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その日から彼の生活は一変した。
雨風を凌げる温かな部屋。柔らかな綿の入ったクッション。そしてなにより食べ物を探し回らなくてもいいこと。
あの娘は俺に“名前”とやらを付けた。庭園で走り回ったり、部屋で寝ている時に、その“音”がすると、駆け寄って尻尾を振ってやれば、娘はずいぶん喜んだ。それだけで“メシ”にありつけるなら、いくらでも振ってやろう。
だが、彼女は昼間だというのに、寝ていることの方が多かった。
夜も息苦しそうな咳で目を覚ますことがある。その度に彼女はベッドの下に手を伸ばし俺に触れるんだ。そして、安堵のため息をつく。
しかし、あの“薬”ってやつだけはいつまで経っても慣れん。街でも嗅いだことがある鼻がツンとする匂いだ。確か俺と同じような老ぼれどもが出入りしている“診療所”と言われるところで何度も嗅いだ匂い。
そんな粉をあの娘は飲んでいた。
俺はあんなもの口にするなんて、頼まれたってごめんだね。
***
彼がやってきてしばらく経ったころには、一日のルーティンが出来上がっていた。
朝はこの家にいる何人もの使用人と共に起き、メイドが少女の部屋にやってくるのをジッと待つ。扉が開くのと同時に飛び出して、厨房の片隅に設けられた専用スペースへ向かう。そこで銀の器に入った餌を与えられる。食事の内容は、肉の切れ端・パン・ミルク・スープと「残飯」ではなく、彼のために作られたもの。路地裏ではとても考えられないメニューだった。
骨ばった身体も大型犬に相応しい体躯になり、毛並みの色艶まで出てきたほどだ。
彼にとってここは“天国”であり、明日の食い物も保証されないストリートにはもう二度と戻れないだろう。
食事が終わると、使用人と共に庭園を散歩し、それが終わる頃には少女がやっと目覚める。
そして、朝の挨拶のために再び部屋に戻る。その後は少女に付きっきりだった。
彼女がソファやロッキングチェアに座り、本を読む時やバルコニーでお茶をする時。庭園を散歩する時と片時もそばから離れなかった。
なぜかって? あの娘は俺がいないと匂い・声・仕草が変わるからすぐにわかるんだ。
本当に手がかかる娘だよ。まぁ頼られるのは悪い気がしないがね。
***
その日は、彼がこの家に来てから初めて迎えた冬の時期だった。
家中が寝静まり、決まった時間だけ聞こえてくる規則正しい足音。それは巡回中の夜警のもの。
そんな夜中に少女は喉を引き裂くような咳で目を覚ました。
傍らに置いてある水を一口飲み、一息つくと外がやけに明るいことに気づいた。
ベッドを降りて窓辺に近づくと大きな粒の雪が舞っていた。バルコニーだけじゃなく、庭園までうっすらと白く染めていた。
「どおりで寒いわけね……」
窓をほんの少し開けると、冷気が彼女の足元から首筋を撫で上げた。ぶるっと背筋を震わせ、吐く息も白い。
すると、後ろから袖を引っ張られるような感覚がした。振り向くと、何か言いたげな目をした犬が彼女の袖を咥えていた。
「あら、あなたも起きていたの?」
窓を閉め、しゃがんで頭を撫でると、彼は再び少女の袖口を咥えて引っ張った。
少女は抵抗もせず、なすがままに暖炉の前へ連れて行かれる。
まるでここに身を沈めろと言わんばかりに、彼は暖炉の前の床に伏せた。
少女はそっと彼に身を委ねた。
「あたたかい……」そう言って微笑むと、何かを思いついたように少女は立ち上がり、ロッキングチェアに掛けてあった膝掛けを手に取った。
そして、彼の大きな背中に静かに掛けてあげた。
「これであなたも寒くないでしょ?」
そう言うとまた、少女は彼に身を預けた。
「なんだか今夜は眠れそうもないわ……」
そんな言葉とは裏腹にすぐに小さな寝息が聞こえてきた。それを見届けると、彼も静かに目を閉じた。
暖炉の炎が揺れ、少女と彼を赤く照らしていた。
***
その年の春の訪れはいつもより遅く感じられた。長い冬が終わり、ようやく森にも緑が芽生え始めた頃、少女はバルコニーにある椅子に腰を下ろしていた。もちろん彼女の足元には彼も一緒だ。
「お嬢様!」
少女が振り向くと、メイドのマリアンヌが戸惑いの表情で立っていた。
「外はまだ寒いです。お身体に障りますよ」
「大丈夫よ。今日はなんだかとっても気分が良いの。だから少しくらい平気よ。それより見て、庭も色づき始めているわ」
少女は柔らかな微笑で階下に広がる庭園を指差した。
「確かにそうですが……」
マリアンヌはわずかに安堵の表情を浮かべると、少女の背中にウールのショールをそっと羽織らせた。
そして、「温かい紅茶をお入れしますね」とテキパキとお茶の準備を始めた。
その様子を傍らで彼はジーッと見ていた。
――その春がここに来てから何度目かなんて覚えていない。二度目だったか、三度目だったのか。
俺は寒い季節がやっと終わり、草花の匂いがし始めて浮き足立っていたんだ。
けど、そんな匂いと一緒に漂ってきたのは、この娘の匂いだ。鉄というか、肌を撫でる風がわずかに錆びついているような……
街の路地裏でもしょっちゅう嗅いだ“あの匂い”。こういうやつは決まってそうだ。“死”に向かってるということ。でも、ここの連中は誰一人も気づいていない。
彼は娘がいなくなったらと、思わず身震いしてしまっていた。
そんなことを思いながら、鼻を鳴らしどこかの木々から飛び立ったツバメをゆっくり目で追っていた。
***
それから娘の匂いは少しずつ変わっていった。前は陽だまりに干した布のような匂いだったのに今はどうだ――花の終わりみたいに、わずかに甘く、焦げつくような、少し冷たい。
風が窓から入るたび、その匂いがふわりと薄まっていく。
“薬”ってやつも、日に日に匂いの強さが増した。喉の奥が焼けるような鉄の味。
けど、その匂いがする日は娘の手があったかいんだ。だから、我慢して鼻をひくつかせることにしている。
ベッドの上に顎を乗せると、少女の細い指先が彼の硬い毛に触れる。
頭を撫でられるたびに彼は目を細め、彼女の視線を追う。その瞳の奥も、以前ほどの光はない。少女が微笑むと彼は鼻を鳴らした。
「早くまた、あなたと庭を散歩したいわ。ほら、外はあんなに晴れているのに」
少女がわずかに顔を窓辺に向けると、初夏の日差しが窓辺に降り注いでいた。
暖かな心地よい風が木々を揺らしている。
「少し寝るわね……」
少女はそう告げるとゆっくりと瞼を閉じた。




