って、1つをアキラに渡す。わたしはゆっくりと取り残されたジョッキを持ち上げて、おしぼりをコースター替わりにした上へ置いた。
「ねぇ、アキラ。乾杯する?」
シンはやたらと悪戯にアキラを見る。
「いつも、しねぇだろ」
シンはやっぱりねと小さく笑って、いただきますと言った後グラスに口をつけた。コージと似ているが、コージより聞き分けが良い。そしてアキラは昨日と変わらず無愛想だった。
「牛スジの煮込み食べたいな」
「わたし、子持ちししゃも」
「なんか渋いね」
シンがくすくすとわたしを見た。そんなシンから目を逸らしてビールを口まで運ぶ。なんでシンはこんなに笑うのだろう。
「ねぇ、シンはどうして笑うの」
「俺?んー笑うのに理由っている?自然と出るものじゃん?」
こういう質問をするとたいていが、普通にとか自然にとかあやふやな答えが帰ってくる。じゃあ、普通って何?自然ってどういう状態?新たな疑問が湧いてくる。ちらりとアキラの顔を見たが、その顔は何も答えてくれなかった。わたしって本当に変わってるの?
居酒屋では、様々な声が飛び交っている。笑う声が殆どだ。みんな何がそんなに楽しいのだろう。やっぱり分からない。世界ってそんなに楽しいことで溢れてるのだろうか。じゃあ、つまらないわたしはいま何処の世界にいるのだろう。ここは嫌いじゃないけれど。
シンは全て満たされた満月のような人。そのぶん輝いて、辺りも明るく照らす。暗い夜空で輝く満月。コージは、太陽。シンと同じで満たされた真ん丸な太陽。情熱的な部分が眩しくて熱い。周りが明るくても、絶対負けない明るい太陽。アキラは、きっとわたしと似て何処か欠けてるから三日月かな。でも、届く人には届く淡いけどまっすぐな光。じゃあ、わたしは?
「ねぇ、聞いてる?」
シンの声で我に返った。
「ごめん、なに」
わたしは慌てながらもタバコに火を付ける。
「これからもう一軒行かない?洒落たいい店知ってんだ」
「このあと、用事あるか?」
アキラはそう言った後で、グラスの中を空にする。わたしは、行くと短く返事をして、タバコの火を消した。
居酒屋を出ると、夜風が少し冷たかった。酒を呑んで火照った体には心地いい。ふわりと髪をなびかせながら、先を歩くアキラとシンの後ろを静かに着いていった。
「歩けるか?」
振り向いたアキラが気にかけてくれた。わたしは大丈夫とろくに顔を見ずに答える。いまは風が吹くだけで十分だった。
アキラとシンに連れられて入った店は、照明が落ち着いた隠れ家のような居酒屋だった。半個室だからなのか、まだ人がいないからなのかは分からないが、店の中は割りと静かだった。店内で流れるBGMがすっと耳に届いて気分がいい。
「いい雰囲気だろ」
シンが自慢げに聞いてきた。確かに感じのいい店だ。まずコージと一緒なら入らないような大人な店。アキラのように落ち着いた雰囲気。そして、安心する。
「なに呑む?ビール?」
席につくとアキラがメニューを渡してくれた。
「初めての店だから、おすすめで」
「強い酒いける?」
相変わらず短調なアキラとの会話。シンもアキラも一軒目でだいぶ呑んでいたにも関わらず、しゃんとしている。大人の呑み方を知っているのだろう。わたしは大丈夫と告げ、つまみのページを開いた。
「お待たせしました。泡盛です」
テーブルに置かれたグラスは綺麗な青で、中に注がれた泡盛もほんのり青く輝いていた。照明の暗い店内では静かに波打つ夜の海のように幻想的に見えた。
「キレイでしょ。呑みやすいけど、度数は高いから無理しないでね」
シンが涼しい顔で初めのいっぱいを呑み干す。アキラもまだまだ余裕な顔をしながら呑み続ける。
「2人はよく一緒に呑むの?」
「そうだね、アキラと呑み続けられんの俺くらいだし」
「たいていお前が先に酔うけどな」
アキラは、そう言いながら届いたばかりの小さな夜の海をシンの前に置いた。グラスの中では、いまにも波の音が聞こえてきそうにゆらゆらと揺れていた。そして、店内の照明が反射して、水面で輝く月の光のようだった。
「そろそろ帰るか」
「じゃあ、俺トイレ行ってくるわ」
すっと立ち上がるシンはまだまだ余裕に見えた。足元もフラつかず、すたすたと歩いていく。時間はあっという間に流れた。
「やっぱり笑わないのな、あんた」
からんとグラスの中でぶつかる氷の音が妙に響く。空っぽで渇いた様な空しい綺麗な音。
「そっちこそ、無愛想じゃん」
「俺はいいんだよ、これで」
アキラは、少し悲しげな顔をした。わたしは、急に切なくなり残りの泡盛を最後の一滴まで呑み干す。グラスを置くとまた空しい綺麗な音が2人の間でからんと響いた。水面で輝く光りは消えてしまい、静寂な海で溺れてしまう様な気がした。