あなたがメガネを外したとき、わたくしは恋に気づきました
今回は良い妹ですが、余計なことを言います。
──氷の伯爵令嬢。
その呼び名を耳にするたび、アイシア・ヴァルトハイムの胸は重く沈む。
彼女は決して人を見下したことも、冷たくあしらったこともない。
彼女は極度のあがり症──人前に出ると緊張のあまり笑顔が引きつり、口元が強張ってしまうのだ。結果として睨んでいるように見られてしまう。
社交界にデビューした当初から、アイシアなりに努力はしてきた。
貴族の令息に「ごきげんよう」と声をかけようとする。
だが──
「ご、ご、ご、ご、ご、ご、ご、ご……」
まるで強敵が登場する際の効果音のようになってしまい、令息たちの恐怖心を煽るばかり。
さらに、こんな噂まで広まってしまった。
「あいつ、この前の舞踏会で“氷の伯爵令嬢”に声をかけられたらしいぞ」
「それで次の日、落馬したんだとか……」
──アイシアに話しかけられると不幸に見舞われる。
根も葉もない流言飛語が、彼女の名にいっそう悪い印象を与えていった。
アイシアには一歳下の妹フィオナがいた。姉とは対照的に、愛想がよく社交界の華として人々に囲まれている。
ある時、アイシアは妹に尋ねた。
「どうすれば、あなたのように皆さまからお声かけいただけるのかしら?」
「お姉さま、まずは笑顔ですわ。にっこり微笑んでいれば、不思議と皆様の方から寄ってきてくださいますの」
フィオナの助言を胸に、次の舞踏会でアイシアは笑顔を心がけた。しかし、その笑みは不敵な薄笑いと受け取られ、かえって周囲を凍りつかせる。
やがて彼女に話しかける令息はいなくなり、舞踏会に参加しても壁際でただ佇むだけになってしまった。
◇
アイシアが社交界にデビューして三年。
いまだにまともな求婚の話がない娘に、伯爵である父は頭を抱え、ついに一つの決断を下した。
「アイシア。縁あって、侯爵家の嫡男を紹介された。魔法薬の研究ばかりに没頭する少々風変わりな男だが……実直で誠実な人柄だという。まずは会ってみなさい」
そうして現れたのが──
「……初めまして。クラハム・シューベルグです」
その男は瓶底のように分厚い眼鏡をかけ、髪は寝癖で爆発し、服もくしゃりと皺だらけ。背筋も猫背気味で、とても貴族とは思えないほどのだらしなさだった。
──ドキドキ。
アイシアは緊張していた。そのため、顔が引きつり、不敵に見える笑みを浮かべてしまう。
一方のクラハムは、その笑みに臆することなく、ただじーっとアイシアを見つめていた。
アイシアは、戸惑い焦りながら口を開く。
「こんにちは。私はアイシア・ヴァルトハイムです」──そう言うつもりが、
「こ、こ、こ、こん、こん、こん……」
まるでキツネの鳴き声のようになってしまった。
「ぷっ……ははははは!」
クラハムが思わず腹を抱えて笑い出す。
「“氷の伯爵令嬢”という噂は耳にしていましたが……まさか、こんなに愉快な方だったとは」
からかわれたように聞こえて、アイシアは思わずムッとする。
「わ、私はふざけているわけではありませんの! 一生懸命、ご挨拶しようとしただけですのに!」
その剣幕に、クラハムは笑いを止め、真剣な表情で言った。
「大変失礼しました。では、改めて……あなたの自己紹介をお願いします」
「……こんにちは。私はアイシア・ヴァルトハイムです」
(あれ……? 今度はすんなり言えた。それに、初対面の男性にこんなふうに感情をぶつけるなんて……初めてですわ)
これまでにない自然さで異性に接する自分に、アイシアは驚きを隠せなかった。
◇
それから二人は、何度か顔を合わせることになった。アイシアは、そのたびに胸の奥で緊張の鼓動を覚えていた。
最初のうちは、気まずい沈黙が続いた。けれど──。
クラハムが研究の失敗談を、どこか照れくさそうに語り始めたとき、アイシアは思わず声を上げて笑ってしまった。
「……ごめんなさい。笑うつもりではなかったの」
「いえ。笑っていただけて……正直、嬉しいです」
──ドキッ。
その言葉も、笑顔も、アイシアの胸を高鳴らせる。
クラハムの穏やかな雰囲気に触れるうち、アイシアは次第に肩の力を抜いて話せるようになっていった。舞踏会での失敗談さえ口にできるようになり、それを彼は決して否定も嘲笑もせず、ただ静かに受け止めてくれた。
クラハムと過ごす時間は、いつしかアイシアにとってかけがえのないものへと変わっていた。
──そんなある日。
外出の支度をしていると、妹のフィオナが声をかけてきた。
「最近のお姉さま、ずいぶん楽しそうですわね。私まで嬉しくなってしまいます」
「ありがとう、フィオナ。やっぱりクラハム様のおかげかしら。まだ緊張してドキドキするけれど、彼の前ではありのままの私でいられるの」
「いよいよ、“あがり症”も完治なさるのかしら?」
「そうでもないの……。クラハム様以外には、相変わらずだから」
「それって……もしかして、クラハム様を下に見ているということではなくて?」
「え……?」
「以前おっしゃってましたわよね。『貴族の令息はみんな輝いて見えて、自分に自信が持てなくなる。だから緊張して話しかけられない』って……」
その言葉は、アイシアの胸を締め付ける。
(そ、そんなはず……ないと思いたい。……でも、フィオナの言う通りなのかもしれない……)
返す言葉を見つけられず沈黙する姉に、フィオナは慌てて取り繕う。
「あ、あの……お姉さま。で、出かけるのでしょう? ほら、ニッコリ笑顔ですわ」
けれども、その明るい声は、アイシアの耳には届いていなかった。
◇
その日の午後。
クラハムの屋敷の庭園で、アイシアは彼と並んで歩いていた。
分厚い眼鏡の奥にある彼の瞳は、いつも通りよく見えない。けれども、それが今のアイシアにはむしろ都合が良かった。
(……言わなくちゃ)
フィオナに言われた言葉を思い出しながら、握りしめた手に力を込める。
「クラハム様……私、お話ししたいことがございますの」
「……何でしょう?」
アイシアは深く息を吸い込んだ。
「妹に指摘されましたの。私が、あなたを見下しているのではないか、と。……正直、その言葉を聞いたとき、胸が痛みました」
アイシアは自分の言葉に胸を押さえる。
「貴族の令息方とご一緒すると、皆さまがあまりに眩しくて、私は自信を失ってしまうのです。だから、緊張して話しかけられない……」
声は震え、吐き出すたびに弱さが露わになる。
「けれど……あなたの前では違う。飾らない自分でいられるのです。どうしてなのか、自分でも分かりません。ですが、決してあなたを馬鹿にしていたわけではございませんの」
言い終えた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
彼の表情をうかがうのが、恐ろしくて仕方がなかった。
短い沈黙ののち、クラハムは口を開いた。
「……なるほど。率直に打ち明けてくださって、ありがとうございます」
眼鏡の位置を指先で直し、淡々とした声音で続ける。
「ですが……どうかお気になさらないでください」
──ズキッ。
柔らかな声色なのに、どこか突き放すように響いて、アイシアの胸に鋭い痛みを残した。
(今……私、クラハム様を傷つけてしまったの……?)
後悔が波のように押し寄せ、胸の奥が掻き乱される。
──そして、その日を境に、アイシアはクラハムと会えなくなった。
侯爵邸を訪れても、侍従が口にするのは「研究室にこもっております」という答えばかり。
数日が過ぎ、一週間が過ぎ、やがて二週間、三週間……。
会えない日々が重なるごとに、アイシアの胸には不安が募っていった。
(どうして……。あんなことを言わなければよかった。謝りたいのに……)
そんな姉の姿に、フィオナは責任を感じ、そっと手を取る。
「お姉さま。気分を変えましょう。今度の舞踏会にご一緒してくださらない?」
しばし迷ったのち、アイシアは静かに頷いた。
◇
久しぶりの舞踏会。
煌びやかなシャンデリアの下、音楽と人々のざわめきが広がっていた。
けれどアイシアは、壁際でグラスを手にしたまま、冷たい笑みを貼りつけて立ち尽くしている。
(私は“氷の伯爵令嬢”のまま……)
そんな自嘲が胸をよぎった、そのとき──広間の扉が開き、ざわめきが起こる。
入ってきたのは、乱れた髪に分厚い眼鏡──見慣れた姿だった。
「クラハム様……!」
彼は人々の視線を一身に浴びながら、緊張を隠さぬ面持ちで歩み寄ってくる。その手には、小瓶がひとつ、固く握られていた。
「完成しました、アイシア様」
真っ直ぐに彼女の前へ進み出ると、深く頭を下げる。
「あがり症を和らげる魔法薬です」
「……あがり症を、和らげる?」
「はい。僕はずっと研究を続けていました。でもなかなか完成せず……。けれど、あの日、あなたの言葉で気づけたんです。最後のピースに」
「最後の……ピース?」
「それは、周囲の人を“野菜に見えるようにする”ことです」
「野菜……?」
「あなたは仰っていましたね。『貴族の令息は眩しくて、自信を失くす』と。だから、周りがカボチャや大根に見えたら……緊張せずに済むんじゃないかと」
説明に広間がどよめき、アイシアも思わず目を見開いた。
「でも……なぜ、そんな研究を?」
問うと、クラハムは頬を赤らめ、視線を逸らした。
「それは……僕自身が、あがり症だからです」
「え……?」
「実は、この分厚い眼鏡……度を強めに入れて、わざと相手の顔がぼやけるようにしているんです。相手の表情がはっきり見えると、どうしても緊張してしまうので……」
(クラハム様も……私と同じ……)
気づけば、アイシアの指はそっと伸び、クラハムの眼鏡を外していた。
素顔のクラハムと目が合う。途端に、彼の顔は真っ赤になった。
慌てて眼鏡をかけさせると赤面が和らぎ、外せばまた真っ赤になる。
その繰り返しに、アイシアの頬が思わずほころんだ。
「や、やめてください! 遊ばないでください!」
クラハムが慌てて眼鏡をかけると、アイシアは笑みを収め、真剣な瞳で告げた。
「この前は……ごめんなさい。あなたと会えなくなって、ようやく気づいたのです。私は、あなたを見下してなんかいなかった……。あなたは……私にとって特別な方なの」
堰を切ったように想いが溢れ出す。
「だ、だから……本当の私を見てほしい。魔法薬も、眼鏡もいらない。あなた自身の瞳で、飾らない私を──」
アイシアの想いに応えるように、クラハムも胸の奥の決意を言葉にする。
「僕は、人に見られるのが苦手です。だから、この眼鏡でずっと表情を遮ってきました。でも……それじゃあ、本当に大切な人の顔まで見えなくなってしまう」
そう言うと、クラハムは自ら眼鏡を外した。
赤面しながらも、真っ直ぐにアイシアを見つめる。
そして、震える声で、それでもはっきりと告げた。
「僕はあなたに恋をしました。眼鏡越しではなく、自分の瞳で、これからのあなたを見ていたいんです」
広間の中心で、堂々と響く告白。
アイシアは息を呑み、頬を染めながらも、初めて心からの笑みを浮かべた。
──ドキドキ。
そのとき気づく。この胸の高鳴りが、緊張ではなく──恋のときめきによるものだと。
「……わ、私もあなたに、クラハム様に……恋しています」
広間に静寂が訪れる。人々の息さえ止まったかのように、ただ二人を見守る空気が流れた。
やがて、誰かの小さな拍手が響く。
それに続き、次々と音が重なり、やがて祝福の喝采へと変わっていった。
煌めく光の下、音楽よりも甘やかな旋律が広間を包み込む。
アイシアは胸の奥に広がる温もりを感じながら、隣に立つ彼を見上げた。
クラハムは、赤面したまま、それでも誇らしげに微笑んでいる。
今宵、“氷の伯爵令嬢”は初めて氷を溶かした。その微笑みは、広間を飾るどんな宝石よりも、美しく輝いていた。
周囲と同じように拍手を送りながら、フィオナは胸を撫で下ろす。
(ふぅ……よかったわ。これでひとまず安心。さて、次は私の恋を探さなくちゃ)
最後までお読みいただきありがとうございます。
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