第一日目の審理
開廷の鐘が鳴り響いた。
王立法廷の扉が開かれ、傍聴人たちが次々と入場してくる。身分を問わず、人々の関心は異常なほど高い。傍聴席はあっという間に満席となり、立ち見の者さえいる。
僕は記録席に座り、記録羽根筆を構えた。この魔法の羽根ペンは、話された言葉を自動で記録する。しかし、それだけでは不十分だ。表情、仕草、法廷の空気。言葉にならない情報も、記録者は見逃してはならない。
法廷の中央には、真実の天秤が設置されている。偽証を検知する魔法装置。完璧ではないが、明らかな嘘には反応する仕組みだ。
廷吏の声が響く。
「ご起立ください」
全員が立ち上がる。扉が開き、エドワード・グランフォード大法官が入廷した。白髪の初老だが、その眼光は鋭い。法と正義を何よりも重んじる人物として知られている。
大法官が着席すると、全員も着席する。
「王国法廷記録 第472号、これより開廷いたします」
槌が木製の台を打つ。重い音が響き、法廷内が一瞬で静まり返った。
「原告アリシア・フォン・エスターク、被告第一王子リオネル・フォン・エスフェリア。本日より三日間で、この裁判を執り行う」
僕は羽根ペンを走らせ、一言一句、漏らさず記録していく。
「原告側弁護士、訴状を朗読してください」
セバスチャン・ロートシルトが立ち上がった。四十代半ば、灰色の髪を整え、冷静な眼差しを持つ男だ。濃紺の弁護士ローブを纏っている。
「訴状を朗読いたします」
セバスチャンの声が、法廷内に響いた。
「原告アリシア・フォン・エスタークは、被告第一王子リオネル・フォン・エスフェリアを、名誉毀損および婚約不履行にて訴えます」
傍聴席がざわめく。
「被告は、原告との婚約を一方的に破棄いたしました。その理由として挙げた三点。第一に『庶民への暴言』、第二に『使用人への虐待』、第三に『慈善の偽装』。これらは、いずれも虚偽であります」
セバスチャンが一呼吸置く。
「これらの虚偽の理由により、原告の名誉は著しく傷つけられました。社交界では『冷酷な悪女』と呼ばれ、領地の民からも疑いの目を向けられております。原告は被告に対し、公開謝罪、名誉の回復、および賠償金を求めます」
訴状の朗読が終わった。次に、被告側弁護士ヴィクター・ハーヴェイが立ち上がる。五十代、がっしりとした体格の男だ。
「被告は、原告の訴えを認めません。婚約破棄の理由として挙げた三点は、いずれも事実であります。複数の証人がおり、証拠もございます」
ヴィクターの声は力強い。
大法官が槌を打ち、静粛を求めた。
「では、原告アリシア・フォン・エスターク、証言台へ」
エスターク令嬢が立ち上がった。
プラチナブロンドの長髪が光を受けて輝いている。碧眼は、意志の強さを感じさせる。シンプルだが上質な深緑のドレスを纏い、背筋が伸びた立ち姿。その表情は冷静だが、どこか毅然としていた。
アリシアは証言台に立ち、大法官に一礼した。
「宣誓いたします。アリシア・フォン・エスタークは、偽りなく、真実のみを述べることを誓います」
静かな声だが、明瞭でよく通る。
セバスチャンが質問を始めた。
「原告、被告が婚約破棄の理由として挙げた三点について、それぞれお答えください。まず、『庶民への暴言』について」
「私は一度も、庶民を見下す発言をしたことはありません」
アリシアの答えは即座で、明確だ。
「『使用人への虐待』については?」
「使用人を虐待したこともありません。むしろ、使用人たちとは良好な関係を保っておりました」
「『慈善の偽装』については?」
「慈善活動は、幼少期から真心をもって行ってまいりました。偽装などしておりません」
三つの質問に、アリシアは淀みなく答える。僕はその様子を注意深く観察した。表情、声のトーン、身振り。視線は真っ直ぐで、言葉に迷いがない。真実の天秤も、傾いていない。
この令嬢、嘘をついているようには見えない。その観察を記録に加える。
「質問は以上です」
セバスチャンが着席した。
「被告側弁護士、質問はありますか?」
大法官の言葉に、ヴィクターが立ち上がる。
「原告は、自身の無実を主張しておられます。しかし、複数の証人が、原告の『悪行』を目撃しております。大法官、証人を召喚させていただいても?」
「許可します」
廷吏が証人を呼ぶ。扉が開き、ひとりの女性が入ってきた。三十代前半と思われる女性だ。メイド服を着ている。目は腫れぼったく、明らかに泣いていた様子がある。
大法官が宣言する。
「メアリー・トンプソン、証言台へ」
メアリーは、震えながら証言台に立った。
「宣誓をしてください」
「は、はい……メアリー・トンプソン、宣誓いたします。偽りなく、真実のみを述べることを……誓います」
声が震えている。緊張しているのか、それともなにか別の理由があるのか。
ヴィクターが質問を始めた。
「メアリー・トンプソン、あなたは以前、原告の侍女として働いていたと聞いています」
「はい……そうです」
「原告の下で働いていた期間は?」
「二年間です」
「その間、原告から何らかの暴力を受けたことは?」
メアリーが顔を歪めた。涙が頬を伝い落ちる。
「……ありました」
傍聴席が、一斉にざわめいた。
「どのような暴力でしたか?」
「お、お皿を割ってしまった時……アリシア様は、私の頬を叩きました」
メアリーが手で頬を押さえる。まるでその痛みを思い出したかのように。
「それは、いつのことですか?」
「三年前の……冬です」
ヴィクターが頷く。
「他には?」
「それから、私が遅刻した時も……なんども叩かれました。私は、耐えられなくなって……辞めました」
涙ながらの証言。メアリーの声は、苦痛に満ちている。傍聴席の人々は、同情の眼差しでメアリーを見ている。一方、アリシアへの視線は、冷たいものに変わり始めていた。
僕は冷静に観察を続けた。メアリーの証言、その表情、声のトーン。確かに、真実を語っているように見える。
しかし――
視線……?
一瞬だった。メアリーが、傍聴席のある方向を見た。その視線は、だれかに確認を取るように見えた。「これで合っているか」と問いかけるように。
僕は素早く傍聴席を観察したが、人が多すぎて、だれを見たのかは特定できない。数十人の貴族、商人、平民が座っている。気のせい……ではないはず。彼女は確かに見た。
記録に残すべきか迷ったが、一応メモを取る。「証人の視線、一瞬だけ傍聴席の特定方向へ。対象不明」と。
真実の天秤は、傾いていない。メアリーは、少なくとも自分が「真実だと信じている」ことを語っている。
「質問は以上です」
ヴィクターが着席し、セバスチャンが立ち上がった。
「証人に質問いたします」
セバスチャンの声は、冷静で鋭い。
「あなたが『暴力を受けた』と主張する日付ですが、三年前の冬とおっしゃいましたね?」
「は、はい……」
「しかし、原告の記録によれば、三年前の冬、十二月から二月にかけて、原告はエスターク領におりました。王都にはおりません。あなたが働いていたのは、王都の屋敷ですね?」
メアリーが目を見開いて言葉に詰まる。
「え……あ……それは……」
「日付を間違えたのでしょうか?」
「……そう、です。間違えました。二年前の、冬です」
メアリーの声が、さらに小さくなる。
「二年前の冬ですね。記録いたします」
セバスチャンはゆっくりと着席した。
メアリーは証言台を降り、廷吏に付き添われて法廷から退出する。その足取りは、入ってきた時よりもさらに不安定だった。
僕は記録を続けながら考えた。日付のずれ……単なる記憶違い? なにかが、おかしい。しかし、まだ断定はできない。
大法官が宣言した。
「本日の審理は、ここまでといたします。明日、第二日の審理を行います。午前九時に開廷」
判決の槌が打たれる。傍聴人たちが立ち上がり、ざわめきながら法廷から出ていく。
「やはり、アリシア様が……」
「でも、証拠は……」
「明日、どうなるのかしら」
様々な声が聞こえる。僕は記録を整理しながら、今日の証言を振り返った。アリシアの証言は明確で、嘘をついている様子はない。しかし、メアリーの証言も、涙ながらで真実味がある。
ただ、日付のずれが気になる。そして、あの一瞬の視線。明日、なにが明らかになるのだろうか。記録帳を閉じ、僕は法廷を後にした。