その頃の⑤
魔法袋から取り出した簡易机に、さて、とばかりにあまり質の良くない羊皮紙を広げる。非常に面倒くさいが、この状況を打開するためには、そろそろ動いたほうがいいだろう。最低限の情報収集は済んだ。結界を張ったつもりだろうが、この程度の結界であれば、ちょっとばかしの綻びを作ることは造作もない。
ついでにいえばここまで、あの国王を焦らせたのだから、多少は駆け引きに有利になるに違いなかった。厄介なのはあの宰相だが、今のところ敵対する意図はないようなので、恩を売りつけてせいぜいことを有利に運んでやろうと思っている。
「大きな問題は二つ…か」
うっかりするとくるくると巻いてしまう羊皮紙を取り出した文鎮で押さえつつ、ぽつりとヴィリロスはつぶやいた。自国を中心に、簡単な地図を書き込む。今回問題の隣国・テュエッラ、魔国ことファテリテ王国、中立であるケントロン、そして旧シャルム領オクパシオだ。それ以外は、今はさほど問題ではない。
一つ目はテュエッラとの間の綻びた結界だ。他の部分はまだ大丈夫だが、いずれは綻びが生じてくるだろう。シャルムの残党と結びついたそこから崩れてきているということが実にきな臭い。おそらく、国内では名君と名高かった先王への対抗意識からシャルムの甘言に乗ったと思われる。
なんとも愚かなことだ。軒を貸して母屋を取られかねない相手に。もともとシャルムは小国を併呑して出来上がった国だから、乗っ取ることに良心の呵責などないに違いない。
先王時代はテュエッラもそれを分かっていて、お互いにシャルムの死霊術の影響を受けないようにしようね、という同意のもとに結界を張ったはずだった。
「まあ、やるしかないか」
以前の結界を張ったカコエンツァが体力的にできず、コラリアと息子の両名を出さないとなると、自分がやるしかない。一々指導するのは苦手なのだ。それが自分の欠点だとわかってはいるのだが。
結界の綻びた範囲と必要な魔力、一番効率がいい魔法陣を計算して羊皮紙の空白部分に書き出していく。いかに効率よく魔法を発動させ、持続させるかがヴィリロスの人生の課題の一つである。
特許を申請していないから、見られてもいいように肝心な部分は空白にしておく。古代文字を応用した特殊文字を使い、埋めるので生半可な研究者ではこの穴は埋められない。
慈善家ではないので、もらえるものはもらっておくのだ。特許料は貴重な現金収入である。
「次はこっちか。これは親父殿に出てもらうか。まあ、そろそろ出張ってくるだろう」
つまり、二つ目の問題、魔国とのいざこざである。正直、コラリアに出会うまえのヴィリロスだったら、五歳の子どもだろうが何だろうが、必要とあれば責任を取らせて済ませればいいと思っただろう。ヴィリロスはそうやって生きることを求められていた。
「まあ、五歳で人生決められるのも気の毒か」
学校でコラリアに出会い、様々な人に出会い、人とのつながりや思いやりというものを学んだ。仲間というものも友人というものもできた。そういう事を経験しないままに人質生活をおくらせるのは、五歳児には気の毒だ。
魔族は一般的に恐れられているほど、話が分からない者たちではない。むしろ、人族至上主義で威張り散らしているこの国の王侯貴族より、少々はみ出し者のヴィリロスにとって友好的な人々だ。
彼らは非常に誇りが高く、敬意には敬意を、敵意には敵意を返す。魔族の使う魔法に興味があり研究を行っていたヴィリロスは、魔族に敬意を払っていたので、彼らもきちんと尊重してくれた。
敵対しなければ良き隣人なのである。今度のことも、損害を補償しろと言っているに過ぎない。ただし、侮辱するような行動を取り続ければ血を見る。二度目までは大目に見てもらえるが、三度めはないのだ。
「ダルジャンあたりが出てくれば、交渉しやすいんだがなぁ」
戦時中に知り合い、今でも交流がある魔国の高官・ダルジャンは、こちらの風習もよく知っている。おそらく義父であるランプロスとも気が合うだろう。
「対価に差し出せるもの…か」
人ひとりの命と消えそうになっている竜の命を贖うにふさわしい代償とは何だろうか。相手が納得しなければならない。
ヴィリロスは必死になって考えていた。
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「なんだね。お茶でもご馳走してくれるのかい?」
「口の肥えたあなたを満足させるお茶は残念ながら。ただ、ちょっと宰相殿に相談があるんですよ」
宰相ことリテラート伯爵を呼び出したのは、それから数日ののちだった。
「フム、よかろう。では差し入れを。侍女に持ってこさせよう」
「部屋の前までで結構ですよ。そのあとはこちらで」
扉から宰相が声をかけた十分ほど後、部屋の前まで美しい蔦の装飾の台車に乗せられたお茶一式がやってきた。扉が開けられると同時に、魔力で台車を引き寄せる。侍女の手を離れ、台車はするすると二人のほうへとやってくる。
「きゃ…っ」
思わず侍女が声を上げる。呪文も何もなしで動き出した台車に驚いたようだった。かたこと動いて、宰相とヴィリロスの前で動きを留める。
「ああ、忘れ物だ。こちらは持って帰ってもらおうか」
ぱちん、とヴィリロスが指を鳴らすと、菓子類からは紫色の靄が、茶器からは黒い液体のようなものがずるりと出て、メイドの前掛けの落としに入っていく。じわり、と前掛けに妙な色の染みを作った。
「ヒィッ!!」
「毒か?!」
宰相の言葉に、周りに控えていたであろう騎士たちが現れ、侍女を取り押さえる。彼女は明らかに狼狽していた。おそらくは断れない筋から強要されたのだろう。
「物騒なものはいらないのでね。あなたも毒はお好きではないでしょう?宰相」
「あ、ああ。……連れて、安全に確保しておけ」
そのまま宰相は騎士たちを下がらせた。後であの侍女は尋問にかけられるだろう。
「もう安全ですよ。毒は追い出しましたから」
自分の目の前に持ってきた台車は、広げるとテーブル代わりにもなるものだった。お茶の準備をして、注いだ茶を宰相に向かって差し出す。もう、毒はないはずだ。模様も呪いをはらんだものではない。
安心させるように、自分の分のお茶を飲み、茶菓子をつまむ。毒の味も風味もしない。精霊がちらちら寄っているから大丈夫だ。後でおすそ分けするとしよう。
「落ち着いているな」
ずずっと茶をすすると、そんな風にぽつんという。宰相の割には思ったよりも命のやり取りになれていなさそうだった。
「慣れていますからね。我らが国王は、昔から毒がお好きなようで」
何度毒殺されかけたことか。そもそもが自分の人生を不自由にしたことで恨んでいたのだ。だが、のちには確実に次男、つまり前王太子に家督を継がせるためには長男が邪魔だったので、余計に苛烈になった。嫌がらせ程度だったものが致死性のあるものへと変化したのだ。
「いつからだ?」
「陛下が父と離縁すると決まってから、僕がコラリアと結婚して王都を離れるまでずっと。まあ、おかげで毒にはなれましたがね」
ただ、ヴィリロス見た目に反して、異様に丈夫だった。精霊の加護があったおかげで、毒を飲んでも死に至らず、怪我をしてもすぐに回復する。国王となった母はますます長男を畏怖した。
「君も、苦労をしているんだな」
「それほどでも。……まそれはいいんですよ。さあ、宰相。問題解決に向けて動き出そうじゃありませんか」
簡易机に広げておいた羊皮紙を指し示しながら、交渉の態勢に入った。




