第256話 百泄不撓のエルフ<花摘み>
「──うへぇ。ここ、個室トイレじゃないんだ……」
変装用の仮面の下で顔をしかめつつ、廃ホテルのトイレを覗き込んでいたのは、薄紫色の長い髪を左右で三つ編みにし、それをグルリと円形に曲げて結っている少女。
その名をアネモネ。
何故かいつも肝心な時に限ってトイレが近いエルフである。
「廃ホテルってだけあって、古いし、汚いね……」
トイレの中には向かい合うようにして木製の長椅子のようなものが置いてあり、その上に衝立が等間隔に並んでいる。
それによって確保された一人分のスペースには丸い穴が空いており、どうやらそこに腰をかけて用を足す様式なことがうかがえた。
その座面はなんかこう、色々と染みがあるように見えて座るのに躊躇してしまう。
とはいえ、ブルリ。
尿意がこみ上げて体が震えた。
……もうそろそろ、限界ってヤツだ。
背に腹は代えられない。
片方の手でスカートをたくし上げて、便座へと腰を下ろす。
その直前、
「ヨシッ! この位置なら、いける……!」
アネモネはもう片方の手で握っていた聖杖の先端を、背中側の壁へと突き立てて体を支えた。
お尻はギリギリ、座面への接触を免れる。
いわば今の状態は、空気椅子。
……便座があったらソコに座らなければならないのか? 答えは否である。
「出せるものが出せればそれでいいのさ……フゥ──」
それはまるで、崖のすき間から湧き出した水が、その下の岩に落ちて弾けるような水音だった。
ああ、心安らかなり。
いや、それにしてはちょっと勢いが強いか?
やはり、半分空気椅子状態で力が入っているからだろう。
いつもより水圧が高い気がした。
そこへと、
「──今だッ!!!」
張り上げられる女の号令。
それと共に、アネモネの頭上、真正面、背面、そして左右の壁が破壊される。
そのガレキと共に迫りくるのは黒いローブを身にまとった者たちだ。
驚きに目を見開くアネモネへと、直前まで巧みに隠していたのだろう魔力を全開にして迫りくる彼女らの正体は、当然魔女である。
「奇襲を仕掛けた側が奇襲されるとは考えなかったのか? エルフッ!」
真正面から迫るその魔女の名は、カラス。
今朝、キンセンカに撃退された内の一人だった。
明日の作戦を前に、ちょうど薄黄色髪のエルフを相手にするための実戦練習をしていたことが功を奏した。
おかげで、精鋭部隊の息は完璧にそろい、仕掛けのタイミングも完璧。
支えにしていた壁を失って体勢を崩したアネモネを、完全に包囲できている。
「敵地でトイレに駆け込むなどという愚行、あの世で後悔するがいいッ!」
放たれたその渾身の魔術は、確実にエルフを屠る直撃となる──
そのはずが、しかし。
「やめてよね、まったく」
突如としてアネモネの全身が光の球に包み込まれたかと思うと、その輝きが迫りくる全ての魔術を弾き飛ばした。
エルフの使う防御聖術、光の壁。
それが何の予備動作もなく、継ぎ目のない形で全方位に、球状に展開されたのだ。
「チィッ! この奇襲に反応するかっ……!」
目を丸くする魔女たちに、しかし驚愕のヒマは与えられない。
後ろに倒れかけのアネモネが体を支えるため、聖杖の石突きをトイレの座面へと叩きつける。
直後、アネモネを囲い守っていた光の球は、爆発の衝撃波のごとき速度で周囲へと広がって魔女たち全員を強かに吹き飛ばした。
「ガハァッ!?」
「まったく。トイレくらい、ゆっくりとさせてほしいんだけど」
アネモネは嘆息する。
トイレを邪魔されるのは、初めてじゃない。
とはいえ、毎度のごとくうっとうしいことに変わりはない。
「ぜんぶで五人か」
アネモネは『古くて汚い』から『荒廃』にバージョンアップしたトイレを見渡して魔女たちを数え終わると、キュッと。
下腹部に力を入れて直立する。
心持ち、内股ぎみに。
「十秒で終わらせるね。オシッコ、それ以上ガマンできないし」
「……ッ!」
それはあまりにも悪意なく放たれたがゆえに、これ以上ない侮辱の言葉だった。
カラスは、ギリッと。
怒りを嚙み殺すようにしてその歯を食いしばり、再び立ち上がると、
「クロエ、オニキス、ウルシ! 光の壁を中和しつつ、エルフの動きを封じておけ! 最大出力で私がトドメを刺す!」
そう叫ぶ。
するといなや、アネモネの左右と背後に転がっていた魔女たちは、懲りずに再び飛び掛かってくる。
一方で正面にいるカラスは、攻撃魔術の術式を展開し始めた。
「……おぉ」
感心したように、アネモネは吐息を漏らす。
カラスの魔術術式に込める魔力量が、明らかに彼女の限界を超えていたからだ。
それには間違いなく、カラスの背後に隠れるようにしているもう一人の魔女が、カラスに対して使っている魔術が影響しているに違いなかった。
「それがウワサの <魔力供給>の魔術か、面白いね。観察のし甲斐が──ぅぅおっ」ブルブルブルッ‼
「その余裕の表情が消えるのもすぐだ! エルフッ!」
「いや、も、限界近いよ……」
カラスの魔術が、内股ぎみのアネモネに向けられる。
発動までもうわずかといったところだろう。
だが、アネモネがそれを止めることはできなかった。
再び光の壁を爆発的に膨張させる技はもう使えない。
なぜなら、左右と後ろから迫る魔女たちが、アネモネの球状の光の壁を消し去るべく、様々な攻撃魔術や魔力による中和術式を試みていたから。
キンセンカの情報通り、かなり優秀な魔女たちであることに違いはなかった。
だが、
「じゃ、倒すね」
それでもなお。
アネモネの勝利の確信は揺らがない。
──これはアネモネが知る由もないことだが、魔国と西方エルフ国家の戦争時、彼女には一部の魔獣部隊から戦場識別子を当てられていたことがある。
アネモネが戦線に投下されてから一週間。
エルフの排泄中を奇襲して功績を上げていた魔獣部隊が、ことごとく返り討ちに遭う事件があったのだ。
普通、排泄中という無防備なところに奇襲をかけられればただではすまない。
それは強者たるエルフと言えども同じ。
生理的欲求に抗ってでもその場から退避するのが通常である。
しかし、アネモネだけは違った。
その圧倒的実力によって幾度も魔獣部隊の奇襲を退けると、そこに大小ともに完全なる排泄跡を残して去っていくのだ。
──排泄、それでもなお、不落。
その戦場でのありように、いつしか、彼女の排泄の痕跡を確認した魔獣部隊たちは、急いでこのような内容の通信連絡を入れるようになったものである。
『警戒せよ。 <花摘み>が現れた』
百泄不撓のエルフ、花摘み。
どのような排泄時の奇襲にも屈することのなかった彼女を、魔獣部隊たちはそう識別し、畏れた。
彼女一人の存在のために、魔獣部隊によるエルフの排泄時を狙った奇襲の数も一時期は減ったといわれているほどだ。
そんな一部の最前線においては東の賢者よりも恐れられていた花摘みにとって、敵陣排泄下における戦いはむしろ、自らのホームグラウンドですらある。
──アネモネ・ダムの貯水限界位の到達と放水再開まで、あと二秒。
刻々とタイムリミットが近づく中で、しかし。
アネモネの目に焦りはない。
むしろ、排泄中断時のアネモネは極度の集中状態に突入する。
「引き寄せ──負の式」
アネモネの聖杖が、通常発さぬ薄紫色の光を灯し始めた。
いつもお読みいただきありがとうございます!
次のエピソードは「第257話 シェスと因縁の気配」です。
次回は2/16更新予定です。
それでは次のエピソードもなにとぞよろしくお願いいたします。




