ライムトニック・シャワー ~side B
見上げると曇天のグレイな空から大粒の雨が降りしきっている。
時刻は午後七時を回った頃。そう言えば、今日は朝から降ったりやんだりしながらもずっと降り続けている。
日曜だってのになんなんだ。
これから更に降りが強くなるって? 嫌がらせかよ。
俺は、駅まで後三分の所で土砂降りの雨に見舞われ仕方なく、営業が終わったレストランのひさしの下で一人雨宿りをしている。
梅雨寒のせいか、薄いTシャツの上からネイビーのストライプ柄半袖シャツを羽織っただけでは少し肌寒い。
しかし、左頬はまだ僅かに熱を持っていることを意識する。
『あんたって、最低! 何よ。大手商社のエリートだかなんだか知らないけど、言っていいことやっていいことがあるでしょう』
いつものように過ごしていたつもりだったのは俺だけだったのかも知れない。
なじみの部屋で抱いた女から、
『淳って結婚する気ないの?』
と、意味ありげに聞かれた。
『少なくともお前とはしねえよ』
そう素っ気なく答えた後、彼女の平手が左頬に飛んできた。
『……泣くくらいなら俺には近づくな』
そう言い捨てて部屋を出たときはまだ、こんなあいつの涙のような降りじゃなかった。
だから、部屋に傘を置き忘れてきた。
大体、俺と続く女はいないよな。
俺自身に続ける気がないんだからそれも当然だろう。女を抱くのは一夜限り。
そう割り切っている。
それでも、続いていた体裁だけでも『彼女』だった数少ない女の内の一人をまた失っただけ……。
「傘無いの?」
その時。
聞き知った少し懐かしい声が響いた。
目の前に、俺の『彼女』の中でも一番つきあいの長い『琴美』が、鮮やかなライムグリーンと白のボーダー柄の大きな傘を持ち、黒いショートパンツにショートブーツ姿で立っていた。
その立ち姿は小柄ながらも、すらりとした脚線美を強調している。二、三十代・男女に人気のアパレル副店長だから、センスもいい。今日もオールブラックのコーデだが、重くならないよう柔らかい素材のトップスに、腕にはシルバー素材のバングルをさりげなく合わせている。
「ああ」
しかし俺は一瞥しただけでまた機嫌悪く、どんよりとした空へと視線を泳がせる。
「……そっか」
こいつと会うのは三ヶ月ぶりか。
最後に逢ったのはいつものラブホのスイートルームだった。ロン毛の金髪の似合うスレンダーないい女。
何より俺とは躰の相性も悪くない。
「良かったな、傘あって」
俺は淡々とそう返した。
「うん……まぁ、午後には降るって予報だったから……」
「……今日仕事か?」
「うん……」
それきり会話が途切れた。
雨は降り続く。俺をここに足止めするためだというように。
それにしても、この静寂をどうしろと?
「え、ホントに傘無い────── 」
琴美が、意外そうな声を出した。
その無邪気な一言に苛ついて、眉を顰める。
「だから無えっつってんだろさっき言ったよな?」
「うん、ごめん……」
シュンとしたように琴美が呟く。
俺は軽い目眩を感じ、背後の締め切られたドアにドンと背中を預けた。
吐き気もする。気分が悪い……。
所謂『気象病』てヤツだ。気候や天候の変化が原因で、心身に不調を来す。
昔からそうだった。だから、ビジネスバッグには薬を切らしたことがない。だが、あいにく今は手持ちがなかった。
それにしても身体が怠くてしょうがねえ。
俺はドアに寄り掛かったままのろのろと左腕を上げて、手首に嵌まっているスマートウォッチを見た。プライベートの時はベーシックな黒い革ベルトのタイプ。
一流店であつらえたオーダーメイドのスーツからロレックスをちらつかせるより本当は、今日みたいにシンプルでカジュアルな装いの方が俺は好きなのかも知れない。
「傘…入れてくれる人とか貸してくれる人は? いないの?」
相変わらずのんびりとした声で琴美が聞いてきた。
今日の顛末をこいつに説明する義理は無いはずだ。
頭が痛い……。ったく、因果な持病だ。
目を閉じたまま、怠さを隠さず答える。
「……俺が置いてった」
「あ、そうなんだ」
琴美が所在なげに足下の水溜まりを軽く蹴ると、滴が数十㎝先に飛んでいく。
その婉曲の放物線が描く先を俺は黙って見ていた。
「じゃあ帰れないね」
「まあ……この時間なら帰れねえわけじゃねえけど」
「タクシーは?」
「駅そこだろ」
顎をくいっと動かした。
ここから僅か二百メートル先にはもう駅が見えている。
「ああそっか」
雨が更に強くなってきた。
その降る様をぼんやりと眺めている。
気分が悪い。本当にこんな雨の日は……。
ふと時計を見ると、琴美と会ってからもう三十分が過ぎている。
「雨止まないね」
琴美が独り言のように呟いた。
「明日もっと強い雨だって。……嫌だよね」
「…ああ」
「やだなー……月曜なのに」
無邪気な琴美の独り言は続く。
「朝からやだなー」
俺は無性に苛立ってきて、遂に叫んだ。
「お前何なんだよ。いつまでいんだよ!」
すると、琴美が俺の吐いた暴言にもめげず、まっすぐ俺の目を見据えて言った。
「もうアレ? 帰りたい?」
「は?」
「え、だって仕事でしょ? 明日」
「ああ、まあな」
「わかった」
琴美は、バッグの中からカフェオレ色の折りたたみ傘を取り出してにっこりと笑んだ。
それは、まるで紫陽花を思わせる控えめな笑みだった。
「折りたたみあるから貸すよ。茶色ならいいでしょ?」
「え……」
思わず、間抜けな声を漏らした俺に
「あのね」
と、琴美は切り出した。
「私だって怖いんだよ。あんたは私が何かしようとすると『いらない』って顔するんだもん。そりゃ私だって、彼女でも親友でも家族でもないから、あんたに干渉できないしする資格もないけど、ちょっとの親切心も受け取ってもらえないのかって、ずっと思ってたから」
こいつは何を言っているんだ?
琴美と関係を持ったのは一年半前。
バーで声をかけて、一晩限りのつもりでいた俺にこいつの方から誘ってきた。
「飲むのは嫌だけどあそこならいい」と……ホテルを指して。
何も聞かない。踏み込んでこない。
その距離感が心地良く、週一か最低でも三月に一度は関係を持ってきた。
割りきった関係。
そのつもりでいた。
実際、こいつは躰は許しても、唇は絶対に許さない。
女の自尊心か。
そんなものだと思っていた。
なのに今、こいつは何を言おうとしているんだ?
琴美はもう一度、俺に尋ねてきた。
「で? どうする? 傘コレ使う? それともタクシー呼ぶ?」
戸惑いながら俺はその傘を受け取った。
「……ありがとう」
思えばこの一年半の関係の中で、琴美にそんなことを言ったのは初めてだと、気がついた。
「じゃあ私帰るね」
「え? あ、帰んの?」
思わず俺の口から本音が滑り出ていた。
何だってんだ、この間の抜けたしまらない台詞は!?
俺は思考をせわしなく働かせる。
俺に同情か?
今更、懐に入ってくる?
こいつの心理がわからない……。
「え? 今日会う予定じゃなかったじゃん」
「ああ、うん……」
「うん。……じゃあね。観たい番組あるから」
バイ……その短い一言を残して琴美は、叩きつける雨の中、地面から立ち上ってくる匂いすら洗い流すようにただ、前を向いて駆けていった。
甘苦い雨が、ライン引きしたテリトリーに静かに侵食している。
「帰んなよ……」
そんな言葉を初めて呟いた俺を知らぬげに……。
本作は、「パルコ」さまの作品【ライムトニック・シャワー】
( https://ncode.syosetu.com/n3771gj/ )
の、淳視点のお話でした。パルコ様の作品では、琴美視点でのお話をお楽しみ頂けます。
【ライムトニック・シャワー】は、『スパイシー・モクテル』シリーズ
( https://ncode.syosetu.com/s7985f/ )
の第二作目の作品です。
このシリーズの根幹になる第一作目【スパイシー・モクテル】
( https://ncode.syosetu.com/n1334gi/ )
もお楽しみ頂きましたら幸いです。
大切な作品を預けて下さったパルコさま、お読み頂いた方、本当にどうもありがとうございました!(^^)