第十九話 17歳 王太子の異変
―――平穏そのものだった王宮に、突如としてその変化は訪れた。
健康には定評があった王太子殿下ユリウス様が、頻繁に体調を崩されるようになったのだ。最初は数週間前によく咳込まれるようになったのが始まりだったという。次第にその頻度が増し、非常に澄んだ声をされていたのが、常にかすれたような声で話をされるようになり、食欲も思わしくないのか体重まで落ちて来ているらしい。しかも、複数の医師の見立てでも病名が特定出来ないそうだ。
普段は王女エメセシル様の警護の任に当たっている俺は、その様子を直接見ているわけではないがこうやって王宮中にその情報が出回って来ていることを鑑みても、事態が深刻になって来ていることが分かる。何者かから毒を盛られていることを想定し、周辺を徹底的に洗われ王太子殿下付きの侍女や、食事の給仕係、シェフも入れ替えがされたが、一向に回復が見られないとのことだった。
妹君であられる、俺の主君エメセシル様の表情もこのところずっと暗いままだ。
「……姫様、お顔色が優れませんわ、少しお茶をお召し上がりになりませんか?」
姫様付きの侍女エレナが、心配そうに姫様に声をかけた。彼女は、つい数ヶ月ほど前から姫様の身の回りの世話を一手に取りまとめる任についている。以前は別の貴族に雇われていたようだが、その有能さを買われて王宮勤めをするようになったのだという。非常に明るく、教養も高く細やかに気を使うことの出来る女性で、来て間もなく姫様はもとよりルーシアとも親しくなった女性だ。
エレナは姫様のお茶を温かいものに淹れ変え、少しハチミツを足した。彼女曰く、元気になれる魔法だとのことだ。姫様は彼女からティーカップを受け取ると、弱々しく微笑んだ。
「……ありがとう、エレナ。ごめんなさい、心配をかけて」
「お気持ちは分かりますが、姫様まで体調を崩されてしまっては元も子もありませんわ」
「ええ……分かっているのだけど、お兄様が心配で……本当に、せめて原因だけでも分かれば良いのだけど……」
「そうですね……、食事も数回の毒見を経て出されているようですし、やはり毒ではなく何らかの病気の可能性が高いと聞きますが……」
エメセシル様の悲痛な声に、ルーシアも心配そうに頷いた。
兄妹仲の良いエメセシル様とユリウス様だが、エメセシル様は兄君を見舞いに行くことが出来ないでいる。最初の症状が咳であったため、感染の可能性のある病気も疑われているのだ。実際に、王太子殿下の侍従の数人も咳を発症しているという話もある。しかし彼らは咳以上の症状はないようだ。
「早く元気なお兄様に戻って欲しいわ……私もお顔を見るだけでも出来たら良いのに……」
「まだお医師の判断が下りてませんものね……、ねぇ、エリック」
「……なんだ?」
エメセシル様の言葉に顎に手を掛け、少し考えこんでいたルーシアがふいに俺に顔を向けた。
「エリックは以前ユリウス殿下の近衛騎士隊を支援していた縁もあるのだし、王太子殿下の私室への出入りを許可されているのでしょう?。……一度ご様子を見に行ってもらうことは出来るのかしら?」
「そうだな……、一度伺いを立ててからなら、却下されることはないと思う。俺自身、ユリウス殿下のご様子が気になっているし、一度訪ねてみよう」
ルーシアの提案に俺は少し考えを巡らせて、快諾した。確かに俺自身一度直接お見舞いに行きたいと思っていたところだ。ルーシアの発案でもあるし、エメセシル様も異議はないようだ。
「エメセシル様、ご安心下さい。一度俺が直接殿下のご様子を確かめて参ります」
「まぁ、エリック。本当にありがとう……ええ、お願いしても構わないかしら?」
「勿論です」
俺がエメセシル様を元気づけるように明るく声をかけると、姫様も少しほっとしたように表情を緩め大きく頷いた。間接的とはいえ普段接している親しい人間に確認してもらえるなら、心境も違うのだろう。
「エリック、念のため、あなたも体調に気を付けてね」
自分が言い出したとはいえ、感染の疑われる病にかかる病人に使いにやるのだ。ルーシアも少し心配そうに俺に声を掛けて来た。俺は安心させるように、手をひらひらさせ笑顔を見せる。
「俺はそんなヤワじゃないさ、心配するな。他ならぬ大事な姫様のためだ、むしろ光栄だよ」
「……ええ、そうよね」
まだ心配そうに俺を見つめるルーシア。心なしか、その睫毛が伏せられ悲しそうにも見える。その様子に、心から心配してくれているのだと、俺は内心喜んでいた。
―――2日後、俺は王太子殿下の私室への訪問を許され、姫様の許可も頂き殿下を訪ねていた。
「王太子殿下、エリックです。入室しても構わないでしょうか?」
「エリックか、入れ」
俺がドア越しに声をかけると、ユリウス殿下ご本人ではなくマクシミリアンの声で許可の返事が返って来た。「失礼致します」と断りを入れ、居室の扉を開ける。
「……ッグッ…グォホ、ゴホ……エリ…ックか、よく、来てくれ、たね」
ソファに腰掛けられながら、書類に目を通していたらしいユリウス殿下が俺の出現に視線を上げた。いつもは常にきっちりと礼服を着こなしておられた殿下は、寝間着姿に厚いガウンのようなものを羽織られ、髪も乱れた状態で首にかかっている。体重が落ちられたと聞いていたが、確かに以前お見かけした時より痩せられ、やや頬骨も浮き出ていた。
やはり咳がひどいらしく、言葉を発することにも苦慮されているようだ。
「殿下……!宜しいのですか、ベッドで休まれていなくて。公務などしておられる場合ではないようにお見受け致しますが……!」
「……ッグホ……良いのだ。熱があるわけ、でもない。……少し、体がだるくて、話しづらい、…ッホ…くらいだ」
「ですが……!」
俺は予想よりもはるかに悪い殿下のご様子に、思わず大声をあげてしまった。しかし殿下ご本人はいつものように、柔和な微笑みを浮かべられ俺の問いに片手で大丈夫だ、と示す。
「俺からも、殿下にご自分の身を大事にして下さるよう、再三お願い申し上げているんだが……一向に聞き入れて下さらなくてな」
殿下の側近くに控えていたマクシミリアンも俺に加勢するように、弱り切った声で言葉を重ねた。彼も心労が多いのだろう、以前より顔色が悪いようだ。
しかし、俺達の制止にも殿下は首を振り「大丈夫だよ」とまた書類に目を通そうとされる。―――その時。
バサッバサッと言う大きな羽音が聞こえたかと思うと、開かれていた王太子殿下の私室の出窓から、大きな梟が入り込んで来た。な、なんだ?!
夕暮れの空から突如として現れたその闖入者に俺は驚いて「うわぁっ?!」と大きな声を上げた。王太子殿下やマクシミリアンはさして動じた様子もなく、俺だけが大きなリアクションをしてしまい、まるで気が小さい奴のようで恥ずかしい。
「ふ、梟?!ど、どうしてこんなところに?!」
「エリック……ッゴホ…心配いらない、これは……伝書、梟だよ」
くすりと笑った皇太子殿下は、書類を一度テーブルに置き、ガウンをすこし押さえるように立ち上がると、ゆっくりと出窓まで近づき指先で梟の首元をくすぐった。人慣れている梟なのか、羽根を大きく広げるも、驚いて飛び上がることもない。
伝書梟……?俺は以前の軍事講義で耳にしたことのある情報を、頭の奥から引っ張り出した。
伝書梟―――たしか通常種に比べ聴覚がより優れ、方向感覚にも秀でた種の梟を渡り鳥と交配させた新種の梟で、主に軍事目的や政治目的に利用される。梟使いと呼ばれる特別な訓練を受けた人間が鳴き声に似た特殊な音を発することで、目的地を伝書梟に指示することが出来、足に括りつけた書類筒を用いて書類を送り届けられるというのだ。詳しい仕組みは俺には分からないがそのスピードは早馬よりも速く、伝書鳩よりも正確に届けられるらしい。梟使いの技術はそう簡単に会得できるものではないらしく、実際には広く実用化できるレベルにはまだ至っていないと聞いたことがあるが、各国の王族や一部の有力貴族は梟使いを抱えているらしい。これがその一羽ということか。
「ッホ……北の、セイクリッドの……アレクス王子から、だ。私達は……ッグ……古くから、の友人で、考え方が近い。もしもの、こと、を考えて彼に……相談して、いるんだ」
アレクス王子と言えば我がアルカディアの北に位置する王国セイクリッド王国の第二王子であらせられる方のはずだ。たしか、ユリウス殿下とは一つ違いで昔からよく交流されていると伺ったことがある。ユリウス殿下と並んで、非常に頭が切れるとの評判だ。
しかし、殿下はもしものことを考えて、と仰った。その意味を想像し、俺は顔が強張るのを感じた。
「王太子殿下……滅多なことを仰らないで下さい!原因さえ分かれば、治療法だってすぐ見つかるでしょう!」
「……エリック、あり、がとう。……もち、ろん私は、諦めている訳ではないよ……ゴホ……しかし、私は、統治者の一人として……あら、ゆる可能性に備えないと……国民を、不安にする訳にいかないからね……」
「殿下……!」
咳込みつつも、瞳に強い光を灯したまま殿下は述べられた。俺は舌を巻いた。俺よりたった三歳上なだけなのに、殿下は誰よりも冷静にご自分のことを分析していらっしゃる。正体不明の病に罹られて、不安に思わないはずはないのに、それを表にはおくびにも出されない。
「もし、私に何かあれば……彼に、この国と、エメセシルを託したいと……私は考えて、いる。彼ならば、きっと、……ゴホ……私の想いを継いでくれる、はずだ……」
「殿下……!」
そう言うと、殿下は慣れた手つきで伝書梟の足の書類筒を外し、中身の書類を広げ目を通された。
―――結局、俺は胸に消化しきれない思いを抱えたまま、御前を辞すこととなった。予想よりもはるかに悪い殿下の体調を、どうエメセシル様へ説明したものか……。
考えた末、結局俺はエメセシル様にありのままを報告することにした。こういう場合、嘘を言って元気づけても逆効果になる。まして、王太子殿下ご自身がご自分の先を想定されているくらい悪いのだ。俺は、見たままの状況を姫様に報告した。しかし、殿下が姫様をセイクリッドのアレクス王子に頼もうとしていることは、伏せておいた。それは俺の口で伝えられるべき内容ではないからだ。
姫様は俺の報告を聞きさらに顔を蒼白にされていたが、気丈にも「そう、分かったわ。ありがとう」と短く返事をされ俺に対してそれ以上詰問することはなかった。




