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なごり雪

作者: 唐橋史

 待ち合わせはJR上野駅の不忍口改札の前だった。

 私がそこに着いたときにまだ彼の姿はなく、私は観光ポスターの貼ってある柱に仕方なくよりかかると、腕時計を見た。まだ午前八時を過ぎたばかりである。乗降客は少なく、いつもよりも駅が広く感じられる。上野駅の床がこれほど広くて平らで白いとは今まで気付かなかった、そんなふうなことを考えながらあくびをする。すると、窓口に座っている若い駅員も、朝日に目を細めながらあくびをしていた。

 そのとき、背後から声をかけられて、私は振り返った。

 そこには、彼が満面の笑顔で立っていた。春風が構内に吹き込んで、彼の白いシャツが膨らむ。洗い立ての香りがした。私は思わず彼の肩に手を置いた。

「元気そうだ」

 私がそういうと、彼は短く刈り揃えた髪をかきながら、うつむき加減になって、

「お久しぶりです、先生」

 と言った。

 私と彼は連れ立って歩き出した。彼は何か言いたそうにしていたが、もじもじとして、地面を見続けている。隣で歩いているとよくわかる。彼の背は随分伸びた。私をとうに追い越している。若竹の伸びやかな様を目にしたような気がして、私は内心嬉しくなる。

 彼は私を一軒のラーメン屋へと案内した。高架下の、今にも、コンクリートに押しつぶされそうな、小さな店だ。軒下の換気扇は油で真っ黒だ。おまけにその上に蜘蛛の巣がかかっている。彼は、

「味は一品なんですよ」

 と、少し苦笑いして、入口のガラス戸を開けた。

 中に入って、クッションが破れて綿のはみ出した丸い椅子に腰掛ける。カウンターに肘をつくと、私のメタボリックなお腹はつっかえてしまう。

「札幌ラーメンふたつ」

 彼がそう注文すると、坊主頭の店主が、景気の良い声で返事をした。私は目の前の箸立てから割り箸を二膳取り、ひとつを彼に手渡し、ひとつを自分の手元に置いた。そして言った。

「上京してもう四年が経ったのか」

 ほとんど独り言のようだったが、彼は、「はい」と、はっきりとした調子で答えた。

「先生には本当に今までお世話になりました!」

 私は首を振った。思わずその横顔を眺める。しばらく見ないあいだに随分と精悍な顔立ちになったものだ。初めて会ったときの彼はまだ十代で、髪も金髪で長く伸ばしていたから、今とはまったく印象が違う。彼の左耳のピアスの穴は塞がってしまって、今ではただの小さな丸いへこみになってしまっている。こういうのを見るにつけ、時間が過ぎたのだと思う。彼はそんな私の視線に気付いているのかいないのか、ずっとカウンターの向こうの鍋の湯気を見ていた。麺をゆでる甘い香りがする。

「札幌に帰ったら必ず連絡しますね。札幌といってもうちははずれのほうなんで、何も真新しいニュースなんかないと思いますけど」

「いいさ。たまに何かうまいもんでも送ってくれ」

 私がそう言って笑うと同時、カウンターの上にふたつの札幌ラーメンが差し出された。澄んだスープに弾力のある麺がひたっていて、もうもうとあがる湯気に私は思わずうっとりとした。チャーシューはつやつやとしていて、箸ですくうと、ほろほろと崩れてしまった。私は麺をすすりこんだ。その横で彼もそうした。何故か一心不乱になった。次に彼に対してどんな声をかけようかと考えてはいるのだが、ああでもない、こうでもない、そんなふうに考えているあいだに、ただひたすらに麺をすすりこんでいて、彼のほうも同じなのか、ふと箸を止めてこちらを横目で見るのだが、またラーメンのほうに集中してしまう。

 私はスープをレンゲですくいながら、自分がもう彼を導く立場にないことを実感した。この春の、ささやかな、それでいて彼には一生物の旅立ちの日に、私はかける言葉が見つからない。定年退職して一年が経った人間というのは、こうも情けないものなのだろうか。

「荷物はもう先に送ったのか」

 チャーシューの最後の一欠片を口に放り込むと、私はそんなことを聞いていた。彼はラーメンのどんぶりに覆い被さるような姿勢で麺をほおばっていて、そのまま首を左右に振った。彼は一生懸命その麺の固まりを口に押し込むと、カウンターに置かれたティッシュをとって、口を拭いながら、

「こたつしかないんで」

 と、言った。

 ラーメン屋を出て、横断歩道を渡った先に、狭い駐車場があって、そこに傷だらけの白いバンが止めてあった。バイト代で買った中古車だと彼は言う。彼は、私を車の後ろまで案内すると、得意げな表情でトランクを開けてみせた。そこには、小さな段ボールが二箱、塗料がはげた青い本棚が一つ、新聞紙に無造作にくるまれた赤いマグカップと、そして、大きなこたつセットがあった。テーブルは逆さまで足が天井を向いている。その下には無造作にまるめられた、カビ臭い紺色のこたつぶとん。彼はそれらを手でトランクの奥のほうへと押し込めると、いたずらっぽく笑った。

「北海道って部屋の暖房がしっかりしてるから、こたつがない家が多いんですよ。だから本州に来て初めて知ったっていうか。もうこれだけは手放せませんよね」

 彼はそういうと、車のトランクを閉めた。軽い音がして、いとも簡単に閉まってしまった。彼の荷物はこの小さなバンに、余裕で入ってしまうくらいだった。

「先生、じゃあ、そろそろ」

 彼はジーパンのポケットから車の鍵を取り出すと、少し眉をひそめて、そう言った。鍵には、ミッキーマウスのストラップがついていた。そう、彼はこういう子なのだ、と、私は思った。本当に、彼は、こういう子なのだ。

 走り出す白いバンを見送る。後部のウィンカーにはひびが入っている。ちゃんと点灯するのだろうな、と思い、思わず二三歩ばかりついて行く。駐車場を左折して道路に出て行くとき、きちんと点滅したのを見て、ほっと胸をなで下ろす。私はそのまま、道路のほうに身を乗り出して、走り去っていくバンを見つめる。次第次第に遠くなっていく。こたつの足だけが、後方のフロントガラスから覗いている。ああ、ちゃんと積み込むように言うんだった、あれではバックミラーで後ろを見るのに邪魔じゃないか、などと思うと、つい、足が、一歩二歩と、車を追い掛ける。

 だが、瞬く間に、白いバンは、春の朝日の中に消えていった。

 彼はもう赤ん坊ではないのだ。私が手を出さずとも、こうして立派に一人で旅立っていったではないか、私は自分にそう言い聞かせると、足を止めた。しかし、それでもしばらく、その場所から動くことができず、車の走り去った彼方を見つめた。目を細めたら、彼の故郷の札幌の街まで見えるだろうか。

 私はジャケットの胸ポケットから、白い封筒に入った手紙の束を取り出した。宛名も住所もへたくそな字だ。フェルトペンではみ出しそうなまでに書いてある。すっかりラーメンに夢中になって、彼に返すのを忘れてしまった。これも彼の荷物のひとつだったのだが。

 定年退職して、長年住んだ官舎から日暮里の小さな一軒家に移ったのは去年のことだ。彼からの手紙が届いたときは仰天した。どうしてこの住所を知ったのかと恐怖しておののきさえした。しかし、今となっては、笑い話だ。

 その日の午後、東京では季節外れの雪が降った。ふくよかに水を含んだ春の雪で、ひとひらふたひら、桜の花びらのようにちらついた。私はそれを自宅の縁側から見て、札幌の雪に想いを馳せる。彼の帰る故郷はいまだ冬の中で、冷たく凍えていることだろう。あとは彼が、それに立ち向かっていくだけだ。

 刑務官として働いて数十年。あの暗く陰鬱とした塀の中から、私に「ありがとう」と言って旅立っていったのは彼だけだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] お世話になっております。 「なごり雪」読ませていただきました。 ありきたりな日常の、ちょっとだけありきたりでない話。 それを演出する物語、といったところですね。 非常に地味な、それだけにじ…
2012/06/21 23:24 退会済み
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