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愛シテル

愛シテル ~4年目の9月

作者: 紙森けい

りく也34才 ユアン35才


 その朝は晴れていた。

 夏の延長のような陽の光だった。

 天に伸びるように立つ二本のビル。北側の一本からはしかし、空の青におよそふさわしくない黒煙が噴き出ていた。

 それから二十分も経たないうちに、南側のビルにも黒煙が上がった。

 残骸が降り注ぐ。

 つい数分前まで飛んでいた鉄の鳥。そしてつい数分前まで息をしていた魂。落下する黒い小さな影は、無機物ばかりではないはずだ。

 映し出された光景に、全ての音は消えた。救急指令センターの音声、緊急車両のけたたましいサイレン、怒鳴るような声、それら全て。実際、音は変わらず存在していたのだが、人々の意識は視覚に集中し、それ以外の感覚を締め出してしまった。

「ひどい…」

とは、誰の声だったろう。一人のものであり、そうではなかったかも知れない。発した本人さえ自覚していない小さな呟きは、マクレインのスタッフを現実に引き戻した。

 無言で持ち場に散って行く彼らは、一時間後に更なる悲劇を見る――マンハッタンの象徴が、一瞬にして消え去る様を。




 現場で出来ることと言えば、死体を運んだり、人であった欠片をバケツに拾いながら、瓦礫の中を歩くだけ。

 命を助けるために最善を尽くす――医者としての基本と使命は、その場において無意味だった。求められているのは、人間の部分かどうかの判断。人を生かすための技術は不要だ。重くなるバケツは、心をも重くした。それでも医師達はただ黙々と歩き続け、職務を果たす。

 各病院より派遣される医師の中に、りく也の姿もあった。ERドクターと言う職業柄、様々にひどい状態の患者を診ている彼は、東洋人特有の読めない表情で、淡々と仕事をこなしていた。しかしそんなりく也でさえも、やはり休憩時間はなるべく離れた場所を求めた。

 第二棟から南へ下り、休憩場所を探す。どこまでも追ってくる焦げたような匂いは仕方がないとして、現場が出来るだけ視界に入らない、人気(ひとけ)のないところが望ましかった。会えば一言二言、今回のことが話題になる。休憩である以上、身体の全ての機能を休ませたかった。

 影を選んで腰を下ろす。ポケットの中でひしゃげた煙草を取り出し、形を直した。防塵マスクを外してそれを銜える。本当なら火を点けたいところだったが、何が充満しているかわからない現状では禁煙も仕方が無い。ただ火は点けなくても、煙草独特の葉の匂いがすんと口中に広がり、日常を思い出させた。

 道路は大量に降った残骸が積もったままで、時折の風に書類だった紙切れが埋もれながらも揺れる。

 なるべく思考しないように努力した。嗅覚だけでも日常を感じたくて煙草は口にくわえたままだ。それを口にしている間は手に残る『バケツの重み』を忘れさせてくれたが、ぼんやりとした視界には否応なしに痕跡は入り込んでくる。前髪をかき上げれば、土埃によるパサパサした感触が指に残った。

 りく也の日常を求める些細な努力など、いつもそれらに飲み込まれてしまう。この場にいる限り日常には戻れないのだと、自嘲気味の笑みを口の端に浮かべ、フィルターの部分を噛み締めて尚更に匂いを求めた。

「失礼、よろしければ煙草を一本、頂けませんかね?」

 一本目のフィルターがボロボロになった頃、りく也は声をかけられた。影と日向の境に人が立っている。伏せていたりく也の目は最初、初老の白人男性とだけ認識した。一人の時間を邪魔されたくはなかったが、追い払うわけにもいくまい。

「火は点けない方がいいですよ。俺もご覧の通りだ」

 指で挟んだ火の無い煙草を見せる。

「構わないよ。実は少し、人と話がしたくて」

 と言うので、りく也はポケットのひしゃげた箱を差し出した。彼が影の中に入って来た時、りく也はどこかで見た顔だと思った。

「ありがとう」

 耳に滑り込む声も懐かしく感じた。彼の胸にはIDカードがぶら下がっていて、煤で汚れた中に辛うじて『Dr.』の文字が読み取れる。一般のボランティアが立ち入りを禁止された区域にいると言うことは、同業者――かり出された医療関係者なのだろう。どこかの学会で会っている可能性も考えられる。

 りく也は身体をずらして、座れるように場所を作った。軽く会釈をして、彼がその場に腰を下ろす。差し出された箱の煙草を一本抜き取り、りく也と同じく火を点けないまま銜えた。

「どんなことがあっても、空は晴れるものなんだなぁ…」

 紫煙を吐くように長く息を吐いた後、彼はポツリと呟いた。りく也は胸の内でため息をつく。誰かと一緒になるとやはりこの状況についての話になってしまうのだ。煩わしい。適当に時間を見計らって、さっさと場を立とうとりく也は思った。

「陽は沈むし、月は昇る。また朝が来て、永遠に来ないと思っていた『明日』になる。時間と言うものは、実に律儀だ、そう思わないかね?」

 彼は、りく也に顔を向ける。りく也が「はあ」としか答えられずにいると、彼は微笑んだ。その笑顔と、高からず低からず心地良さを感じる声音は、やはり知っている気がした。

 りく也は路上の紙切れに目を戻す。先ほどと同様に、かすかな風に揺れていた。

「だからすぐに忘れる。どんなにひどい目にあっても、いずれ過去にするんだ」

 りく也は独りごちた。

 普段なら、少しは気の利いた答えを返したろう。見ず知らずの人間に眉間の皺など絶対に見せないりく也だったが、今はひどく疲れていて気持ちがささくれ立っていた。そこ、ここに散乱しているゴミと化した物、物、物。見ている紙切れもさっきと同じかどうか。それらは今回の行いが如何に多くのものを失わせたかを語り、同時に疲労も助長した。

「忘れることも必要なんだよ」

 りく也の呟きに彼が答える。

「辛い思い出にいつまでも縛られていては、前に進めないだろう?」

「前に進んで、また繰り返す。愚かなことを、何度も」

「では君は、忘れたことがないのかい?」

 自分の眉間の皺を意識したりく也は、なるべく自然に笑顔を作った。

「俺だって人間ですからね、忘れてきましたよ」

 携帯用の灰皿に煙草を突っ込むと、りく也は腰を浮かせた。こんな禅問答みたいな会話で、貴重な休憩時間を潰したくない。当初の予定通り、そろそろこの場を離れた方が良さそうだ。

「そうかな、私には忘れられずにいて、立ち止まっているように見えるけど?」

 立ち上がりかけたりく也は、思わず彼を見る。見上げる彼と目が合った。相変わらず笑みが浮かんでいる。

 確かにこの男と会ったことがある――記憶の中をひっくり返し、彼の『笑顔』を探した。

「どう言う意味ですか?」

 笑顔を探し当てるより先、口が動いた。相手を見下ろす格好が気になり、元の場所に無意識に腰を下ろしていた。立ち去る機会を失ったと気づき、りく也は心中で舌打ちした。

「そのままの意味。表情のない顔をしているよ」

 彼は答える。口の端に笑みは残るものの、目にはそれがなかった。

「そりゃ、こんな現場で働いているんだから、ニタニタ笑ってもいられないでしょう?」

 この地区に入っている人間は、大体がそうだ。感情を押し殺して、自分の任務をこなす。それでないと、精神が保たない。

「そうだね。確かに、笑っていられる所じゃない。でも、押し殺した中にも隠せない表情はある。それは怒りであったり、悲しみであったり、何らかの感情がにじみ出ているけど、君にはそれが見られない。何も感じていないだろう?」

「それが何で『忘れられずに立ち止まっている』につながるんです?」

 ムッとりく也の唇は引き結ばれた。

「それに何も感じないわけがない」

「では何を感じているか、言ってごらん」

「何であなたに?」

「反論するからには、根拠を示さないと。ね?」

 彼の口調はまるでりく也を子供扱いだ。りく也の口はへの字へと形を変える。

 この現状を見て、何も感じないわけがない。罪のない人間が犠牲になっているのだ。マクレインのERに、毎日のように出入りしていた救命士や消防士も命を落とした。失われた命には、家族も友人もいる。それら全ての怒りと悲しみが、ここには溢れている。

「でもそれは、君の感情じゃない。 ただの場景描写だ」

 りく也が羅列した言葉を、彼は肯定しなかった。

「God bless Americaでも歌えばいいんですか?」

 血縁者を亡くしたわけじゃない。知人が巻き込まれてもいない。頭に血を昇らせて報復を叫ぶほど、この国に心酔もしていない。りく也と同じ立場で今回の事件を見ている人間の方が多いはずだ。

 シニカルな切り替えしに、彼はくつくつと笑った。

「ああ、失礼。さっきのはジョークだと思って流してくれないかな」

「ジョーク?」

「反応が見たかっただけなんだ。少し話しをしたいのに、君はすぐに帰ろうとするから」

 悪戯っぽく片目を瞑って見せる彼に、りく也は怒る気力を削がれ、つられて笑ってしまった。

「そうそう、顔の筋肉を緩めた方がいいよ。いつもポーカー・フェイスじゃ疲れるだろう?」

 りく也は観念して、しばらく彼の話に付き合うことにした。つられて笑っただけだったが、彼の言う通り、何だか肩の力が抜けたような気がする。それに既視感はまだ続いていて、なぜそう感じるのか確かめたい気持ちもあった。

「あなたは変わってますね? こんな時に、こんな場所で笑ってる人間の方が少ないですよ」

「こんな時だからこそだよ」

「こんな目に合わされて?」

「汝の敵を愛せよ。神の言葉だ」

「神…ね」

「君は神を信じないのかい?」

「無神論者なので」

 神様なんて信じない――このセリフはどこかで言ったような気がする。彼との会話は以前もどこかで。ずっとずっと昔だ。りく也は記憶を辿る。辿る傍から現在(・・)の彼の声が耳に入り、記憶の掘り返しの邪魔をした。懐かしさは助長されるが、集中力は削がれイライラする。

「憎むだけではね、虚しいだけだ。いくら相手を憎んでも、無かったことにはならないだろう? 憎む気持ちはいつも心の中に辛い記憶を呼び戻す。そうしてまた憎む。繰り返すうちに、感情はそれに囚われる。それ以外に気が回らなくなる。人を愛したり、思い遣ったり、笑ったりも、泣いたりすることも出来なくなる」

「大げさだ」

「そう? 君はそうではないと言えるかな? 感情をどこかに置き忘れてはいないかい? 彼以外に愛する人を見つけられた? リクヤ?」

 不意に名前を呼ばれ、りく也は彼を凝視した。お互い、名乗っていないはずだ。二人とも首にはIDカードがかかっているが、りく也のものは揺れて邪魔になるので胸ポケットに突っ込まれていたし、彼のそれは煤で汚れて名前が読み取れない。

「あなたは俺を知っているんですか?」

 りく也は更に見入る――穏やかな笑みを浮かべる、その目を。

「知っているよ、私が誰だか当ててごらん」

 後ろへ撫で付けられた髪型に覚えはないが、薄っすらと割れた顎の感じには見覚えがある。こめかみに集中している白髪は、かつては暖かなブラウンではなかったか? 光の加減で緑がかる、髪と同じ色の瞳を、不思議な思いで見たことはなかったろうか。

 煤けたIDカードに手を伸ばそうとすると、「ズルはダメだよ」と隠された。その仕草が懐かしさを含む曖昧な記憶と過去を、やっと結びつける。

「ドクター・グレッグ?」

 名前を口にすると、彼の手はまるで子供にするように、りく也の頭をくしゃくしゃと撫でた。




「リクヤッ!!」

 ドアが乱暴に押し開けられる音と同時に、裏返ったテノールが名前を叫ぶ。りく也は飛び起きた。

 そこはマクレインのドクター・ラウンジで、カルテ整理の最中に、机に突っ伏して眠ってしまったらしい。少し伸びた前髪をかき上げ、りく也が振り返ると目の前に胸が迫っていて、次の瞬間にはきつく抱きしめられていた。

「リクヤ、ああ、リクヤ! 無事だったんだね!? 良かった、良かったぁ!」

 テリュ・リリュの甘い香りが鼻をつく。りく也は息苦しさを覚え、ユアン・グリフィスのその長い腕から逃れようとしたが、びくともしない。不意打ちをくらったせいで、身体はしっかりと抱きこまれてしまったのだ。

 りく也が迷惑顔をしていようとも一向にお構い無しで――その表情すら見ようとせず、自分がどれほど心配していたか、どんなに早くアメリカに戻りたかったかを、ユアンは捲くし立てた。

 ユアン・グリフィスはリサイタルの為、今夏はロンドンとパリに滞在していた。九月の半ばにはアメリカに戻る予定だったのだが、『あの日』の余波に足止めされて、最悪の月が終わる今日、やっと帰国出来たらしい。

「電話にも出ないし、ここにかけても現場に出ているって言うし。ハミルトンに見に行かせたけど、会えなかったって言うじゃないか。もう、どうにかなりそうだったよ」

 電話に出なかったのは、自宅アパートに戻っていないためだ。事件以降、ロウアー・マンハッタンに出ずっぱりで、マクレインの仮眠室で寝起きするだけの日が続いていた。その間、ユアンのバトラーであるハミルトンが様子を何度か見に来ていたと聞いてはいたが、結局、直接会うことはなかった。

「ハミルトンにはちゃんと無事だと伝えてもらったぞ」

 スタッフが「ドクター・ナカハラは無事」と伝えてくれたので、それで事は足りると思った。

「そんなの、僕を安心させる嘘かも知れないじゃないか! 自分の目で君の姿を見るまで、信じられなかったよ。ああ、神様、ありがとうございます…、リクヤをお護りく…」

 最後の方はすすり泣きと混ざって、言葉になっていない。りく也の存在を実感したいかのように、ユアンの腕には一層、力がこもった。

 焼け焦げた匂いを含む土埃と死臭に慣れ、火のない煙草の葉に無理やり日常を求めたりく也の鼻腔を、甘く上品なコロンの香りが癒す――ここしばらく忘れていた人肌の温もりを、抱きしめられた肩や背中で思い出した。

「いい加減、離せよ」

 辛うじて自由の利く左手で、ユアンの背中を軽く小突く。しかし彼はりく也を抱きしめたまま首を振った。

「しばらく、このままでいさせてよ、リクヤ。腕の中の君が現実だって思えるまで」

「何、クサイこと言ってやがる。蹴り、入れられたいのか?」

「いやだ、離さない」

 全体重がのしかかり、りく也が腰掛ける椅子は傾いだ。

 ラウンジのドアが開いて同じレジデント仲間のジェフリー・ジョーンズが顔を覗かせたが、二人の姿を見て「失礼」と言って踵を返す。りく也が呼び止めようとするのと、かかる重みに耐え切れず、抱きしめるユアンごと椅子が床に倒れこんだのは同時だった。ついでに机も道連れにされ、カルテが宙を舞う。

「リクヤ!?」

「リック!」

 慌ててユアンが身体を離し、ジェフリーが駆け寄る。下敷きになったりく也は「痛てててて」と呻きはしたが、顔をしかめたのは痛みでではなく、整理・未整理関係もろとも散乱した書類が目に入ったゆえだった。


『いつかきっと笑える日が来る。君がこんなに一生懸命なんだから。焦らないで。君の焦る気持ちは彼に伝染するよ。疲れたら、いつでも私の所にくればいい。いいね?』


 りく也の記憶に残る一言は、かつてドクター・アーチボルト・グレッグが発した。彼は小児精神科医であり、二卵性双生児の兄・さく也の主治医でもあった。もう二十年以上前の話だ。

 母親の虐待により心を閉ざした兄は、ドクター・グレッグの治療プログラムで回復したのだが、その際、子供で何も出来ないことに焦っていたりく也をも支えてくれた。りく也が医師を志したのは彼の影響が多分にあり、最初は精神科を希望したくらいだ。

 兄の治療が終わったと同時に、彼とは間遠くなった。りく也自身、自由の利かない身の上で――その頃は日本有数の財閥の後継者だったので――、数年前まで日本に縛り付けられていたためだ。

 アメリカに戻った時、ドクター・グレッグが勤務していたボストンの病院を訪ねたが、ロサンゼルスの病院に移った後だった。医学生としての研修、続くレジデンシィ・プログラムで忙殺され、時間が出来たら休暇を取って会いに行こうと思いながら、再会を果たせずにいた。

 そして、再会の機会は永遠に得られないものとなる。

 タワーに突入した飛行機の乗客名簿の中に、アーチボルト・グレッグの名があった。前日まで古巣のボストンの病院で研究会があり、あの運命の朝、ロスへ戻る飛行機に乗り合わせたのだ。

 後ろに撫で付けられたブラウンの髪、こめかみに集中している白髪、暖かな茶色の瞳――それらはニュースに映し出された写真の中のドクター・グレッグであり、りく也が知っている彼のものではなかった。

 あの瓦礫と化した無色の街で、優しい笑顔を向けた初老のドクター・グレッグは、だから現実の世界に存在しない、夢の中に出てきた人物だった。

 疲労している身体が見せた夢なのだ。


『リクヤ、心を閉ざしてはいけないよ』

『閉ざしているのは、サクヤだよ』

『そうかな? 僕にはリクヤの方が重い病気に見えるけど?』

『どうして?』

『ここに来て一度も笑っていないだろう?』

『笑えるわけないよ。サクヤがあんななのに。あんな目に合わされたのに、どうして笑っていられるの?』

『お母さんが許せない?』

『許すもんか。あんなのママじゃない』

『神様が『許してあげなさい』と言っても?』

『神様なんていないよ。いたら、僕達をこんなひどい目に合わせないもの。前に神父様が良い子にしていたら、きっと神様が願いを叶えて下さるって言ってたけど、どんなに良い子にしてたって、助けてくれなかったじゃないか。僕は会いたいの我慢して、お父さんの言う通りに勉強もしたし、くそババア達の意地悪も我慢した。なのに、なのにそのご褒美がこれなの?!』

『リクヤ…』

『もう信じない。僕が信じるのはサクヤだけだ。もうさく也以外、要らないんだ』

『怒るばかりじゃね、何も残らないよ。いくらパパやママに怒っても、何もなかった時には戻らないんだよ? 怒ってばかりじゃ、いつまでたっても嫌な気持ちで心の中がいっぱいのままだ。人を好きになることも出来ないし、やさしくしてあげられない。笑ったり泣いたり、感じることが出来なくなる。世の中には楽しみがいっぱいあるのに、素敵な人とも出会えるのに』

『僕はサクヤを守っていくんだ』

『サクヤだけじゃなく、たくさんの人を好きにならないと。サクヤもきっとたくさん人を好きになるよ。その中で君と同じように彼をわかってくれる人を見つける。君も、サクヤを好きな気持ちと同じ気持ちで人を好きにならないと、いつまで経っても前に進めないよ』


 夢での会話は、子供の頃に彼とした会話と重なった。なぜ今、ドクター・グレッグは実体ではないにしろ、自分の前に現れたのだろうか。彼の死を知った時、「ああ、そうなんだ」と思っただけで特別何も感じなかった。それに抗議して、夢に出てきたのだろうか。

 彼は繰り返した。「何も感じていないじゃないか」と。そうして問う。「彼以外に人を愛したか」と。りく也にはその意味がわからなかった。愛を大盤振る舞いして、何がどうだと言うのだ。

 ジェフリーがスプレー・タイプの鎮痛剤を塗布する間、りく也は夢を反芻した。

 床に倒れこんだ時、左肩をしたたか打ったが、幸い軽い打撲で済み、痛みは鎮痛剤ですぐに引く程度だ。床に散乱したカルテは、ユアンが拾い集めた。今日の日付が記入されているもの、いないものに分けながら、彼は心配そうに治療の様子をちらちら見ている。その鼻の頭が赤いのは、ここに来て早々りく也の無事を神に感謝した名残だ。

 赤の他人が無事だったことを、どうして泣くほど神に感謝出来る?――りく也はユアンを見つめた。彼が寄越す何度目かの視線と合った。

「リクヤ、痛むかい?」

 正面で見ると鼻の赤さは二割増しで、りく也は噴出す。

「何?」

 いつになく全開で笑うりく也が珍しいのか、ユアンはきょとんとした目を向ける。

「ルドルフ(赤鼻のトナカイ)みたいだと思って」

 りく也の答えに、今度は傍らにいたジェフリーが爆笑する。収まりかけたりく也の笑みは、再び口元に浮かんだ。

「ひどいよ、リクヤ、僕は本気で心配したんだよっ。君の無事がどんなに嬉しかったことか、わかってるっ!?」

 むきになるユアンの口調に、りく也とジェフリーの笑いは止まらなかった。この状況下ですっかり忘れられていた表情だ。外に漏れるのを憚って声こそは抑えられたものの、りく也とジェフリーは笑うと言う感覚を懐かしむように一しきり笑った。

「おっと、そろそろ日が暮れる。スタンバっとかないと。俺は先に行くけど、リックはもうしばらく休んでいいぞ」

 壁にかかる時計を見て、ジェフリーが言った。夜になると外来受付は消防士や警官で占められる。彼らは空気の悪い場所で一日中作業しているせいで、ほとんどが気管支を患っていた。日が暮れて作業が不可能になると、病院で治療を受けるのだった。そして翌朝、現場へと戻って行く。そのため夜のうちはかなり忙しい状況で、病院側もそれに合わせてシフトを組みなおしていた。

「俺も行くよ」

 とりあえず記入し終えた分のカルテを集めて、りく也も立ち上がった。それから残るユアンに言った。

「おまえはもう帰れ。気が済んだろう?」

「今日は何時まで? アパートまで送るよ。もちろん、外で待ってる」

「上がりは当分なしだ。帰ってろ」

 りく也は念押しするように言い置くと、ジェフリーに続いてラウンジを出た。

 ローカ側の窓から中を見ながら歩を進める。ユアンがりく也を目で追っていた。まだ鼻の頭はうっすらと赤いままだ。さっきの笑みの余韻が、りく也の胸の内に温かく広がった。


『彼以外に愛する人を見つけられた? リクヤ?』


 耳に蘇る夢の声。

(ありえない)

 それでも、ひとときとは言えユアンの素直な感情表現が、『あの日』までの日常をりく也に戻してくれた――火のない煙草よりは、確実に。

「ナンバー・スリーの二人を頼む」

 スタッフが通りすがりに声をかけて行く。「わかりました」と答えて、りく也は口元を引き締めた。現実の時間が動き始めた。 




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