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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ある衝動

作者: 結原華凜




 カーテンを閉め、オレンジ色の小さな明かりを一つ点けると、そこは作業場になる。ゆるい空気が駆逐され、リビングには冬の鋭さが戻っている。

 志保はテーブルに向かい、こんこんと作業を進めていた。

 白い紙のうえに鮮やかなインクが散っていく。

目に痛い黄色や、禍々しさのある濃いピンク。スプレーのように細かい飛沫から、血痕のような、ぼどん、とした重い円もある。

 最後に一本、細い曲線をサッと引いて、志保の作業は完了した。ほぼ五時間に及ぶ作業で

ある。二十分の休憩以外、志保はずっと、同じ姿勢で机に向かっていた。

 ゆっくりとテーブルを離れ、カーテンを開け、ベランダに出たところでようやく体の力が

抜ける。志保は大きく深呼吸した。

 冬の、この感じが好きだ。疲れてだるく、重い体に透明な空気が充ちていくのが。

 そのまましばらくの間、絵が完成した満足感に浸っていたが、セーター一枚ではさすがに冷える。

「くしゅっ!」

 志保が部屋の中に入ると、電話が鳴りだした。

 志保は臆病で、人と近づくのを恐れる節がある。この部屋に入ったことがあるのは、家族を除けば、長年の友人である由美子だけだった。その由美子が、今からここへ来たいと言う。

 もう九時半である。快くとはいかないが、そこまで嫌がるでもなく、志保は許可した。

 電話を切ってから、志保は妙な不安に襲われた。胸がざわついて落ち着かない。心臓が、中で回転しているみたいだ。

 両手を胸にあて、ゆっくりと息を吸い、吐き、くりかえす。しかし何回そうしても、志保の焦りといらいらは、募るばかりだった。


 由美子が到着したのは、志保がちょうど風呂から上がったときだった。まだ髪から水が滴

っていた。

「よーう、久しぶりィ」

 あはは、と高い声が響いた。息が酒臭い。志保の眉間に皺が寄った。

「あんた飲みすぎ。水のんだほうがいいよ」

「じゃあ持ってきてー」

 ソファにどさっと身を投げて、由美子はへらへら笑っている。志保がコップに水を入れて持ってくると、ごくごくと喉を鳴らして飲んでいく。上を向いた由美子の顎から胸元まで、白い肌が露わになっていた。志保は思わず生唾をのみこんで、目を背けた。

 もう一杯もってこよう、と志保が立ちあがると、足が動かない。由美子が腰にしがみついていた。

 またか。志保は少々うんざりしながらも、隣に腰かけ、その友人に問いかけた。

「なにかあったの?」

 さっきまで異様に明るかったのに、急に静かになった。由美子は「うん」と小さく呟くと、泣くときにいつもそうするように、志保に抱きつき、ぎゅっと腕を閉めた。

 それに応えるように自らも体をよせる。そのとき、志保の胸に暗い怒りが燃えあがった。由美子の首筋から、男の脂のにおいがするのだ。たぶんセックスをした後で別れを切り出されたのだろう。そんな男は最低だ。そんなやつに捕まる女も最低だ。そう思うのに、志保の憎しみは男に向かい、由美子の柔らかい体をしっかりと抱きしめている。

 志保は正直、由美子が「いい女」だとは思っていない。むしろ逆だ。元来のだらしなさと流されやすさが彼女を安っぽい女にしている。見た目も美しくはない。脚はへんな形だし、胸も大きくはないし、そのわりにウエストは太いし。いや、見た目よりもその意識の低さが問題なのだろうか。剥げたマニキュアで平気で外に出るし、眉毛が左右で違う角度だし、爪先の汚れた靴を履いている。それらをきちんとするのは簡単なことなのに、それをしない。

 男が途切れないのは、愛嬌と、単純に「ちょろそう」と見られるからだろう。

 十年来の友人に対してそんなことを思うのは、ひどいことだろうか? 仕方がない、と志保は思う。だって、こいつは本当にどうしようもない女じゃないか。

 しかし心臓は勤勉に働いていた。由美子の体の感触が、その胸のふくらみや背骨のくぼみ、頬に触れる髪の毛のやわらかさが、志保の呼吸を浅くする。ゆっくりと背中を撫ぜると由美子の生々しい脂肪と骨が感じられ、志保は、どうしよう、と声に出さず呟いた。

「ん、ごめんね」

 やがて、落ち着いた由美子が体を離す。志保の髪から水が垂れ、由美子の鎖骨のあたりに落ちた。水滴はなめらかな肌を滑っていき、胸のふくらみに乗り上げ、やがて衣服に吸収される。志保は目で追ってしまった。

「えへへ」

 由美子が恥ずかしそうに笑ったので、志保は一瞬どきりとした。しかし艶めいた女の照れは感じられない。この子が気づくわけないじゃないか、と思い直して、志保は似たような笑みを返した。

「シャワー、借りてもいい? 顔も洗いたいし、ちょっと落ち着かなくちゃ」

 大歓迎だった。彼女の体から漂う男のにおいが、たまらなく不快だった。

 志保は、男性恐怖症ではない。どちらも長くは続かなかったが、過去に二人、つきあった男もいる。二十四歳である。経験豊富とはいえないが、恋に遠い生活を送ってきたわけではなかった。女に熱い想いを傾けることが、たびたびあったから。

 初恋は二つ年上の人だった。学校ですれ違うたび、志保は幼い胸を高鳴らせ、緊張に掌を湿らせたものだ。女と少女の狭間で、あやうい色気があった。憧れの人の肉体からは、いつもかぐわしい香りがした。

 当時を思い出して、志保は顔を熱くした。ソファに深く沈みこみ、両手で自らの頬に触れる。うつくしい人だった。美少女、というのだろうか。わりと小柄で、控えめな笑顔や手指のしなやかさが可憐だった。体育祭まで気づかなかったのだ、あのむっちりとした太腿や、うなじや腕の艶めかしさには。

 志保は、はあ、と大きな溜め息を吐いた。だめだ、今そんなこと考えたらいけない。由美子が来てるのに。

「あがったよー」

 体から湯気をたてながら、機嫌のよくなったらしい由美子が戻ってきた。

 美しくはないはずなのに、心を揺すぶられてしまう。


 月曜、納品に行った画廊で志保は大きな油彩画を目にした。

構図も配色もずいぶん派手だが、不思議と息苦しさはない。志保は、小さい頃によく行ったおもちゃ屋さんを思い出した。無条件でワクワクする場所だ。 特別な引力を感じる。志保はその絵に惹かれて、しばらく眺めていた。

 ぷくぷくとした画廊のオーナーが、得意げに笑う。

「ふふふう、それ、いいでしょう?」

「はい。素敵な絵ですね」

 聞けば、オーナーが別の画廊で見つけ、気に入って買ってきたものだという。そんな真似ができるのは、ここが採算を無視した半ば道楽のための画廊だからだ。

「いやあー、一目惚れだったね」

 オーナーの白い頬には、うすく朱が散っていた。

「これはねえ、売りたくないね。一億出されても、僕、自分が持っていたいもの」

 だから儲けが出ないんだねえ、と彼はどこかうれしそうに笑った。

 愛想笑いを浮かべたが、志保の奥には秋の雲のような薄い悲しみが幾重にも重なっていた。

 素晴らしいものに出会うと無気力になることがあるが、それだけが原因では、ない。

 本当は、油彩が好きだった。ヘラを使って重い絵の具をたっぷりと塗りつけるあの感じ、濃い絵の具の上から淡い色を薄く溶かして重ねたり、画面の上で色を混ぜたり。ただ、好きなのと得意なのは違って、志保の才能が発揮されるのは油彩ではなかった。報われぬ片思いである。

「直せちゃうから、直しちゃうのよ。ここがいけない、ここが足りない、って。やりすぎちゃうんだよね。しかも、時間をかけて描いていくから、そのうち初めの感覚が薄くなっちゃって、作品がだんだん離れていって。それがつらくて、好きなんだけど、苦しいの」

 以前、由美子に打ち明けたことがあるが、彼女は「ふーん、そうなんだ」と言っただけであった。

 彼女に対する思いも、また、複雑である。

 大きな油彩画から視線を逸らすと、二ヶ月前に持ってきた自分の絵が目に入った。悪くないし部屋に飾るのにはちょうどいい淡白さだが、これは売り物だな、とみじめな気分になった。胸に凝る落莫を忘れ去ろうと、志保は話題を変えた。

「亜紀ちゃんはお元気ですか?」

「おうおう、元気にやってるよ。志保ちゃんにも会いたがってるねえ」

 オーナーは父の古くからの友人で、志保より三つ上の娘もいた。子供のころはよく遊んだものである。母親似の、すっきりとした美人だった。その美貌の作り物のような完璧さのせいか、恋心は抱かなかったが。

「なんか、賞を紹介したいとか言ってたなあ。あ、ダジャレじゃないよ?」

「ふふ」

 志保の目がようやく笑った。警戒心が強く、なかなか人と打ち解けない性格である。オーナーとの付き合いも短くはないのに、毎回ここまでが長い。

「あっ、僕、チラシを預かってるぞ。ちょいと待っていてね」

 奥のほうをがさごそして、オーナーはとぷとぷと体を弾ませながら戻ってきた。

「亜紀の会社がスポンサーみたいでね。応募してみるのもいいんじゃないかな」

 チラシの裏に、亜紀の勤める化粧品会社の名が載っていた。

「どうも女の人を描かなきゃいけないみたいだから、志保ちゃんがいつも描いてるのとは、ちょっと違うかもしれないけど」

 背骨から頭のてっぺんに、涼しい光がサッと通った。やりたい。

「そこはそんなに、気になりません。学生時代はわりと人物も描いてましたし、今もたまに雑誌のイラス

トなんかで描くことあるので、そこまで腕も落ちてないと思います」

「おっ頼もしいねえ」

「あ、いえ」

 志保は赤面した。

 絵を描いて生きている。が、たっぷりとした自信があるわけではない。美大在学中に何度かグループ展を開いたが、その度、自分のレベルを思い知ることになった。自分の作品の前を素通りした人が、別の作品を興味深く眺め、豊かな表情を見せる。幼いうちはただ悔しいとだけ思ったが、そこにだんだん、かなしさも混じるようになっていた。なのに素敵なものを見た興奮のまま、つい「できる!」と思ってしまった自分が、恥ずかしかったのだ。

 でも、久し振りに「描きたい!」と思った。その純粋な気持ちが小さな炎をあげている。 

「......まだ、間にあうのかしら」

 そう言って目を走らせると、締切は三月末である。仕事の合間に描くとしても、二か月あれば出来ないことはなさそうだ。

 チラシをもらって志保は画廊を後にした。つい早足になる。油で描こう、と思っていた。


 帰り道、キャンバスと絵の具を買ってしまった。まだどんな絵になるかも決まっていないのに、描きたい気持ちが先走った。帰宅すると志保はさっそく準備をし、新しい絵の具をいきなりキャンバスに塗りつけていった。

 いつもなら、こんなことはしない。何を描くかを頭でちゃんと決めてから、下絵を描き、八割くらいは色を決めて、下地の色を考え、そこからキャンバスを出してくるのだ。こんなふうに勢いだけで描きはじめたって、いいものはできないように思う。でも、描きたい。あの淡いグレーを大きなヘラで塗りつけたい。新しい、青いピンクを混ぜ込みたい。志保は体の中でよろこびがプチプチと爆ぜ上がるのを感じていた。

 第一回紫明社芸術賞は、亜紀の勤める会社が主催し、他にも出版社や下着メーカーなどが協賛していた。上位入賞の作品は宣伝に使われるということだ。「うつくしく輝く女性」をテーマに作品を、とのことである。志保は、まず亜紀を思った。そんなに頻繁に会うわけではないが、いつも溌溂とした笑顔が素敵だった。恋に仕事に趣味のフラメンコにと、忙しくしていることだろう。

 踊っているところを描こうかしら。発表会を見に行ったことがあるけど、あの翻る衣装は華やかだった。ほとんど黒みたいな濃紺なんかバックにしたら、とても映える気がする。

 そこまで考えて、志保はハッと気づく。グレーとピンクのマーブル模様の背景は、もうほとんどできていた。どうしようもないのでそれは塗り終え、道具を片づけ、コーヒーを淹れた。

 志保は後悔の念に駆られていた。後先考えず、突っ走ってしまった。まあいいや、また新しいキャンバスに描けばいいんだから。久しぶりの油絵の具の感触が、まだ指先に残っている。満ち足りた気分に、志保は笑顔になっていた。


 その日から、志保は毎日キャンバスに向かった。仕事で描く水彩の合間に、少しずつ。

「今ね、油絵かいてんの」

「あ、そうなの?」

 由美子の仕事帰りに待ち合わせてご飯に行ったとき、志保はそう打ち明けてみた。由美子が関心を示さないので絵の話はしないようにしていたのだけど、描いているのが楽しすぎて、言わずにはいられなかった。由美子はつまらなそうにしていたけれど、ここが大変、ここが楽しい、と、珍しく、志保のほうが多く喋った。

 作ろうと思えば、意外と時間はつくれるものだ。持ち前の集中力もあって、フラメンコの女は一週間も経つとあらかた出来上がっていた。

 少し離れたところからキャンバスを眺め、志保は、妙な不安に襲われる。

 まだ途中だが、思っていたものとは違う作品になりそうだ。それは予感というより確信だった。志保は顔を歪め、唇を強く噛んでその場に座り込んだ。

 悲しくて、たまらなかった。油絵は描くのに夢中になりすぎて、冷静な目を失ってしまう。

いつもそうだ。想像上の下絵との小さなズレに気付けない。色を置く順番も、たぶん違っていた。私には、素敵な油彩画は描けないのだろうか。

 一転して、暗い毎日が訪れる。依頼された仕事は淡々とこなしていたが、油彩には手を出せなかった。

 たぶん、賞が欲しいわけではなかったのだ。ただ、また油彩を描くチャンスだと思った。

 ねじれた憧れのような、憎念のような、どろどろとした歪んだ思いを油彩に対して持っている。好きなのに、向こうから拒絶されている。描こうと思っても、今の志保は人から油彩画を頼まれることはなかった。かといって、趣味だけで描くには重すぎる。紫明社芸術賞は、そんな志保にとって、あたらしい光だった。

 志保は水彩も好きだ。満足に描けることもあって、充足感を得られるし、描いていて楽しい。だけど代わりにはならないし、補うこともできない、と思う。

 黙々と作業したあと夜のベランダで冷たい空気を吸い込むと、志保の胸には時折、痺れるような甘い気持ちが湧いた。それは由美子の生白いふくらはぎの残像と共にやってきて、腹の底のほうを、きゅっと収縮させるのだ。

 触れたい、と思う。「会いたい」よりも「声を聞きたい」よりも、まず。

 由美子が泊まった夜、志保は彼女の脚にクリームを塗った。風呂上がりの彼女の脚があまりにも乾いていたのもあったし、失恋した心を慰めるつもりもあった。

「ん、志保、うまいねマッサージ」

 向かい合って床に座っていた。貸してやったバスローブから、生白い脚が出ていた。

「別に、下から押してるだけだよ。いつもやらないの?」

「やらないよ、そんな面倒なこと」

 志保はあきれた顔を見せたが、由美子と目が合い、その眼差しはやわらいだ。小さな子を持つ母親は、こんな気分だろうか。ゆったりとした慈愛は胸に広がるのを感じつつ、志保はクリームを追加した。掌で少しあたためて、足首からふくらはぎ、膝へ、丁寧に塗っていく。

「ねえ、だってさ。自分でやっても気持ちよくないでしょ、マッサージって」

 由美子が口を尖らせて言った。志保は顔を向けず言う。

「それはそうだろうけど、あんた乾燥肌なんだから、ちゃんと手入れしないと駄目だよ」

「じゃあ、また来るから志保が塗ってよ」

 それも悪くない、と思ったが、面倒だというように不服の声をあげておいた。

「こういうのはね、毎日やるのが大切なの。顔洗ったら化粧水つけるでしょ? それと同じじゃない。何が面倒なの」

 由美子がぷーっと頬を膨らませた。

「かわいくないよ」

 本心だった。由美子は別にかわいくない。目も小さいし、化粧も下手だし鼻は低いし。

「そんなこと言ってえ、ほんとは可愛いと思ってるんでしょ」

「ばかじゃないの」

 思ったよりも強い口調になった。気まずい沈黙が流れて、志保は動揺する。ただ脚だけを見て、手を動かし続けた。

 十年間一緒にいて、由美子に憧れを抱いたことはない。カラっとした明るさや、ずばっとした物言いは好きだったが、大人になるにつれて徐々にそれも失われ、いま一緒にいるのは惰性だろう。

 たぶんそうだ。それ以外には何もない。

「ねえ志保、自分でやるの、教えてよ」

 左脚を終えたところで由美子が言った。彼女が笑うと空気が変わる。救われた、と志保は思った。

「えー? 塗るだけだよ」

「やってみせて」

 志保は由美子の隣に移動して、スウェットパンツを膝上までまくった。クリームを手に出していると、由美子の指先がむきだしの左脚に触れる。

「きれいね」

 指が脛をなで、志保の肌が震えた。

「すべすべだあ」

 そう言って由美子は体を寄せてくる。志保もつい、少し体を傾けた。ローブの合わせから胸のふくらみが見える。肌からは甘いにおいがして、志保はおかしくなりそうだった。

 志保の胸を熱いものが満たす。湧き出るようなこの感情を、なんと呼べばいいのだろう。

 鼓動が速い。由美子の触れたところは、そこだけ皮膚が剥がされたみたいに鋭敏になっている。体が、どうしようもなく熱かった。

 あの由美子の脚が、脳にちらつく。美しくもなんともない、不格好で、剃り残しがあって、かさかさで、夏の虫刺されの跡がまだ残ってる、あの醜い脚がたまらなく恋しい。あれに頬ずりをする夢を、何度も見た。おそれおののいて飛び起きるが、胸に一片の幸福が舞っているのもまた事実だった。

 だけどそれを幸福と認める勇気が、まだ、志保にはない。

 志保は、このおそろしい欲望をどうにかしたかった。簡単に済みそうなものである。なのに性欲だとかセックスだとか、そういう言葉が脳裏に浮かびそうになるたび、志保はそれを打ち払っていた。由美子と性欲を結び付けて考えること自体、志保には恐怖なのである。由美子に襲いかかることも、他の誰かと交わることも、できそうになかった。

 忘れたかった。由美子のことをきれいさっぱり忘れたら、もっと楽しく生きられる気がする。そんなことを、何年おもってきただろう。

 

 由美子への葛藤が体を苛んでいくのから逃げるように、志保は、もう一度、描いてみようと思った。亜紀みたいな、在るだけで完璧な美を。出品するためじゃなく、自分のために。自分の欲望を、充たすために。

 志保はひたすら描いた。油彩は塗り直しができるところが強みだ。頻繁に確認をして、理想とずれているところがあればすぐに直す。色を重ねていくうちに、人間に近い、立体的な、美しい脚ができあがっていく。

「うーん……」

 しかし、完璧であるはずのものができあがっても何か違った。いくら油彩が不得手といっても、志保も絵で食べている人間である。やはり相応には上手いのだが、できた絵には何かが足りない。綺麗な脚なのだが、志保の魂に呼びかける何かが、足りなかったのだ。

 それはきっと、とても小さな一点だろう。しかしその一点は、その存在の有無だけで周りの世界を大きく変える、極めて重い点だった。

 満足のいくものが出来ない。脚の絵は、志保の部屋の片隅に溜まっていった。乾いてラックから下ろされたキャンバスが、寝室の隅に、一枚、また一枚。

 本当に由美子を忘れたかった。志保の情念は押し留めるのにぎりぎりで、今にも溢れそうだった。会わないことは簡単だ。もともと自分からはあまり連絡をしなかった。電話もメールも無視し続けて、時間があればいつでも脚を描いていた。塗り重ねるのに乾かす時間が必要ならば、次のキャンバスの下塗りに進む。何かに憑かれたように、夜通し描いたこともある。

 由美子を考えるのがこわい。志保はひたすら脚の絵を描き、二週間後に十一枚を描き上げていた。

 

 十二本目の脚が肌色になった。さあこれから、というところだ。もう遅いけど、このまま朝まで描いてしまおう。志保は大きく息を吸って気合いを入れた。

 皿に出した赤い絵の具に筆をつけた瞬間、ピンポーンと間延びしたチャイムが響いた。どうせ新聞の勧誘か何かだろう、と思い、志保は無視することにする。絵の具を筆になじませている間に、チャイムはもう一回鳴った。志保は苛立ったが、キャンバスを離れることはしなかった。

 キャンバスの足首あたりに筆をおいたとき、今度は電話が鳴り出した。志保は、あっ、と気づき、筆を置いて玄関に駆けていく。

 鍵を開けると、そこには由美子が立っていた。髪を乱し、泣きだしそうな顔をしている。唇は小さく震えていた。

「志保……」

 冷たい風が吹きつけた。室内にいた志保は薄着で、鳥肌を立てた。

 由美子を中へ入れると、彼女は怒気を隠そうともせず、強く志保を睨んだ。そしてそのまま、殴りかかるみたいに抱きついた。

 由美子の背中にしっかりと腕をまわしてから、志保は、深く、静かな呼吸をした。由美子からは懐かしい、甘いにおいがして、志保の胸を締めつける。

「電話出てよ」

 志保の心臓は速く、気づかれやしないかと怖くなる。

「ごめん」

 由美子は拳で志保の胸を叩き、再びそこに顔を埋めた。志保は何も言えずに、ただ頬ずりをした。肌越しに、夜の温度が伝わってくる。志保の頬と溶けあって、くっついてしまいそうだった。

「心配した」

 胸がつまって、志保は何も言えなかった。背中にまわした両腕を、きつくすることしかできない。

「死んでるのかと思ったの」

 このまま口づけたかった。裸の由美子を抱きしめたい。ふつふつと湧きあがる欲望を持て余しながら、志保は由美子を抱いたまま、動けずにいた。

 その夜は、二人で同じベッドで眠った。何も言わず、視線もなかなか合わせることができないで、かわりに互いの呼吸を感じ取っていた。寝返りを打って体がどこか当たっても、避けることはしない。そのままに触れ合える体温が、志保はうれしくてたまらなかった。

 だが、欲望は、依然、志保の体に留まっていて、一定の間隔で襲いくる。波が来ると、志保は由美子から極力離れ、目をつぶったり、壁や天井を見たりして、無理やり忘れようとする。離れても追ってくる由美子に、苦しめられた。過呼吸なんじゃないかと思うほど、呼吸が速くなることもあった。衝動を打ちのめすのには、大変なエネルギーが要った。


 翌日は土曜日だった。志保はよく眠れぬまま早くに起きて、邪念を振り払うために、せわしなく洗濯をしたり掃除をしたりしてみた。しかし一瞬でも頭に空白がうまれると、由美子のことが頭に浮かび、寝室に行ってしまうのだった。美しくはない由美子の寝顔を、飽かず眺めるのである。

 由美子が起きてきて朝食を終えると、志保は言った。

「女の人の絵を描いてるの」

「ふうん」

 相変わらず、そっけない。

「女の人の、裸を描くの」

「そうなんだ」

 志保は心臓を抑えるように胸に手をあてて、一呼吸おく。

「で?」

 一口コーヒーを飲んでから、言った。

「モデルをやってほしいんだけど」


 由美子は裸になると、部屋の真ん中に立った。志保は新しいキャンバスを用意して、部屋の電気を消した。カーテン越しに朝の光が射していて、由美子の肌をなめらかな陶器のように透けさせる。

「見える?」

 志保はしばし見とれた。とろりとした金色の光の中で、彼女の体は淡く発光していた。

「見える。きれいよ」

 そう言って志保はそっと近づく。近くに膝をついて再び眺めた。

「ふふ、はじめてね」

 由美子が穏やかに笑うと、白い胸が揺れた。それを見ながら、志保の顔にも微笑が浮かんだ。

「うん、はじめて。ちょっと緊張してる」

 そう言うと由美子が笑った。

「ちがうよ? ほめてくれたのが、初めて」

「え?」

「志保が、私をほめてくれた」

 由美子が笑うたび、志保の鼓動は速度をあげた。肌がつやつやと輝いて、なまめかしく欲望を煽る。

 やがてどうにもならない衝動が体の奥から突き上げて、志保は熱い吐息をこぼした。由美子の脚の付け根あたりにそれが触って、「くすぐったい」とまた笑う。

 由美子がかがんで、志保の頬に触れた。やわらかい微笑みが、めまいがしそうな眩さだった。

「ねえ、触らないの? 私、きれいなんでしょう?」

 由美子は志保の手をとり、自らの肌に触れさせる。志保は導かれるまま肌をなぞって、顔を寄せた。

 体の奥がうずく。舌を首筋に這わせ、ゆっくりと滑り下りていった。

「あ……」

 由美子の唇からも、熱い吐息がこぼれだす。

 志保はそれを感じて、ますます想いを熱くした。

「きれいよ」

 呟くと、由美子はよろこびに肌を震わせる。そして、小ぶりな胸が突き出された。

 志保が顔をあげると、由美子は頬を赤く染めあげ、瞳をたっぷり湿らせていた。

 志保は目を閉じる。感動に浸りながら、胸のふくらみを舌で滑った。そして赤い果実に辿

り着き、そっと口にふくんだ瞬間、真っ白い恍惚に沈んでいった。





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