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その日は“いつも”と同じ、ではなかった。
彼はレストランの“メシ”にあやかるため、いつもどおり、路地にある裏口で身を潜めていた。
しばらく経つと、若い男が裏口の扉から顔を出した。男は口笛を吹きながら、残飯の入った袋をバケツに放り投げた。
――これで今日も生き永らえる。
男が建物に戻るのを見計らい、物陰から姿を現すと、彼はすぐさま鼻先と前脚を使って器用にバケツの蓋を押し開け、顔を突っ込んだ。
一心不乱に肉の塊に齧り付いていると、肉の血の匂いに混じり、ふわりと漂ってくるのは花のような甘い香り。
ピクリと耳を動かし、彼は頭を上げた。すると表の通りからこちらの様子を窺う、控えめな刺繍が施された淡色のドレスに身を包んだ、ひとりの少女――
その傍らには鼻の下に髭を蓄えた年配の男が立っていた。
少女は宝物でも見つけたような表情を浮かべ、躊躇いも見せずに路地裏に入ってくると、彼の目の前にしゃがみ込んだ。
昨日降った雨の名残りで地面はぬかるみ、ドレスの裾を汚す。
「お嬢様! 危ないですよ! そんな小汚い野良犬。噛みつかれでもしたら!
あぁ、せっかくのお召し物が!!」
「まぁ、あなたもひとり?私もそうなの」
傍らにいる男の忠告など聞こえていないのか、お構いなしに少女は手を差し出し、彼の頭を撫でようとする。
せっかくの食事の時間を邪魔されたことに、彼は腹を立て唸り声を上げた。
お嬢ちゃん、さっさと帰りな。老いたとはいえ、その白い柔肌を切り裂く牙はまだ健在だぜ。
まるでそうでも言いたげな眼光が少女を射抜く。
鋭い視線をぶつけられた少女は思わず、サッと手を引っ込めた。
「ごめんなさい。じゃあなたがそれを食べ終わるまで待っているわ。いいでしょ?
そしたら私と一緒に行きましょう」
そう言うと、少女は微笑みながら手に顎を乗せ、無心に残飯を食らう犬を見守っていた。
***
馬車はゆっくりと街道を走っていた。
その車窓に見えるのは少女と髭を生やした年配の男。
そして、少女の足元でうずくまる一頭の犬。
犬の首には縄が括り付けられ窮屈そうだった。
「ジョセフ、何度も聞くけど傷は大丈夫?」
少女が心配そうに年配の男の腕を覗き込んだ。
「はい、お嬢様。
こやつめを捕まえるときに、何重にも布を巻いたおかげで、噛まれても引っ掻き傷程度でしたから」
男は笑顔の下で犬を睨みつけた。
少女が路地裏で見つけた野良犬を連れて帰るべく、使用人ジョセフが首に縄を括る時に、どうやらひと騒動あったようだ。男の破れた腕の袖や、土埃が付着したチェスターコートがそれを物語っていた。
ふん、爺さん何を言ってる? 怯える娘の顔を立てて、手加減してやったんだよ。
馬車の床に伏せる彼はそんな目で髭の男をジロリと見た。
だが、この箱はよく揺れる。寝られたもんじゃない。
しかし、まさかこの俺が“野良犬狩り”に捕まるとはな……
彼は街の野良犬が捕まり、檻に入れられ連れて行かれるのをよく目にしていた。二度と戻らない奴らはきっと殺されたのだろう。
自分もきっとこれからそんな目に遭うのか。だがそれもいいかもしれない。路地裏で生きていくには少々歳をとりすぎた。――と、どこか達観した面持ちで目を閉じた。
「わたくしのことより、お嬢様、お身体のご加減は大丈夫でしょうか?今日はだいぶ外におりましたが……」
「ふふ、大丈夫よ。今日は素敵な出会いがあったし。
“いつもより”調子が良いみたい」
「左様でございますか。しかし、帰宅されたら、一度お休みください」
「……わかったわ」
少女はそう言うと窓の外を見つめた。外はまだ陽も高いのに、その視線だけは陰りがあった。
しばらくすると馬車が止まり、一定のリズムを刻んでいた馬の蹄の音も止んだ。代わりに漂ってきたのは花の香り。
馬車の扉が開き、年配の男が先に降り、次に少女が男に手を添え降りた。
馬車の前には二人のメイドが彼女たちを出迎えていた。
メイドたちがジョセフの破れた袖口、土埃のついた服を見て、訝しげに思っていると、馬車から大きな犬が出てきて、彼女たちはギョッと目を見開いた。
「今日からここがあなたのお家よ」
少女は膝をついて彼を撫でる。
一体、ここはどこだ。俺は“こんなところ”で息の根を止められるのか?
それよりもこの娘、今なんて言った……?
そんな顔をした彼は辺りを見回し、しきりに鼻と耳を動かした。
庭園には色とりどりの草花とその匂い。遠くの森からは鳥の声。街の路地裏では見たこともないほどの大きな建物が目の前にそびえ立ち、彼を圧倒した。
「マリアンヌ、お風呂の用意お願いね」
「え?お嬢様、この時間に入られるのですか?」
「いいえ、 “この子”が入るのよ。だって汚れたままだとあなたたち嫌がるでしょ?私は気にしないけど」
赤毛の若いメイド・マリアンヌは「はぁ、確かに……」と間の抜けた返事をした。
少女と犬、そしてメイドのマリアンヌが屋敷の中へ消えると、もう一人のメイドである中年女ケイティが口を開いた。
「ジョセフさん、いいんですか?犬なんか?」
「……お嬢様はご病気のお身体だ。多少のわがままなら言う通りにしろと、当主様から仰せつかっている。お前もわかっているだろう。それにお嬢様が犬の一匹で気が晴れるのなら……それも良かろう」
「療養するためにこんな田舎まで来たなんて言うけど、お嬢様、子供も産めない身体だから……本家から“厄介払い”されたようなものですものねぇ……」
ケイティは心配しているというよりは、どこか好奇心に満ちた噂話のような調子で呟いた。
そんなケイティにジョセフは鋭い視線を投げつける。
「口が過ぎるぞ、ケイティ。とっとと仕事に戻らんか」
「ひぇ」と小さな悲鳴を上げたケイティも足早に屋敷に入って行った。
そんな彼女の後ろ姿を見て、ジョセフは深いため息をついた。
――
湯気のこもる洗い場に彼は静かに立っていた。
見上げることも、視線を落とすこともなく、ただそこに佇んでいた。
濡れた黒い短毛は身体に張り付き、思いの外細い骨格を際立たせた。
マリアンヌがそっと背中にバスタオルを落とすと、一瞬耳がピクリと動く。
怯えることなく、ふんわりとした布地は温かいものと察した。
タオルで拭かれるたびに毛が少しずつ立ち上がっていく。毛の間に入り込んだ砂や垢はすっかり洗い流されていた。
彼はジッとしてそれを受け入れた。目を細め、鼻を小さく鳴らしたその顔は、「むしろ悪くない」そんな感じに見てとれた。
拭き終えた身体はどこか誇らしげで、黒い毛並みが窓から差す陽光を反射した。
「ありがとう、マリアンヌ。
それにしてもあなたも見違えたわ。とてもハンサムよ」
少女はにこりと微笑むと、彼の前にしゃがみ込み撫で回した。
彼はこれから殺されてしまうのかもしれないという、そんな不安は、いつしかどこかに消えてなくなっていた。




