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3


その後、しばらくはそんな膠着こうちゃく状態が続いたわけだが、それは秋の木枯らしのように突然やってきた。


彼がいつものように、庭園を若い使用人であるフットマンのダンと共に散歩をしていた。その日は冷たい風が強く吹き、草花や遠くの木々を大きく揺らしていた。風が吹きつけるたびにダンは首をすくめ、足元にいる彼は目を細めた。

散歩が終わり、少女の部屋に戻ろうとしたときであった。

部屋の前が妙に騒がしい。何人もの靴音が部屋を行き来していた。

部屋から漂う匂いも、さっきの散歩前とは比べ物にならないくらいの“鉄”。そして街の診療所のような匂いが廊下の外まで広がっていた。


彼を連れたダンもただならぬ雰囲気にリードの持つ手を緩めてしまっていた。すると、ちょうど部屋から出てきたメイドのマリアンヌを捕まえて、何が起きてるのかを問うた。


「マリアンヌ! これは一体なんの騒ぎだい?」


「そ、それが……」


マリアンヌは今にも泣き崩れそうに顔を歪め、明らかに怯えた眼をダンに向けた。やっとの思いで絞り出すその声は震えていた。


「お嬢様が! 血を吐いて……そ、それもたくさん……!」


「なんだって!?」


ダンが部屋の扉の隙間に目を向けると、真っ赤に染まったシーツが、床に丸めて置いてあるのが目に入った。

その瞬間、身の毛がよだち、全身が粟立った。時が止まったようにダンの身体が凍りつく。

よく見ると、マリアンヌの制服の白いエプロンにも、赤い斑点がいくつも散らばっていた。


部屋の中からは、医者と思われる白衣を纏った初老の男が看護婦たちに指示を飛ばしてるのが聞こえてくる。その声は緊迫に満ちていた。


「お嬢様、今日は調子が良いなんて仰っていたのに……そしたら突然! 私どうしたらいいか……!」


「おい! しっかりしろ! 君がそんなのでどうする!」


動揺の色を隠しきれないマリアンヌの肩を、ダンが掴んで揺さぶった。

ハッと我に返ったマリアンヌは息を整え、再び口を開く。


「そ、そうね。ごめんなさい。

それが今、お医者様も来ているの、だから……」


マリアンヌはダンの足元で、しきりに鼻と耳を動かす彼に視線を向けた。


ダンもその視線に気づき、

「……うん、そうだな。部屋に入れるわけにはいかない。空き部屋にでも連れて行くよ」


そう言うと、ダンは彼の首に繋がれた革製のリードを引っ張り、踵を返し空き部屋に向かった。

肝心の彼は何が起きてるのか理解できず、半ば引きずられる状態で少女の部屋とは比べ物にならないほどの小さな部屋に押し込められた。


あまりにも突然のことで、俺の鼻も馬鹿になっちまったのかと思ったよ。娘の部屋からは、鉄と薬、そして人の匂い。いくら鼻をひくつかせても、あの花のように甘い香りの娘の匂いが見つからない。懸命に嗅いでもどこもかしこも布と水と鉄ばかりだ。


しまいには、いつもと違う部屋に閉じ込められてしまう始末に、俺もパニックになって何度も吠えてしまったね。しかも、その日と翌朝なんてメシのことまで忘れやがって。俺は前脚で何遍もドアを引っ掻いたが、誰も来る気配はなかった。

そして、次の日の昼過ぎになって思い出したように、使用人の若い坊やが銀の器を持ってやってきたんだ。

部屋の外は相変わらず、いくつもの靴音がしていた。廊下を駆ける音、部屋を出入りする音。

しかも、ここの住人じゃないやつらの匂いも溢れていた。


――そんな日がしばらく続くと、ようやく俺は娘の部屋に戻されたんだ。

相変わらず部屋の中は鼻の奥を刺すような薬が充満していたが、ベッドの布、椅子から漂う娘の匂いに幾分か安堵した。

しかし、不思議と当の本人がどこにもいないんだよ。探したが“どこにもだ”。

ベッドのシーツからは確かに彼女の匂いがする。だが、そこには「体温」という一番重要な匂いが欠け落ちていたんだ。


だから、俺はジッと待つことにしたんだよ。

“あの娘”が帰って来るのを。


***


その日を境に少女の部屋からは次々と物が運び出されていった。

数日かけてドレッサー、チェスト、衣類や身の回り品に至るまで。

そして、ベッドからもシーツが引き剥がされた。

彼はその様子を部屋の端で見つめるだけだった。


ある時、中年メイドのケイティがロッキングチェアに掛けてあった少女の膝掛けを持ち出そうと手にしたとき、さっきまで部屋の隅にいた彼が突然ケイティに飛びかかったのだ。


「キャーッ!!」


彼女は大声を上げると、ちょうど部屋の前を通りかかった執事のジョセフが慌てて部屋に入ってきた。

ジョセフが目にしたのは、ケイティの手に持つ膝掛けを犬が咥えて取り返そうとしているところだった。


「離しなさい!」


ケイティは声を荒上げ、負けじと膝掛けを引っ張るが、彼の強固な顎がそれを許さなかった。


ジョセフはため息をつくと、彼女に呼びかけた。

「ケイティ!」


ケイティはその声を聞くと、パッと手を離した。


「ジョセフさん、こいつったら……!」


ジョセフはケイティの言うことには耳も貸さずに言葉を上から被せた。


「それはお嬢様の膝掛けだ。きっと匂いがついているのだろう。好きにさせてやれ」


「で、でも……!」


「ケイティ! 仕事に戻れ」


ジョセフの威圧的な声の前に、驚いたケイティだったが、すぐに不貞腐れた様子で「馬鹿犬が!」と吐き捨て、渋々部屋を出て行った。


膝を落とし、ジョセフは彼の頭を撫で回した。


「お前、もしかしてお嬢様を待っているのか? お嬢様はもう――」


ジョセフは言い淀んだ言葉を呑み込み、立ち上がると彼を見下ろした。

その目は、もはや哀れみそのものだった。


あいつらは娘の物を次々と持って行ってしまったんだ。

空気を入れ替えるからって、窓は開け放たれるし、その度に娘の“匂い”が薄まるんだ。いや、消えていくと言った方が正しいかもしれない。

だから、あの女が持っていこうとした膝掛けだけは守りたかった。あれは俺がここに来てから、娘がずっと使っていた物。

“彼女そのもの“だ。

それだけは渡すわけにはいかなかった。


いつになったらあの娘は戻ってくるのだ。

彼女の匂いはもう、この部屋以外にないのに。



――その年の冬はいつもより早く訪れた。

屋敷の中は急いで冬支度が行われ、長く厳しい季節に備えていた。


彼は相変わらず娘の部屋の隅で、クッションの上に置かれた膝掛けに顎を乗せ、静かに目を閉じていた。

部屋にフットマンのダンがやってくると、彼の前に置かれた銀の器を覗き込む。

そこには食べかけの肉の切れ端やパンなどが残されたままだった。


「すっかり食べる量が減ったな。このままじゃ痩せ細ってしまうぞ?」

ダンが彼の頭を撫でながら、そんなことを語りかけていると、後ろからマリアンヌが声をかけた。


「どうしたの?」


ダンが振り返ると、マリアンヌが首を傾げて立っていた。


「マリアンヌか。それが最近、餌を全然食べなくなってしまってね……それに散歩させても、すぐに疲れてしまうようだし。だからちょっと心配なんだ……」

ダンは彼を見ながら肩をすくめた。


「そういえば、部屋にいる時は、ずっとこうやって寝てばかりだわ。お嬢様がいなくなって、すっかり元気がなくなったもの……」


二人は目を合わせると、やり切れないため息をつき、押し黙ってしまった。


やがて、腰に手を当てたダンは呟いた。

「そうだ、今夜は雪が降るかもしれない。冷えるから暖炉に火を入れておいてやろう」


「そうね……」


マリアンヌが窓の外に目をやると、すっかり空は鉛色の雲に覆われていた。


***


その夜はこの冬一番の冷え込みだった。

外は雪が舞い、庭園も遠くの森まで白く覆われ始めていた。

彼がいる部屋は暖炉に火がくべられ、揺れる炎が彼を静かに照らしていた。


すると彼の耳がピクリと動いた。

鼻をひくつかせ、顔を上げると窓辺に少女が立っていた。彼女がわずかに窓を開けると、冷たい空気が彼の鼻を撫でた。


――やっと戻ってきたのか。


やれやれ、あれではまた体調を崩してしまう。

不本意だが、いつものようにこっちまで引っ張ってきてやるか。


彼は静かに立ち上がると、のそのそと少女に近づき、袖を咥えた。

彼女もそれに気づき、微笑むと彼の頭を優しく撫でる。


やがて、少女と彼が暖炉の前にやってくると、彼はゆっくり床に伏せた。

そして少女が彼に身を預けた。


あぁ、この匂いだ。

この花のような甘い香り。

これをずっと待っていたのだ。

ずっと姿を現さなかったから、メシまで喉を通らなかったが、これでいつもの日常に戻るだろう。


俺も“ようやく”寝られる。


そうだ、明日になったらまた散歩をしよう。

君の好きなあの庭園を――




翌朝、ダンはいつものように餌の入った銀の器を持って部屋を訪れた。

部屋に入ると、暖炉の炎はほぼ消え、ごくわずかな橙色の残光が薪の奥に揺れていた。

部屋には、まだ焦げた木の香りと微かな煙の残り香が漂っている。


「おはよう」


ダンがそう言うと、彼の前に餌の入った銀の器を置いた。そしてもう片方の手に持っていた水差しで、空いている器に水を注いだ。


反応がない様子に訝しげな表情を浮かべたダンが、彼の身体を揺すったが、ピクリとも動かない。

すっかり冷たくなったその身体は、魂の抜け殻になっていた。


ダンは顔を青ざめさせ立ち上がると、急いで部屋を出た。

すると、廊下の向こうから執事のジョセフとメイドのマリアンヌが歩いて来た。


「ジョセフさん!」


「どうした? ダン」

顔を青ざめさせたダンの様子に、ジョセフは眉をひそめる。


「そ、それが……!」


ジョセフとマリアンヌがダンに続いて部屋に入ると、横たわる彼を見つけた。


「え!? もしかして……!」

マリアンヌはそう言うと、両手で口を覆った。


「さっき部屋に入ったら、もう……」


ジョセフは冷たくなった彼の頭を撫で、口を開いた。

「お嬢様のもとへ行ったのだろう。これでお嬢様も、きっと寂しくないかもしれん……」


その表情はそうであってほしいという祈りに近かった。


「ダン。埋葬するよう人を呼べ。お嬢様のそばに埋めてやろう」

ジョセフは静かにダンに指示した。


「……わかりました」

ダンが頷くと、涙を浮かべるマリアンヌの肩に手を置いた。


「待って……」

マリアンヌは、彼の傍らに置いてある少女の膝掛けを手に取り、背中にそっとかけてあげた。


そして、三人は部屋を出て行った。


***



――そこは暖かな太陽の光が降り注ぎ、花が咲き誇る庭園だった。

俺はその中を走り回っていた。

窓辺のテラスに目を向けると、娘が椅子に座り、紅茶を飲んでいる。

彼女は立ち上がると、俺の名前を呼んだ。


俺は彼女の元に駆け寄り、いつものように尻尾を振る。

娘はしゃがんで微笑みながら俺の頭を撫でると、首に腕を回した。

それはとても温かかった。


やれやれ、俺がそばにいないとダメだな。

本当に手のかかる娘だよ。


やがて、少女と犬は光に包まれた庭園の中を並んで歩き出した。



(完)

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