序─III
東の空から夜の闇が晴れ、朝へと変わって行く。
だが一方で、森の中で一晩を過ごしたガイアには、ある深刻な問題が発生していた。
──もう駄目だ、おしまいだ。我慢できるわけがない。相手は人間三大欲求の一つなんだぞ?
そんな、どこぞのツンデレ王子のような言い訳を心の中で呟いたガイアは、立ち上がって森の方へと歩いて行く。
だが、いくら空が明るんできたからと言っても、未だに森の闇は晴れていない。
しかし──
「ぐうぅぅぅぅぅぅ……」
盛大に鳴った腹の虫は、その行動の理由となることを示すには十分すぎるものであった。
ガイアはこの時、これ以上辛抱することが出来ないほどに、空腹で飢えていた。
転生する前の時点から考えても、昨夜から今に至るまで、マキナ草の根っこ以外の物を口にしていないのである。
故に、ガイアは何かしらの食べられる物を見つける為に、森の探索に出ることにしたのだ。
だが、このまま何の灯りも持たないガイアではない。
手頃な太さの枝が生えている木を見つけると、得物である片手半剣を抜き、魔法剣士の属性付与によって得られたスキル──「武器属性変化・炎」を発動する。
すると、途端に刀身が熱気を帯び、その周囲に陽炎の揺らめきが発生する。
そして、ガイアは上級剣士の"攻撃対象の物理防御力を無視した斬撃を放つ"という性質の片手剣のスキル──「徹甲斬」を使用するために、自らの得物へと魔力を注ぐ。
"戦闘技能"の加護によって、自然と得物に魔力を注ぐ技術を体得していたガイアは、その得物を木の枝目掛けて振り下ろす。
振られた刀身は炎を吐き出し、燃え上がる剣閃は、いとも容易く木の枝を幹に繋がる根本から切断される。
二つの切断面が露わになり、それが武器に宿した属性効果によって小さな火がちりちりと燃えていた。
得物を納刀し、一旦火を消したガイアは「サバイバー」による知識を頼りに自分の服を裂き、道具袋に入れられていた瓶入りの松脂を布に染み込ませ、簡易の松明を作り上げる。
そうして手に入れた松明を左手に持ち、ガイアは未だ深い闇に包まれている森の中へと足を踏み入れて行くのだった。
◇ ◇ ◇
探索を開始してからおよそ一時間が経過し、既に松明を使わずとも視界が確保できるようになって来た頃。
ガイアは、目の前に立ちはだかるその存在を、欲望だだ漏れの瞳で見つめていた。
ガイアは、体長三メートルをゆうに越えるであろう、"二つの頭を持った熊"──魔物「ベズアー」に出くわしていた。
熊のようで、熊ではない存在。そして、その口から垣間見える悪魔のように鋭い歯を見たガイアの第一声が「あ……、亜熊たん……」であった事は、最早言うまでも無いだろう。
だが、今のガイアにとって最も重要なのは、異世界初の魔物に出会ったことでも、森の中で亜熊たんに出会ったことでもない。
腹の虫が鳴る──即ち、その存在が"食えるか食えないか"という一点のみである。
脳裏に浮かぶ、数々のサバイバル熊肉料理。
本能から次々と溢れ出る涎。
そこから導き出される彼の行動は、ただ一つである。
──俺が軽く捌いてやろう。
空腹と"闘志"の加護によって恐怖心を完全に忘れ去ったガイアは、背中の鞘から片手半剣を抜き放つ。
咆吼が森に響き、ベズアーはその鋭い爪でガイアを食すべく、腕を大きく振り上げる。
その直前、想像詠唱で風属性支援魔法「疾走」を発動して素早さを強化していたガイアは、素早くバックステップして距離を取る。
ベズアーがその腕を薙いだことで重い風切り音が鳴るが、その攻撃は空振りに終わる。
その後もベズアーは、ガイアを自らの冬眠のための食事とするべく、その腕で時折木々を抉りながら攻撃を続けてゆく。
だが──
(そんなもので、この俺を倒せるとでも思っていたのかぁ……?
……なんつって)
ブレス等の特殊な攻撃手段を持ち合わせておらず、ただただ力に任せて暴れるだけのベズアーの攻撃は、素早さを増したガイアには掠る気配すらない。
やがて、ガイアの腹の虫が再び唸り、同時にそれは、ベズアーの命の終わりを告げる合図となった。
ガイアは想像詠唱で魔法「炎の鼓動」を発動し、物理攻撃力を強化する。
そして、サバイバーの加護によって得た知識を元に、すれ違い様に一閃。
首元に傷を与えると同時に、そこから鮮血が噴き出す。
ガイアは"サバイバー"によって得られた情報から、売り物になる"ベズアーの毛皮"に傷を増やさないように斬りつけ、次第に相手を追い詰めて行く。
食欲によって本能を刺激されていたガイアは、最早どちらが飢えた獣か分からぬほどの獅子奮迅ぶりで、ベズアーを圧倒し続けていた。
そして、戦闘開始から、早八分。
ベズアーは血を失いすぎたのか、少し頭をフラフラとさせながら、その場から動かなくなっていた。
(やったか……?)
確かな手応えを感じていたガイアは、未だ警戒を解かず、ベズアーと一定の距離を保つ。
そして──ベズアーの瞳から光が消え、その巨体が、大地にうつ伏せに倒れ込んだ。
ガイアはベズアーが死んでいる事を確認すると、腰のベルトの後ろに携えられている解体用ナイフを掴もうとして──止めた。
自らの手で殺したからこそ、空腹で忘れかけていたそれを、忘れるわけにはいかなかった。
「……いただきます」
ガイアは合掌し、この世の全ての食材に対する感謝の言葉を、目の前のベズアーに捧げる。
そして、無事に祈りを終えたガイアは改めてナイフを取り出すと、サバイバーによって得られた"魔物解体法"の知識とその技能を用いて、慎重に血抜きを開始したのだった。
得物:武器。
陽炎:主に夏場に起こる、日光が照りつけた地面や、電車とホームの間から立ち上るゆらゆらとしたアレ。
やったか:大体やってない。
─魔法データ─
◎疾走
風属性の初級支援魔法。
対象にした人間一人の素早さを強化する。
◎炎の鼓動
炎属性の初級支援魔法。
対象にした人間一人の物理攻撃力を強化する。
─魔物データ─
◎ベズアー
弱点属性:炎、雷
討伐難度:F+
特記事項:冬眠する。その最中は、一切の攻撃を受け付けないほどにまで身体が硬質化する。
二つの頭を持つ熊型モンスターであり、ランクFの"双璧"とも呼ばれている。
毛皮に価値があり、ランクF冒険者の防具として加工される。
その力任せの攻撃は、単純だが非常に強力である。
しっかりと準備や戦略立てさえ怠らなければ、そこまで苦戦する相手ではない。