【洋菓子の日百合】バームクーヘン好きの私には、バームクーヘンを誤解している幼馴染みがいる。
その日、私は朝からいつもの1.5倍くらいはウキウキしていたと思う。
うわの空で午前中の授業を終えて、昼休みのチャイムと同時くらいのタイミングで、トートバックを肩に、猛ダッシュで化学準備室へ駆け込んだ。
「し、紫乃っ! ゴメン待った……!?」
「……いえ、全然?」
息を切らせながらガタつく引き戸を開けた先には、私の幼馴染かつ生物研究会の会長、紫乃が、パイプ椅子に腰かけて、分厚い本を読んでいる。
長テーブルの上には、いつものようにお揃いのお弁当箱と、小さめの水筒が二人分。
いつもの風景。
変わらない日常----。
ん? でも、今日は絶対私が先に着くはず----だったんだけど?
(なんか随分前から座ってた感じだけど、紫乃、授業出てたのかな……?)
とはいえ、品行方正優等生の紫乃が授業をサボる訳はないので、私の勘違いだろう。
----うん、そうに違いない。
紫乃の白くて長い指が、ゆっくりと栞を挟んで本を閉じる。
チラリと見えたタイトルは『日本における多様な粘菌の生態とその可能性について』----生物研究会の会長が読むには相応しい本だ。
準備室とは名ばかりの、今は誰も使わない半分物置のような、カーテンをほとんど締め切った部屋。
なのに、彼女の座る椅子の辺りだけ、昔の絵画みたいに、神々しい感じに窓からの日差しが差し込んでいる。
「……今日って、私達そんな早く会う約束してたかしら?」
「あっ、いや別に全然そういう訳じゃないんだけど……えっと……これを紫乃に渡したくて、それで……」
まだ息を切らせならがら、私はトートバックから縦20センチくらいの黒い手提げ袋を取り出した。
中には金色のリボンのかかった同じ素材の黒い紙箱が入っている。
「あら、私、もしかして今日誕生日なの!?」
「違う違う! これ、いつもお弁当作ってくれるから……お礼、のつもり……なんだけど……」
怪訝な顔で紙袋を受け取る紫乃に、「ほら、開けて開けて」と私は急かす。
「ね、今日って9月29日でしょ? で、何の日か知ってる?」
「大天使ミカエルの祝日ね……でも、それとこれに何の関係が……?」
紫乃は首を傾げ、それでも丁寧に包装を解いていく。
「……バウムクーヘン?」
箱を開けた紫乃が、手を止めた。
「これを私に……?」
「うん! 今日って洋菓子の日なんだって! 大天使ミカエルは、フランスでは菓子職人の守護聖人で、その祝日が9月29日だから日本でも洋菓子の日になった……んだったかな? とにかくそれでテレビで人気の洋菓子お取り寄せ特集とかやってて……美味しそうでつい買っちゃったの!」
本当はそれは口実で、ただ紫乃にちょっとびっくりしてもらいたくて、ネットで探した専門店でオーダーメイドしたんだけど。
「……で、私にバウムクーヘンをくれるのね?」
紫乃は、何故か硬い表情で箱の中をじっと見詰めている。
「うん、紫乃はバウムクーヘン食べた事ある? 私は大好き……って言っても、なかなか買えないからコンビニの無印良品のやつとかばっかり、なんだ……けど……?」
紫乃は無言のままだった。
ずっと固まっている。
「……紫乃?」
なんか、変な空気になってる!?
私、何か間違った事しちゃった……?
「あ、あの……大丈夫……?」
何週間も前からパティシエさんに紫乃のイメージを伝えて、デザインのイラストもやり取りして、デコレーションしてもらって、すっごい満足のいく仕上がりになったんだけどなぁ……。
紫乃は黙ったまま紙箱をテーブルに置くと、並んだお弁当箱を一つ、私の前に置いた。
水筒も受け取った私は、慌てて紫乃お手製のお弁当を広げる。
「……ゆかり、貴女、バームクーヘンが好きなんでしょ?」
「う、うん……」
紫乃の表情は、相変わらず硬いままだ。
「それなら、そもそもバームクーヘンの原型は紀元前の古代ギリシアまで遡り、木の棒にパン生地を巻きつけて焼いたオベリアスというものであると考えられているのは知ってる?」
自分に言い聞かせるようにして、唐突に紫乃は話始めた。
「……えっ、ごめん……知らなかった」
蓋を開けたお弁当箱には、今日も私の大好きな甘い卵焼きが入っている。
それとポテトサラダ(コーン入り)にアスパラの肉巻き。
いつもながらに彩りのバランスが見事で、箸をつけるのが勿体ないくらいだ。
でも、今日の紫乃は、様子がおかしい----ような気がするけど、とりあえず、まずはお弁当をいただく事にする。
「……ただ、これもまた諸説あってね、中世ポーランド=リトアニア連合伝統のシャコティスを基にした説……あるいは「ガトー・ア・ラ・ブロッシュ」を基にした説が存在しているわ……それは知ってる?」
私はぶんぶんと首を振る。
(しゃこ……? 何それ知らないし……?)
卵焼きにかぶりつきながら、初めて聞く横文字の羅列に頭の中に「?」を乱舞させていた。
「あとはドイツのザクセン=アンハルト州で元祖をめぐる争いがあったりしたけど、1920年に両店は同一人物に買い取られているわ……ドイツ東部地域、とくにドレスデン、コトブス、ザルツヴェーデルはいずれもドイツのバウムクーヘンの本場とみなされていて、特にザルツウェーデル式バウムクーヘンは2010年にEUの原産地名称保護認証を受けているの」
「……はあ」
これって、今読んでいた本に載っていたのだろうか?
いや、どう考えてもそれはない。
いくら分厚くても、粘菌の本にバームクーヘンの歴史は載ってないと思う。
生物研究会の会長が、滔々とバウムクーヘンの説明をする横で、私は間の抜けた相槌を打ちながらポテトサラダを食べ続ける。
コーンの甘みが、粗めに潰したジャガイモと良く合っている。
やっぱり紫乃のお弁当は、美味しい。
「日本では第一次世界大戦の捕虜として来日したドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムによって持ち込まれ、1919年に開催されたドイツ作品展示即売会において販売されたのが最初ね。だからこれを記念して日本では3月4日はバウムクーヘンの日と決められているのよ」
淀みなく解説しながらも、紫乃はいつものスピードで、お弁当箱を綺麗に空にしていた。
「全然知らなかった……そんなに詳しいなんて、紫乃って、実はバームクーヘンが大好きだったりする?」
「……逆よ」
驚いた私は、思わず箸を落としそうになってしまった。
「え、もしかして嫌いだった!?」
最後のご飯粒を口に入れて飲み込んだ紫乃が、深い溜息をつく。
「……だって、バウムクーヘンって、お別れのお菓子でしょ?」
「お、お別れのお菓子……!?」
待って!!
なんかとんでもない話になってる!?
見ると紫乃の顔は、これ以上ないというくらいに曇っていた。
「何言ってんの!? 違うよ! バウムクーヘンって、全然普通のお菓子だよ……!?」
でも、紫乃は指の関節が白くなるくらいに箸を握り締めている。
「だって、バウムクーヘンエンドって言葉があるじゃない!? あれって、幼馴染み同士の片割れが、全然知らないぽっと出の他人と結ばれることを指すんでしょ……ッ!?」
絞り出すような声で言うと、紫乃は空っぽのお弁当箱に静かに蓋をした。
手が、微かに震えている。
「その時に引き出物で渡されるのが、バウムクーヘン、なのよね……?」
「た、確かにそんな言葉はあるらしいけど……」
昔からいつも一緒で、周りからもいつ結婚するのかと言われているような、幼馴染同士。
その片割れが結婚し、残った一人が披露宴でのスピーチを頼まれ、式の後、帰宅して一人で引き出物のバウムクーヘンを食べる、とかいうエピソードから生まれた言葉だ、というのはネットニュースで見た事はある。
確かにあるけど、きれいさっぱり忘れてたよ!
「じゃあ、やっぱりそういう事なのね……」
「だから違う! 違うってば!!」
紫乃がバウムクーヘンをこんな風に誤解しているとは知らなかった----っていうか、知ってたら絶対絶対選んでないし!!
「嫌ッ!! ゆかりの結婚式の後で、私一人バウムクーヘンを食べるとか……私……私……そんなの絶対に耐えられないッ!!」
紫乃は、おもむろに椅子から立ち、箸をぐっと握り締めて叫んだ。
「あ、いや待って待って落ち着いて……! 今は結婚式じゃないし、まず結婚する気もないし、そもそもバウムクーヘンって、別にそういうお菓子じゃないから! 普通の、特に意味はない美味しいお菓子だよ!?」
「いいのよ! 別に全然っ! 怒ってなんかいないから!!」
いや、めっちゃ怒ってますよね?
ってか……激昂、ってこういう状態……?
「ただ……ただね、ゆかりにそういう相手がいるんなら、真っ先に私に教えて欲しかっただけなのよ!! そしたらソイツの事、頭から食べてやったのに……!! それだけよ!!」
バキンッ!!
物凄い音がして、握り締めていた箸が折れた。
確かアレ、漆塗りなのに----。
「紫乃っ! 聞いて! 本当に誤解だってば!」
ダメだ、一度取り乱したら手が付けられない。
だって、紫乃は----。
「……いいの! 私は人間じゃないから、いつかゆかりが離れて行くのは覚悟してたの! でも、ゴメンやっぱり無理ッ! 私は、私は……!!」
紫乃の輪郭が、少しずつ歪み始めた。
白く細い身体が、内側からどんどん変色していく。
ぶにぶにとした、どろりとした粘液塗れの琥珀色の半透明の物体になっていく。
「……私は、ゆかりが居ないと……! また、こんな風に心までバケモノに……あの頃に……戻ってしまう……! それが……怖くて……でも自分では、もう、どうしようもなくて……」
辛うじて人の形を保っていた物体----それは遂に制服のスカートから、堰を切るように白い床の上へと流れ出した。
「だから……私は……わたし……は……」
抜け殻のようになった制服を置いて、さっきまで紫乃だった人型の物体は、ゆっくりとドアに向かって移動を始める。
「待って!!」
怖くはなかった。
ただ、こんな姿の紫乃を誰かに見られたら大変だと、妙に冷静になっていた。
飛び付くようにして準備室の内鍵を閉め、少し開いていたカーテンも思いっきり閉める。
薄闇が、私達二人を包み込んだ。
「行かないで……!!」
蠢く琥珀色の半透明の物体のあちこちで、時折ぼんやりとした光が走っては、消えていく----。
まるで小さな宇宙のようで綺麗だ、なんて場違いな感想を私は抱く。
だけど、これも、紫乃なのだ。
私しか知らない、本当の紫乃の姿なんだ。
何処かで誰かが練習をしているのか、調子外れのトランペットのメロディが、カーテンの向こうから微かに聞こえていた。
「紫乃! 私を置いて行かないで……紫乃は、私のたった一人の幼馴染なんだよ……?」
紫乃の動きが止まる。
「……ゆかりは、私が怖くないの……?」
「怖くなんかない……だから、私はずっと一緒にいるよ、紫乃」
私は紫乃にそっと近付いて、床に膝をついた。
抱き締めると、びっくりするくらいに冷たい。
「ごめんね……私、ただ紫乃に喜んで欲しかっただけなのに……逆に悲しい思いをさせちゃったね……ダメだね……」
いつもなら伝わって来る紫乃の規則正しい鼓動が、全然感じられない。
ただ全体が不規則に波打つような、確かに生きているのだという不思議な感覚が、泣きたくなるくらいに懐かしい----。
顔を寄せると、湿った木の皮と、苔と、土の匂いがする。
森の匂いがする。
雨の後の、少し黴臭い匂いがする。
(そっか、あの晩と同じなんだ……)
小学生の時に両親を亡くし、親戚にたらい回しの末に入れられた養護施設で、私は長年虐待されていた。
どうせこのまま殴られ続けるくらいなら、と施設を抜け出し、裏の山で力尽きて気を失いかけた時、戸惑うように背後から包み込んできてくれた時と、同じ匂いと、感触だった----。
「紫乃、私達はずっと幼馴染みだし、これからもずっと一緒だよ……」
「……本当に?」
私は紫乃を抱き締める腕に、精一杯の力を込めた。
「……紫乃、どこにも行かないで、ずっと私と居て……そして最期の時にはちゃんと私を食べてよ……約束でしょ?」
「……あの約束、守っても……いいの……?」
うん、と頷いて私は紫乃に頬擦りする。
紫乃の粘液と私の涙が混ざって、口の中がしょっぱい。
それでも構わず、私は紫乃に頬擦りを続けた。
「だから……」
紫乃の身体がじんわりと温かくなってきたのが分かる。
外のトランペットの音が、いつの間にか止んでいた。
聞こえるのは私の荒い息遣いと、紫乃の段々と規則正しくなってくる鼓動だけ----。
「……えっと、とりあえず元に戻ってくれる?」
「あら、私ったら、お箸、折っちゃったのね……せっかくお揃いにしてたのに……」
しょんぼりしている紫乃の横で、私は床に落ちていた折れた箸を拾い、箸箱に仕舞った。
「仕方ないよ、お箸にも寿命があるんだって」
「そうなの? さすがオカ研副会長ね」
いや、それもネットで見たんだけど。
「……私ったら勘違いして一人で取り乱しちゃったのね、恥ずかしいわ」
紫乃は既に元の姿に戻っていた。
もう一度バウムクーヘンの箱を覗き、上の薄紙をそっと取った。
「あら! 可愛い!!」
紫乃の声が明るくなる。
「なんだかデコレーションケーキみたいね」
「これ、オリジナルでデコレーションが選べるバームクーヘンなの……紫乃は髪が黒くて色が白いからチョコとホワイトチョコを掛けてもらったの……あと、紫色のスミレの砂糖漬けで飾ってもらって……」
私の説明を紫乃はじっと聞いている。
「……ど、どうかな? 紫乃的にはあんまりって感じ……?」
「ううん! 全然!!」
紫乃が私に飛び付いてきた。
目には涙が浮かんでいる。
「ゆかり……私、すごく嬉しいよ……!!」
「よ、良かった……」
抱き合ったまま私達は机の上のバウムクーヘンを眺める。
「せっかくだから、これは今夜ゆかりの家で美味しい紅茶と一緒に大事に食べたいな」
「……その後は?」
私はちょっとだけ上目遣いになった。
「しばらくぶりにお泊り会もいいかな、なんて」
「……私はいつでも行くわよ」
紫乃はニッコリと微笑んだ。
「パジャマ、用意しておいてね」
「あのね……紫乃……」
私は少し躊躇ってからお願いする。
「今夜は、『本当の紫乃』にだっこして欲しいかな……なんて」
「あらあら、今日のゆかりは甘えんぼうさんね」
教室を出る支度をしながら私達は二人だけの秘密の約束を交わす。
「これは夜に私が持っていくわね」
紫乃は、嬉しげにバウムクーヘンの袋を掲げる。
「わ、もうこんな時間! 紫乃ゴメン先に教室戻るね!」
私は大慌てで化学準備室を飛び出す。
後ろで紫乃が手を振ってくれる。
「……紫のスミレ、ね」
呟いた紫乃の言葉は私には聞こえなかった。
「花言葉は確か、貞節と愛だったけど……あのコ、ちゃんと分かってるのかしらね……?」
くすっ、と含み笑いする黒髪の少女のスカートが、開けたままのドアからの風に揺れた----。




