プロローグ
涙のような、雨が降っていた。
嘆くことを、悲しむことを、想うことを表すように雨が降っていた。
けれど、空へと視線を向ければ、夕陽が辺りを鮮烈に彩っている、そんな情景だった。
黄昏に燃える雨を背景に、二人は最後の別れを告げる。
「……ごめん」
少年の声は優しく、そして切なく胸に響いていた。
雨に濡れ、額にかかる少女の髪を、そっと掻き分ける。
「でも、いつかきっと戻ってくる、君のところに」
「本当?」
「約束する。雨は、大切な人の所に帰るために降るんだから」
少し華奢でしなやかな手が涙をぬぐい、優しく頬をなでる。
触れた手は温かく、少年の温度を感じることができた。
「この涙も、いつかあなたに届くのかな?」
けれど、その温もりをもってしても、あふれる涙は止まらなかった。
涙が彼への想いだといわんばかりにあふれ、流れ続けてしまう。
「きっと、きっと届くよ」
だが、いくら嘆こうとも青光の中にとけていく彼を止める術などなく、二人はただそれを受け入れるしかなかった。
そうするうちに夕陽は沈み、辺りは夜の時間を迎えようとする。
黒い帳に包まれる中、瞳には彼の最後の灯火が優麗に映っていた。
夕陽は沈んでいた。
いつしか、雨は止んでいた。
「だから、さよならはなしだよ」
「うん、またね」
二人は、その日、二度目のキスをかわす。
それは、永遠といえるほど長く、そして刹那に届かぬほど短く。
そして、二人は――。
純白の天井、少し飾り気にかける部屋の中、クラレスは目を覚ました。
「夢か――」
先程まで見ていたもの、すでに内容も思い出せないが、何とも言えない気分だった。
枕元に佇む目覚まし時計は六時にもなっていない、まだ起きるには少し早い。
「夢、最近は、見ないと思ったのに」
何だか今日は恥ずかしくて、哀しくて、切なくて――。
ときおり見る、現実と見まごうほどに鮮やかな夢。その名残が現にこびりつき、今日はいつにも増してもどかしかった。
クラレスは、まぶたをこすりつつ、パジャマのボタンに手をかけはじめる。
お気に入りの浅黄色の水玉パジャマも、夢から覚めてしまえば無用なもの。
ベッドにパジャマを放り投げ、顔を洗い、ハンガーにかかった白いブラウスに袖を通す。白いシャツや、チェックのスカートが緩やかな少女の曲線を包みこんでいく。
「ラインはどうしてるかな?」
鏡の前、白髪に櫛を入れながら、ふいに一人の少年のことを思い浮かべてしまう。
朝一番に考えることが男の子のこと。もどかしく、くすぐったい気持ちの中、梳かされた髪がサラリとゆれる。
ラインは今日も一番に教室に到着しているのか、一番に教室に入るため急いで準備をしているのか、そんな様子を思い浮かべ、思わず口元は緩んでしまう。
そして、誰もいない教室ですごす少しの時間を楽しみに、クラレスはカバンに三冊の教科書を詰め込むのだった。
世の物質、生物、森羅万象には個々に語られぬ想いがあり、目に見えぬ意思がある。
火がわが身を焼きながら 刹那な命を灯すように、
水が数々と姿を変え、時に破壊を、時に癒しを与えるように、
森羅万象には、意思というチカラ『ブレス』が宿っている。それは火、水、地、風の四つに分類され、チカラは己が言葉の理解者を求めるという。
昔、人はこれらの真の想いを聞き、言の葉にのせ詠った。それによりセカイを解し、ブレスを自由自在に操り、使役することを可能とした。
真を紡ぎ、目に見えぬ真実を、聞こえぬささやきを形にする術、それを真紡術とよぶ。
想いを解し、受け入れることでセカイは声に、問いにコタエを示すのだという。
まだ校舎には誰もいないような時間。
クラレス・シュトロームは教室に向かって歩いていた。
開いた窓から流れこむ春風は、月白の髪をさらりと揺らし、廊下を駆け抜ける。日差しはまだ弱々しく、それでいて穏やかに廊下を照らしていた。
「すぅ、はぁ――」
教室のドアの前まで行き、軽く深呼吸をする。
はやる気持ちに、自然と鼓動が早くなり、掌は汗ばんでしまう。
「よしっ」
小さな掛け声の後、胸を手で押さえそっとドアを引く。
すると、そこには一人の男子生徒がいつもと変わらない様子でクラレスを待っていた。
「おはよう、クラレス」
「うん、おはよう」
クラスメイトであるライン・ハウクと、いつものように挨拶を交わす。
クラレスよりも少し高い身長、男の子らしい体格の中に潜む綺麗な線。そして、深い青色をした髪と瞳。その姿を見ると、なぜかとても落ち着いた。
学校なんて、本当は出席などせず逃げてしまいたくなる時もある。けれど、ラインがいると思うと、朝の時間を楽しみに身体は動いていた。
「今日も早いんだね」
「クラレスも早いよね」
「私は自習かな」
「そう? じゃあ、ぼくも自習」
朝日が微笑むラインを優しく照らし、顔が柔らかく光を帯びる。
その一方で、クラレスは自分の顔にはわずかに曇りがかかっているのを感じてしまう。
彼の言葉をうれしく思いながらも、胸の中には不安と寂しさが影を落とすことがある。その影は、青空にかかる雲のようにどこかどんよりと佇み、離れない。
クラスメイトであり、お互いの存在を確かに意識していて……でも、それだけで。
優しくされれば、それだけ嫌われてしまうのも恐くて踏み込めなくもなる。きっと彼の優しさは自分だけのものではない、そんなことを思ってしまう。
そうやって、ラインとの間にほんの僅かな距離を感じ、それは心に隙間風を吹かせていた。温かな春には決して似合わぬ、湿っぽくくすんだ風を。
「…………」
「どうしたの、クラレス?」
「な、なんでもない」
ラインの顔を眺める。彼は不思議そうに、まるでこの不安なんて気づいてもいない風に見つめ返してくる。その様子に、つい頬を赤らめてしまう。
まぁ、いいか。今はそう思うことにした。
どれだけ不安に苛まれようと、どれだけ寂しさに身を浸そうとも、誰もいない教室で過ごすこの少しの時間、クラレスには本当に大切で愛おしいものだった。
「ライン、あなたは何を専門にするか決めた?」
クラレスは、ラインの隣の席に腰をかける。彼の視線が、校庭から逸れる。
窓から一望できる校庭は、まだ日差しも少なく生徒もいない。名門ヴェルシュピネ専門学校――全寮制で共学校、さらに真紡術の名手を数多く輩出することで有名な専門学校も、人がいなくてはただの景色でしかなかった。
ここでの四年間、生徒は真紡術習得のために時間を費やし、日夜の勉学と修練に励む。クラレスたちはすでに一年の基礎課程を終え、専攻のブレスを決める時期に入っていた。
「ぼくは水の専攻だよ、ここに入ったときからそう決めていたしね」
ラインは一枚の紙を取り出した。
それは、一年生の終わりに書かされた専攻書。それによって二年目からの授業は火、水、地、風の四つに分類され、生徒は自分の専攻するブレスの講義を受けるようになる。
「クラレスは風なんだよね?」
「ラインは、私が風じゃイヤ?」
「そうじゃないよ」
ラインが少し残念そうに口にする。
「ただ、クラレスにはきっと火の方が向いてるのにな、と思って。
前に一度だけ見せてくれた君の火は、すごく綺麗だった」
その言葉に応えるように、クラレスはささやくように詩を口にする。
“自由に空を流離うものよ
彼方へ想いを届けるものよ
刹那に踊れ
静かに詠え”
詩によって紡がれるもの、クラレスは掌に火ではなく風のブレスを集わせる。
空気が徐々に流れを持ち、手の上で渦を巻く。
想い、意志に従い風は手の上で舞を踊っていた。
「ありがとう。でもね、火を見てると少しだけ不安になるの。
自分の火をどうしていいのか、どう接したらいいのかわからなくなるの」
心は張りをなくし、少しずつ沈み始める。風は心を表すかのように、萎みながらその姿を消した。
「ぼくはクラレスの紡ぐ火は好きだよ。君の火は穏やかで、温かい」
そっと手を添えるように向けられる言葉に、心の底が軽くなる。
大丈夫、自分に言い聞かせるように、クラレスは笑顔のまま気持ちを言葉にする。
「でも、私は風が好きだから。
自由で、誰にも縛られず大地を駆ける。それってすごく素敵じゃない?」
「そうだね、誰にも何にも縛られない、それもいいかもしれない」
「でしょ、風ならばどんなところにでも、誰のところにでも飛んでいける。きっと――」
きっと、大切な人のところにも。
けれど、クラレスの言葉の後、ラインはふいに言葉をなくす。
何か不味いことを言ってしまったかな。そんな不安を感じていると、ラインは少し迷うように言葉を続けていく。
「クラレス、君は未来について、ぼくらの将来について考えたことがある?」。
「何、急にそんなこと」
ラインは、軽く視線をそらしたまま質問を口にした。
クラレスは質問を疑問に感じながらも、会話が繋がったことに安堵する。
未来、それは未だ訪れていない先のこと、知りえぬセカイの流れ。それはささいなことで大きく姿をかえ、それでいて、どんなに大きなことにも揺るがない。
ヴェルシュピネを卒業したものは、その多くが真紡術に関係した仕事につく。科学者になるもの、真紡術師としてセカイを周るもの、本当に様々だ。
考えあぐねる中、ラインは言葉を続ける。
「これから、みんな違った道を進み始める。誰がどう進んで何になるのか、それは誰にも分からないし、自分しか決めるものもいない。
変わらないものなんてない、終わらないものなんてありはしない。
でも……そう、だからこそぼくは君とのこの時間がとても――」
ラインは、隣だけに聞こえる声でその続きをささやいた。
何? さっきの質問も前置きも、これをいいたかったの?
まどろっこしい、バカみたい。そんなことを思うのに、ラインの声が耳をくすぐり、言葉がクラレスをそっと抱きしめる。心はほんのりと熱を持ち、他には何もいらない、そんな不思議な満足感すら感じさせる。
再び教室が静寂に包まれようと、そのときのクラレスに不安はなかった。
ラインは彼なりにクラレスを大切に思ってくれている。そして、同じように自分との距離を悩んでいる、そんな事実がどこか心地よくもあった。
そんな距離も不安も、今はまだ、それだけでもいいのだと思えていた。
そのとき、彼らはまだ十六歳で、これからいろんな経験をして、泣いて、笑って、怒って。そんな、忙しくも楽しい日々が待っていると思っていたし、そう信じていた。
今がずっと続けられるような気がしていた。
けれど、水が流れることを止めないように、目に見えぬとも風が確かにそこにあるように、時間は残酷にも進み続け、すべては移ろいゆく。
今が永遠なんてことはない、そのことに気づくのに、その時の二人は幼すぎたし、まだ何も知りえるはずもなかった。
それでも、世界は進み、そこに生きるものに確かにコタエを示す。
ただそれを知り、紡げばいいのだ。それが、己の存在を確かなものにするのだから。




