25年間のマリオネット
これは私が現在まで味わってきた精神的苦痛・家族内のでの差別・社会進出後の苦しみ
等をまとめ、私自身、自分と向き合う為に書いた短編小説となります。
長くなりますが、読んで頂けると幸いです。
25年間の苦しみ・親の操り人形になっていた自分
最初にこれを読んでいる皆様に私の思いを伝えたいと思います。
現在自殺者は年々増加しています。ですが、生きていれば何か良い事があると私は信じています。
なので、今自殺を考えている方・身近な人が自殺しようとしている人に読んでいただきたく思います。
なので、自らに異変を感じたらすぐにでも心療内科・メンタルクリニック等専門的病院に行って頂きたく思います。何故なら他の病気と一緒で早ければ早い程良い方向にもどりやすいからです。
ですが、その様な所に偏見を持っている人もいます。なので、行きたくとも家族が行かせてくれないという人もいます。そうなるとやはり考えや感情は負の方向にいってしまいます。
負の考えばかりになってくると、死んだ方が楽になるんじゃないか・自殺したい。
という考えになってしまったり、実行してしまう人がでてきます。
その前に以下の文を読んで頂きたいです。
自殺する勇気があるならば、それを、生きる勇気に変えて頂きたい。
現在あなたがどのように苦しんでいるかはわかりませんが、知って頂きたい。
あなたは一人ではない!絶対味方がいます。味方がいなくともいずれできます。
これを読んでいる、あなたの味方の一人に私がいます。安心して下さい。
苦しみは本人にしかわからないかもしれませんが、それを言う事によって、分かり合える人がいます。分かり合える人ができたなら、その人はあなたの味方になってくれます。
自分が抱えている苦しみを言うのは凄く勇気がいる事かもしれません。ですが、その勇気を出せばその苦しみから解放されると思います。精神障害はならないとわからない為、しっかりわかってくれる人は少ないかもしれません。ですが、あなたの支えになってくれるはずです。
どんな疾患を患っていようと。あなたは変な人ではありません。立派な人間です。
それをどう自分にプラスとして考えるかが一番重要です。
こうなったからこの様な考えがでてきた等、私自身がそうでありその様な考えにいきついた人なのですから。全てがマイナスではないということをちゃんとわかって頂きたい。
こうなったからもうだめだ、ではなく、こうなってしまったけど、あれならできる・これならできる。という、ちゃんとした1人の人間として生きていけます。
ではまず初めに私の事について皆様に知って頂きこれを書いていきたいと思います。
現在私は25歳になり色々な精神病を患っております。
診断が下りている診断結果は うつ病・社会不安障害・パニック障害・不眠症
私は一体誰なんだ!
この様になると色々他の人と違うような考えであったり、人とは違う考えに辿り着いてしまったりしています。
今から私の事について皆様に知って頂きたく思い書かせて頂きます。
ですが記憶の欠落部分が激しい為、これから書かせて頂くお話は飛び飛びになっているかもしれません。
何故記憶が飛び飛びなのかは恐らくそれは自分が自分である為の自己防衛本能で、無かった事にしているのかもしれません。
さてここから何故私がこうなったかを書いていきたいと思います。
まず先に家族構成・性格等を書かせて頂きます。
父親 母と離婚をした為別居中・私とは一切連絡をとっていません。姉にはたまに連絡しているみたいですが。頑固で昭和脳・ドがつく程けち・自分勝手(自分が考えている事全て家族は分かっているだろうと思っている。私個人的には世界は自分中心に周っているという考え)
母親 父と離婚するまで父に反抗は一切せず、父の思い通り動かされる家政婦的存在。現在は父と似た性格になっていると私個人は思っています。ですが金銭感覚は私より適当な感じです。
姉 怒りっぽい性格(怒ると早口になり何を言っていのるか聞き取れないレベル・自分が言いたい事をひたすら言うマシンガントークをする)・反抗的性格・節約家
ここからは、私が姉に思っている事を書きます。
運動神経・学力等全てにおいて私より優れている。何をしても姉には勝てないと思っています。
私 節約家・アニメ・ゲーム好き・家族の言う事には逆らえない(特に親の意見は絶対と思い込んでいる)父親の事が嫌い、正直現段階では縁を切りたいぐらいです。
このような家族構成であり性格です。
では、何故今このような状況になったか自分でもわからない為、幼少期の頃から書き、現在までの事を書いていこうと思います。
長くなると思いますが、最後まで読んで頂ければ幸いです。
今から書くことは、他の人からの視点はほぼなく、全て自分の身におきた事です。
私の幼少期
母親曰く、赤ちゃんの頃の私は基本的に寝てばかりだったそうです。
掃除機や、洗濯機等していても起きない程ひたすら寝ていたみたいです。
ですが、物心ついた頃から変わりました。
その頃の私は気性が激しく特に親が不在の時、姉にきつくあたっていたようです
私が覚えているのは電話機がどのような物が気になっていたので姉を踏み台にし、電話機を触ったりしていました。その時姉は泣き叫んでいた記憶があります。
その後もそのような事が頻繁になり、ある日母親に「爆発(そのよう様な気性が荒い行動)はしたらあかん!抑え込みなさい。」と言われました。
その後の私は周囲にその様な行動を一切せず、人に優しく・人に嫌われない様に・家族を含め、人の機嫌や顔色をうかがいなら、猫をかぶり生活をしていました。
小学校時代
小学校入学後は友達も沢山出来ていたようです(以前母親に聞いて初めて知りました)
小学校4年生の時にはクラスメートの大半が私の家で遊んだりもしていたようです。(勿論これも母親から聞いて知りました)
しかし私の運命を変えたのは恐らくここからでしょう。
ある日引っ越しの話が出てきました。
引っ越し先は住んでいた市は一緒ですが通う小学校が変わりました。
小学5年生から転校生とし違う学校に通いました。
最初は近所の人が友達になってくれて毎日楽しい学校生活をおくっていました。
ですが、毎日のように遊んでいた友達は学年のマドンナ的存在だった為それが気に入らない人達も多くいたみたいですが、その時の私は転校したてで知りませんでした。
そしてここで事件が発生しました。
クラスのガキ大将的存在の人が私に突っかかっていきました。
一方的に罵声を浴びせられたり殴られたりもしました。
最初は我慢出来ていたのですが、やはり我慢にも限界がありここで親に止められていた爆発症状がでました。
気が付いたらその相手は床に転がっていました私は何がおきたのかわからず近くにいた友人に何がおきたのか聞きました。友人からは「お前さっきあいつを投げ飛ばして「これ以上したらもっと痛い目にあわすぞ」って言ってたやん、覚えてないんか?」と凄く変な顔で見られていました。これをきっかけにガキ大将グループからの小さな虐めが始まりました。
遊びに誘われ、その場に行ってみると何分待っても誰もこない等
ここで私の記憶の欠落がまたあったそうです。
ここからは母親から聞いた話になります
ある日そのグループが珍しく遊んでくれ、外で何か遊んでいたみたいです、そこではそのグループの一人がゲームを地面に置き放置し、遊んでいたみたいです。
私はそのゲームを拾い持ち帰ったみたいです。
そして私は母親に「これは道に落ちていたゲーム」と言いそれで遊んでいたみたいです。
後日持ち主の母親から我が家に連絡があり私が拾ったゲームだった事が判明しました。
勿論私はそのグループの一人が置いて遊んでいたことなんて知っていなかったのですが盗人扱いをされました、当日母親と共にそのご家族に手土産を持参し、謝りに行きました。
その後そのグループからは完全に無視され、他の友人も私の事を無視するようになっていきました。
日に日に喋る友達もいなくなっていきましたが、それだけでは勿論終わりません。
いわゆる虐めの開始です。まず最初は私の消しゴムを捨てられ、机に落書き、日直の日には黒板にはその日の日直の名前が書かれていますが私の名前は消されていました。
給食も少なく盛り付けられたり、さまざまな事がありましたが。物が隠されたり、捨てられたり教科書に落書き等普通な虐めはほとんどされました。
ある日は皆でやれるゲームに誘われたりしましたが、どの様に検索してもそんなゲームは存在しなかったり、仲良くしてくれていた友達から遊びを誘われ、行ってみると誰もいない。
典型的な虐めはほとんど受けました。
ですが、私自身この時点では人を【疑う】という考えが存在しなかった為、誘われたりしたら全て信じていました。今思うと人を疑うという事ぐらいしとけよ・・と思いますが。
修学旅行では勿論誰も一緒に行動してくれなかった為ほとんど個人行動でした、
泊まる部屋は3人部屋でしたが、他の二人とはかなり離れた場所に布団をひかれ、ほぼ一人状態。
二日目はグループ行動でしたが、グループ全員が私の存在を知らないふり、ここでも完全に単独行動と言っても過言ではありませんでした。
私の他にも虐められていた人はいましたが、その人は言葉だけの虐めでした。
その時の私の感情は「なんで俺だけこんな扱いをされるのだろう、何故皆俺に対してこんな態度をとるのだろう」という感じでした。
母親から買ってもらったカバンをペンキ塗りたてのところに放り投げられたりしました。
正直その時は相当ショックを受け、かなりの怒りを感じましたが、幼少期に母親から爆発してはいけないという教えを受けていた為、報復や仕返し等は考えても実行には移しませんでした。
恐らく復讐等していたら、また母親に叱られるとう洗脳にかかっていたのでしょう。
自分が我慢すればいい・耐え続ければいい・反撃や復讐してはいけない
この様な感情でした。
私自身この時点で壊れ始めていたのかもしれません。
ですが、小学校卒業まで耐え抜きました。
中学校時代
中学入学後、卓球部に入部をしましたが入学最初のテストの点が悪くて父親に「あいつはもうあかんな」等と言われていました。
子どもの頃からそうです。姉の方が全てにおいて優秀でしたからね・・・
姉が出来た事が私も出来るようになった頃には姉はもっと凄い事をしていました。
勿論成績は優秀で、担任にもっと上の学校にいけると言われていましたがランクを2個程下げた高校にいったみたいです。
さてそろそろ私の話に戻りますね。
成績優秀だった姉とは真反対の自分、当然劣等感を覚えていました。
姉が勉強の仕方や、テスト問題を作ってくれたりしましたが成績は伸びませんでした。
それを知った父親は私に家庭教師を雇い半ば強制的に勉強させられていました。
家庭教師から勉強を教えてもらってもテストの点は伸びませんでした、むしろ点数が落ちていく一方でしたので父親は家庭教師を打ち切り、私の事には無関心になりました。
そこからはいわゆる不良グループとつるんで遊んだりしていました。
毎日のように何かの授業をサボって話し込んだり、グループの家でどんちゃん騒ぎしていたり、凄く楽しい日々でした。初めての彼女もできましたし。
ですが、私には楽しい日々はそんなに長く続きませんでした
そうですやはりまた虐めが始まりました。グループからも外され授業中に私には毎回のようにゴミを飛ばされ、教科書を隠されたり、靴を隠されたりしていましたが、これぐらいは耐えれました。
部活が楽しかったからです。学校内で唯一の居場所であり唯一誰も虐めてこない場所でもありました。先輩方にも勝てたりコーチにも褒められる程すくすく上手くなっていっていきました。ですが1年生大会まで残り3~4か月といったところで私を虐めてくるグループが部室にもくるようなりました。勿論誰も助けてくれません、当然ですよね・・助けると標的が自分にくると思いますからね・・・それから彼女とも別れ、部活にも行かず帰る事が多くなったり、わざと寝坊し、学校には途中から行ったりしていました。勿論虐めはどんどん酷くなっていきました。親に相談しても「そんなこと無視してたらいつか終わることや!」で終わりです。
そんなある日部活の顧問の先生に呼び出されました。
私は内心「あぁ~ずっと行ってなかったから退部させられるのかな・・」と思いながら顧問の先生のもとへ行きました。すると話はビックリ1年生大会に出てくれないかとの話でした。ですが1年生の中で1~2番を争うぐらいのレベルの私でしたが、顧問の先生は私の実力を認めてくれていた為「来ていない期間が長いから他の部員が何を言うかわからないし、でも2軍のリーダーとして出てくれないかい?」と言って下さり私は喜んで了承しました。
1年生大会まで残り数日といったところから部活にも行くようにし、少しでもブランクを取り戻そうとしていました。当然虐めてくるグループも来るので他の部員は私を煙たがっていました。
1年生大会本日私は少し早めにつくように行き部活内で唯一親しくしてくれていた友人と少し練習をしてから試合に挑みました。
ですが、やはり1年生大会といえ相手も強く、私にはブランクもあり全敗しました、まぁブランクと言っても言い訳ですよね・・・ですが他の2軍メンバーの活躍で私の中学は1軍が2位・2軍は4位という好成績でした。皆喜んで騒いでいましたが勿論全敗した私は悲しく、惨めで、尚且つ皆から煙たがられている存在ですし、その輪には入れませんでした。
大会が終わってからはまた部活には行かない日々、虐めは酷くなっていく日々でした。
ある日私がトイレに行く処を虐めてくるグループの一人に目撃されてしまいましたが気にせずトイレに入り用をすませて出ようとした時虐めてくるグループ全員がいました。
私は後退りをし、気づいたらトイレの一番奥まで行ってしまっていました。
するとリーダー格の一人に殴られ、他の人からはトイレ掃除用のデッキブラシで頭をこすられたりホースで水をかけられたりしました。勿論汚いし濡れたし、虐めてくるグループはもうストレス発散できたのでしょう。教室に戻って行きました。私も濡れた制服のまま教室に戻りましたが、まぁ勿論誰も何があったのか聞いてきません、当然です友達なんていませんでしたから・・・その日はまだ午前中でしたが荷物を持ち帰りました。
家には誰もいなかったので制服を洗濯機につっこみお風呂に入り、洗い終わった制服を自分の部屋で干して乾かしました。
次の日からは2時間目からしか行かないと決め起きる時間も変えました、親に起こされても完全無視です。2時間目の途中から学校に行き寝ていました。すると虐めてくるグループは寝ている私には何もしてきませんでした。ここで私はこの虐めから逃げれる方法が寝ればいいんだ!そういった結果がでました。
トイレに行く時は教師用のトイレに行く事に変えました。見つかったら怒られましたが、あんな事をされるより怒られるだけの方がよっぽどましです。
そんな日々を続け3年生になりました。
勿論虐めはまだ続いていました、クラス変えで虐めグループ全員と離れれて内心ほっとしましたが、空席が2席あるのを不思議に思い前の人に勇気をだし聞いてみました「あの2席空いてるのってなんで?」たったこれでけしか私は聞くことが出来ませんでしたがその人からの返答は「不登校生だよ、お前のせいで虐められてた人達」ここで初めて知りました、私が寝て虐めグループから逃げていた時標的が変わっていた事に、私はその二人に凄い罪悪感を感じました。私のせいで虐められていたんだと・・・
なので、その事を謝りたくその人達の友達を探しました。そして数日後数人いた事がわかりました、内容を伝えその人の家にその友達たちと私、合計3人で行きました。
その家は比較的大きくお金持ちそうな外見でした、出てきた人は初めて見る人でしたが、すぐに私は自分のせいで虐められていた事を謝りました。凄く怒られると思っていました。
しかし、何故か相手は私を歓迎し、家の中に入れてくれました。
家の中の内装は、もう見るからにお金持ち!そんな印象でした。
その人の部屋に誘導され皆でその人の部屋でなんでそうなったか等話しました。
すると、皆私と友達になってくれました。凄くうれしかったです。
それからは、放課後その人の家に行ける日は皆で行き遊ぶそのような生活を過ごしていました。正直楽しかったです。でも不安がありました、いつかこの教室にあのグループが来るんじゃないかと、ですが不良グループの情報を集めてくれた友人が「リーダー格の人が少年院にいれられているから恐らくしばらくは来ないんじゃないか」と言ってくれ、不安だった気持ちが少し楽になりました。
しかし、それは突然おきました・・・・・・
その日窓際の席だった私は日差しが鬱陶しくカーテンを閉めました。
昼休憩中虐めグループ数人と他のやんちゃしてるグループ合計7人が教室に突然来ました。
私は当然ビックリして動けなくなっていました。
その私を見て一人が突っかかって来ました、胸倉を掴み窓の方へ振り回され窓に頭をぶつけられました。当然窓ガラスは割れました。しかしカーテンを閉めていた為、怪我はしませんでしたが、勿論窓ガラスは割れました。割れた理由を教師が問い詰めてきました。
虐めグループの主張は私が割った、自分達は関係ない。の一点張りです。
ですが、それを目撃していた唯一の友達が後から真実を告げて下さったらしく、ですが、窓ガラスの弁消費は私を振り回した本人と私の2人で弁償することになりました。
私は事の真相を両親に告げました。すると「そんなことされて、こっちに払う必要はない!」と言ってくれ、内心ホッとしていました。
結果、両方は払わないまま段ボールで塞いだ状態になりました。
そしてプールの授業の最後の日は自由にしていいと言う話を事前に聞いていました。
勿論参加したところで独りぼっちになるのは分かり切っているので、水着を持っていかず見学していました。
そしてその日まで気づかなかったのか、私自身が覚えていないだけなのか定かではありませんが、虐めグループがいました。
虐めグループは私が見学と知ると、水着のまま走って教室に戻っていきました。
私はこう思っていました「まさか虐める為だけに制服に着替えて見学にするなんてないよな・・・」ですが、私が思っていた事は現実におきてしまいました。
そうです。制服姿で戻ってきました。わざと見学にするつもりです。
いざ自由行動が始まると教師も混ざり皆プール内ではしゃいでいました。
それを見ていているだけで私は楽しかったのですが、その楽しみはすぐ消し去されてしまいました。
虐めグループが複数人で私を囲み周囲から見えなくし、無抵抗の私の髪の毛を引っ張り振り回されました。凄く痛かったです。振り回した本人は私が転んで大笑いをしていました。
あまりの痛さで髪の毛を触ってみると、何本と例えるより何百本と抜けていきました。
それを見た虐めグループの1人が言いました「うわ~俺が入院した時みたいに抜けていってるやん・・・これは流石にやりすぎたんとちゃう?」と、その時の私はちょっと庇ってくれたのかな?と少しだけ安心したのですが、その人は他の連中に殴られ、それに腹を立てたのか私の事を何発も殴ってきました。その後プールに落とそうともしてきましたが、流石に制服のままプールには落ちたくないので最大限の抵抗をしました。流石に騒ぎになっていた為、教師・他の生徒が止めてくれ、残りのプールの時間は教師が私の隣にいてくれ何があったのか聞いてきましたが、誰に言っても信じてくれないと思い込んでいた私は何も言いませんでした。教師はそれ以上何も問い詰めることもなく、それどころか虐めグループには何も言いに行きません。それを体感してしまった私は教師も全員敵なんだと思いました。
ここでまた話が飛びます。
次は修学旅行の際気を付ける事を話し合う時間がありました。
自分の意見が教師も生徒も誰も採用しないと分かりきっていた為、暇つぶしに割り箸と輪ゴムで馬を作っていました。するとそれをみた一人が「割り箸で遊ばない」と発言したのです。すると教師は笑いながら黒板に〔割り箸で遊ばない〕と書いていきました。
まぁ遊んでいるというよりも物を作っているので私はその馬を作る作業を再開していきました。隣の女の子は私にしか聞こえない程小さな声で「それ以上続けるとまた言われるよ?やめたら?」と忠告されましたが誰も信用してなかったし、遊んでいる訳ではなく、割り箸と輪ゴムで違うも物を作るという創作をしていたからである。
それを続けていると虐めグループが腹を立てたのか、私の製作途中であったのを取り上げ、バキバキに割り、ゴミ箱に捨てました。私は数日前から作っていてもうすぐ完成しそうだった為凄く悲しくなり涙がでてしまいました。それを見た教師を含めクラスメートのほとんどが大爆笑していました。私は凄い喪失感を覚え気づいたら左手の甲の皮を千切りどんどん深くまで千切っていっていました。まぁ勿論左手は血まみれ、右手親指と人差し指も血まみれです。その日はもう学校に居たくない気分になった為何も言わずに帰りました。
この次の日からも何かあったのですが記憶の欠落部分です。
修学旅行について覚えているのは
行き先は10月の北海道 行き帰りは飛行機で飛行機の窓から富士山が見えていた景色しか覚えていません。
部分的に思い出せたので後書きさせて頂きます。
何日目かの夜にクラスメート全員が大広間に集まり、柔道をしようと誰かが言っていました。
まぁ私は全員から投げられるだけです。やり返した方が面倒くさい事になるのは分かりきっていたのでね・・
修学旅行について思い出せたのは以上です。
はい。ここから大幅に記憶の欠落です。
担任と進学についての面談ですね。
私は学校そのものが嫌いになっていましたし、勉強もろくにしていなかった為私自身は就職を希望していました。
その事を両親に伝えました。
父親が怒鳴りました「今の世の中、中卒で雇う企業なんか数が知れてるわ!そんな場所になんか絶対行かせへん!高校ぐらい行け!」
子供の頃に母親から怒られてから私は両親に逆らえない性格になってしまっていたので進学することにしました。
まぁ私の学力で行ける高校があるのかさえ不思議なぐらいですが・・・笑
後日は三者面談でした。
担任・母親・私の三人です。担任は二つの高校の名を言いました。
ざっくり言うと、普通科の高校の底辺と工科高校の底辺
母親が昔から私が何か作るのが好きだと思っていた為工科高校の方を勧めてきました。
勿論逆らうことなどできず、その高校を受験することにしました。
他にも自分のレベルより高い私学の高校の受験もすることになりました。
個人的に今更勉強したところで何も変わらないだろうと思っていたので、父親には「勉強してくる」と言い部屋でゲームをしていたりしていました。
最初の受験は私学の方でした。
最初は勿論受かるわけないと思っていたので緊張等せず普通に問題を解いていきました。
結果はビックリ合格していました。まぁその学校に入学したところで、自分にはレベルが高すぎるとわかっていたのですが・・・笑
一番気合いを入れたのは工科高校のほうですね。レベル的にも・・・
こっちは私学の時と違って絶対受かってやると意気込んでいました。
何故なら中学校の担任がその高校の受験に関してこれだけは覚えていたほうがいい。と言ってくれてたのでそれだけは一生懸命勉強していたからです。学校内だけで、ですが・・笑
いざ問題を解いていこうとすると基本科目でまともに解けたのは数学だけでした、しかも、担任から教えて頂いてた問題すらちゃんと解けませんでした。
帰り際「これは落ちたな・・・」なんて思いながら帰宅しました。
合格発表がくるまでも虐めに耐え続ける日々です。
いざ合格発表の日です高校に行き受験番号があるか探していきました。
アニメやドラマ等であるような風景ではありませんでした、明らかに不良と思われる連中のたまり場みたいな感じでしたが、気にせず番号確認。
同じ中学から私を虐めてきていたリーダー各の人がいたのでそいつの番号も探していました。私の番号をまず最初に探しなんとありました!落ちていると思っていたので内心高校なんて行く気がしなかったのに心の中では何故かガッツポーズ。
さて問題のもう一人の番号確認。中学の成績ではその人の方が成績が良かったので「俺ですら受かったんだからあいつも受かってるんだろうな・・」と思っていました。
それが何度探しても番号は見つかりません。やりました!これで解放される。と思いここでも心の中ではガッツポーズ。
合格が確認できたので変に絡まれないうちに学校に合格してたことを伝える為そそくさとその場から離れました。
学校に戻り担任に合格だったと報告。それと一生懸命教えてくれていた問題がちゃんと解けなかった悔しさも同時に報告。担任はこう言ってくれました「それについては気にするな、合格したんだから入学してからその教科があるからそれをちゃんと勉強したらいい」と言ってもらいホッとしました。
卒業式まで虐めは続いていましたが、今までよりも楽に過ごせていました。どうせ4月からはこいつらはいないんだし、と
いざ迎えた中学校の卒業式です。
仲良くしれていた友達と写真を撮ったらその友達に何も言わず帰宅
正直あいつらに絡まれたくなかったし。
後から聞いた話ではその友人達は気がついたらいなくなった私を探したりしていたみたいでした。
卒業式の次の日に2年生の時から好きだった子を呼び出し告白しました。まぁ見事に玉砕しました。ですが友達でいてくれる、とのことだったので嬉しかったです。
高校時代
3人ぐらいだったかな・・友達?も受かっていましたが、その人達とは別のクラス
クラスメート全員知らない人でした。私はまた虐められてしまうんじゃないかと不安でいっぱいでした、明らかに不良だろうと思う人も多かったので・・・というか不良の集まりの高校でしたので・・笑
最初の数か月はクラスメートの誰とも喋れず、昼ごはんは友人?達と食べていました。
勉強は勿論数学以外ついていけませんし、授業中寝る癖が治らない。
テストの点数は数学以外赤点でした。
そしてある日クラスメートの一人が声をかけてくれたのです。
そこから話は盛り上がりクラスメートのほとんどと仲良くなれました。その日から昼食は教室で食べる事にしました。
その日から完全に今までが嘘だったんじゃないかと思うぐらいみるみるうちに友達が増えました。ビックリする事も沢山ありました。
ある日の昼休憩中友人の一人が教室まで自分の自転車に乗ってきて皆に言いました「1組まで行ってくるわ!」と私のクラスは8組で1組は一番遠いのです。
その人はまた面白い事に安全の為か、ドア付近に近づくとチャリンチャリンとベルを鳴らしていました。それが聞こえる度に私のクラスでは大爆笑です。
その数分後、またベルの音がしてきました、段々とベルの音が近づいてきていのでクラスメート全員があいつ戻ってきたなとまたも大爆笑。
戻ってきた奴は教室の一番後ろに自転車を置きました。
午後の授業の開始 教師の一言目が「なんで教室に自転車があるねん!誰のや!」と言いました。そりゃそうですよね、教室に自転車って・・・笑
すると本人が手を上げ「あ、それ俺のです。」あっさり普通に言っていたので皆それで大爆笑。教師が言います「なんで自転車がここにあるねん!」まぁごもっとも!不自然すぎますよね。本人が答えました「1組の友達と喋る為に使いましたー1組まで歩いて行って、喋って戻ってくると時間たりひんもん」うん、確かにそうだ遠いし行き帰りの時間を考えると飯食べてから行くと1組に着いたら戻らないといけないぐらいの時間だしな。
再び教師が言います「確かに1組は遠いな!でも自転車を使うなや、廊下で誰かとぶつかったりしたら危ないやろ」いや内心「そこかよ!」と思いました。
本人が言います「あ、安全面にはちゃんと気をつけましたよ!ドアの前ではベル毎回鳴らしてたし」あ、うん確かに鳴らしてたな何度も何度も・・・笑
教師「取り合えず自転車直してこい!あと次やったら生活指導に呼ぶからな」と言われ自転車の持ち主は自転車置き場に戻しに行きました。戻しに行った途端授業スタート
私ですか?そのやりとりを聞き終わったら寝ました(笑)
その後はクラスメートと話す時間も多くなり授業中にも話をしている事もありました。
私が通っていた学校の面白い所は 授業の邪魔にならなければ何をしていても構わない・携帯触るのもOK・ゲームもOK(音を出してはいけない)・飲食OK・寝ていてもOK
正直なんでもありですね。喋るのに関しては小声なら大丈夫です。
遅くなりましたがクラスメートであったり、学年の事を書きますね。
女の子3人他は男 学年での女の子の人数は10数人でした。
まぁ工科高校ですし、以前は男子校だったってことも、理由でしょうね。
そうして3ヵ月程たった時ぐらいですかね、1度フラれたけども忘れられずその子をまた呼び出しました。そして再度告白しました。再度玉砕。そしてその子が「このまま連絡とっていてても○○君(私の名前)の気持ちは変わらないと思うから、もう連絡とるのやめよ」と言って私の事を着信拒否+メールアドレス変更
悲しかったです。2年間片想いしていたので・・・
ある日学校の行事でアサリ狩りに行きました。まぁ皆そんなことは二の次です。
浜辺で遊んでる人がいれば、裸になり泳いだりしてる人もいました。
そんな遊んでる中女の子の一人が男数人に持ち上げられ海に落とされてしまいました。
女の子はすぐに海からでて寒そうにしていました。私は見るに見かね、ドライヤーを持っていた女の子にドライヤーを借り、それで体操服と髪を乾かしてくるよう促しました。
数分後その子が戻ってきましたが、まだ寒そうだったので私は一応持ってきていたジャージの上下をその子に渡し着るように言いました。その子は凄く喜んで着てくれました、ですが、私は男なのでサイズはその子にあっていません。見た目は完全にダボダボ状態でした。ですが、それを着てからは寒そうにしていたのはとまり、私自身ホッとしました。
その後はバレーボールや、ドッヂボール等していたみたいですが、私は参加するのがめんどうだった為観戦だけをしていました。
いざ帰るとなった時ちょっと寒いなと感じました、ですが返してもらうなんて言えるわけありません、女の子に風邪をひかれては可哀そうですし、自分が我慢すればいい。そう思い帰宅しました。
後日その子から洗濯までしてくれたジャージを返してもらいました。今までの経験上そんな事初めてだったので凄く嬉しかったです。人に優しくすると良い事につながるのだな。そのような考えにいきつきました。
大体この時期でしょうか、私は声変わりしました・・
声変わりをした時の地声を聞いた母親の一言がこちらです「あんたの声お父さんの声にそっくりで嫌いやわ!」と言われました。
その日から自分で普段使う声を変える努力が始まりました。
取り合えず、始めたのがどれだけ高い声をだせるか、その高い声を維持できるか、その様な努力をして普段使う声を地声より少し高くしたりして、周りの反応・顔色等を気にし、この声は人に不快な思いをさせているな、この声は人が嫌がってそうだな。顔色や反応でわかるようになってきました。
ここらへんの高さの声だとどうだろうと維持をしていた声を使っていた時にクラスの友人の家で遊ぶ事になり、行きました。その友人と遊んでいると、友人の母親が「〇〇君(私の名前)の声良い声やな」と言って頂けました。私は思いました「この声が人当たりが良い声なんだ、よし、普段からこの声を使おう 勿論家でも使わなければ」と瞬時に考え付きました。
声を変えてから母親の反応は声変わりする以前に戻りました。やはりこの声がいいんだなと思いました。
この難関を乗り越えた私は次の試練に辿り着きました。
そうです。まだフラれた子への想いが残っているのです。ですが、もう叶わぬ恋だとわかっていた為次にいかなければ・感情を変えなければ。そう思いました。
その頃私はやはり不良グループとつるんでしまっていたのですが、見た目はヤンキーな感じでも根は良い人ばかりでした。一人を除いては・・まぁ、その一人と私は仲良くなかったのですが、私と仲良くしてくれている一人と、その一人とは仲が良かったのです。なので、何か言い合いになると仲介役をしてくれて、その場を収めてくれていました。
この頃からでしょうか、ある遊びが流行ったのですが、それはここに記入すると恐らく気分を害する可能性があるので敢えて省きます。その遊びの影響でプールの授業になると痣になっている人もいました。そしてそれに気づいた教師からその遊びをやめる様に言われ、それ以降その遊びはなくなりました。
ストレス発散も兼ねていたその遊びがなくなったので皆次にストレス発散できる遊びを考えていました。その時思いついたのが【肩パン(じゃんけんに勝ったら負けた人の肩を殴る)】という遊びです。これは、片方がもう耐えれなくなったらギブアップ宣言で終了という簡単な勝負です。
この遊びの面白い所が序盤は肩慣らし程度の軽いパンチから入るのが暗黙のルールでした。
そして中盤から少し強めにしていき、後半は全力パンチという簡単な遊びです。まぁ負けが続くと物凄く痛いのですが・・・・私自身も色々な人とこの勝負をしていましたが、負けず嫌いな為、相手がギブアップするまで続けていました。そしてその日がきてしまいました。
仲が良い人からの肩パン勝負を挑まれました。見た目からしたら私の負けは皆分かっているかの反応でしたので、俄然やる気がでたので勝負することにしました。
昼休憩から始まりました。「暗黙のルールなんてなくお互いの全力でいこう。仲良しだからというのを理由に手加減はなしな。」と向こう側からの発言に私は承諾しました。そして始まりました、じゃんけんから、もう気迫たっぷりでした。負けたら殴る為に使う右腕に負担をかけない為に左腕で受ける、相手も私も最初はそうでした。ですが、段々と左腕にも限界がきだし、お互い右腕で受けたり、左腕で受けたりを繰り返していました。昼休憩中では勝敗はつかず、5限目が始まりました。事情を説明をした他の生徒のおかげで、大声をあげないなら続けていいという事になり勝負続行です。お互い正直もう両腕が限界でした。じゃんけんも最初の気迫は無くなり腰らへんで、じゃんけんをするという感じになっていました。その瞬間から勝っても地獄でした。殴った衝撃が腕に響きこちらも痛い、両者が「うがぁ・・・」という謎な状況を見た一人が「何で殴った側も痛がるねん!笑」という発言、私達は「殴っても振動で痛いねん!でもギブアップはせえへんぞ!」と言い続行。徐々に殴る威力も衰えてきていましたが、お互いそれを気にせずギブアップする事なく続けていました。私は「次じゃんけん負けたらもうやばい」と内心思っていましたが相手の表情もその様な感じでした。そして勝負が決まるであろうじゃんけんをしようとしたその瞬間、一人が止めに来ました。見るに見かねたのでしょう。お互いもう腕が上がってなかったのですから・・
そして止めに来たのは、私と仲良くなかった人だったのでビックリしました。
そしてその人はこう言いました「お前達両方何があってもギブアップせんやろ、ここで終わりにしとけ、もう殴ってるというより手をぶつけてるだけになってる。引き分けにしとけ。」
この言葉を聞き私も相手側も納得し、引き分けという形で勝負は終わり、授業に戻りました。そして、皆ここまで私が粘り、相手もギリギリの状態までもっていった事にビックリしたのか拍手する人までいました。
私は自分の席に戻り、その時気づきました。両腕が机まであがりません・・相手をしていた友達の方を見ると向こうもそうでした。そして戦っていた時以上の痛みが襲ってきました。
物凄く痛かったです。友達も苦痛と戦っている表情をしていたので「同じなんだ・・・よかった」と安堵していました。私自身負けるか良くて引き分けだろうと思っていたので、同じレベルだったのかと思い少し自信にも繋がりました。それ以降、私とその友達に挑んでくる人が現れる事はありませんでした。後から聞いてわかったのですが、私に勝負を挑んできた友達はその肩パンで負けなしだったと、それと同等に戦っていた私もそのレベルだと思われていたみたいです。
そして1対1では、私もその友達も誰にも誘われる事もなく、誘っても断られる。というのが続き、私が提案してみました「この肩パン団体でやってみないか?ルール変更で最初から全力・じゃんけんで一人負けしたら全員から1発ずつもらう、逆に一人勝ちしたら全員を1発ずつ殴れる・敗者が複数だった場合や勝者が複数だった場合も1発ずつ殴るというのはどうだろうか?なら俺達がギブアップする可能性上がるだろ?」と言ってみると皆納得し、団体戦のスタートです。あとから思いました。こんな提案するんじゃなかったと。
一人負けした時は地獄でした。片腕では全員分受けきれません・・その友人もそうでした。
しかし、1発の火力に自信がでていた私が勝った時はフルパワーで殴り一人でも少なくしてやろうと考え続けていきました。そしてギブアップ者がどんどん増えていき、やはり私とその友人が残りました。この時点で察しました。お互いまたギブアップする事ないなと。
そして友人から「うん、今回はこうなったけど正直あと数発もらってたら厳しかった、こいつとやってもお互い負けず嫌いやから勝負つかんやろし、今回も引き分けで終わろか」とまさか引き分け宣言をしてくれました。私はもう1発も耐えれないと思っていたので安堵していました。それからも団体戦を何度かし、私が途中でギブアップする事もあれば、友人がギブアップする事もありました。流石に一人負けとかくると厳しすぎます・・・
その様な楽しい遊びもしながら、参加する人のストレス発散にもなるしで、私のクラスでもめごと等滅多にありませんでした。
ですが、私の気がかりだったのはその友人がよく授業をサボってどこかに行く事が多かったので進級できるか心配でした。私と仲が悪かった人もたまにですが、その肩パンに参加していたりしていました。最初は嫌だったのですが、その人からの1発をもらった時に私はその人の強さを認めないと判断しました。そして私の1発をもらったその人も私を認めてくれたのか、それ以降あまり言い合いになったりせず、たまに喋ったりしていました。
そしてある日事件?がおきました。それはいつもと変わらず私が授業中寝ていて、次の授業が体育だった時です。私が起きたら教室に誰もいない、あれ?もう学校終わったのか?と思い時計を見るもまだ昼休憩前の時間でした。そして色々と考えてみると今の時間が体育だと気づきました。ですが、教室の鍵がないので私がでたら鍵を閉めれない。私は体育の授業にでるのを諦め、もう一度寝ました。そして周りがざわめいている煩さで起きました。
昼休憩になっていました。昼ご飯を食べ、何故誰も起こしてくれなかったのか聞いてみました。「体育の時なんで誰も起こしてくれんかったん?しかも鍵なかったし出られへんかったやん」と言いました。すると一人が「いや・・起こしたよ?起こしたらお前「うっさい黙れ!」っつて俺のみぞおち殴ったやん・・あれめちゃくちゃ痛かったねんぞ?」と言われ、そんな記憶がなかったので「あ・・そうやったんや・・ごめん!まじでごめん!」と謝りました。
するとその人が「取り合えず次から誰も起こさへんと思うから、起きた時用に鍵置いて行く事にするから」と言ってくれました。
私は「まじで悪い事したな・・そうしてくれると助かるわ、ありがとう」と言いその場を終わらせました。
この頃はまだ1年生の半ばぐらいだったはずなのですが・・・
ここから記憶がどーんと、飛んでいます。
高校2年生
仲良かった友人は留年になり、自主退学していたみたいです。
私は仮進級という形で補習をちゃんと受ければそのまま進級扱いしてくれる制度で進級できました。
そして二人留年生がいる事、2年のクラスが3年になっても同じというのを知りました。
最初は年上の人がいる環境になれず、話しかけることもできませんでしたが、いろんな授業で話したりして二人共見た目はやばいけど良い人だというのはわかりました。
2年になっても肩パンをしていましたね。
ですがビックリしたのが留年生の一人のパンチ1回でもうギブアップせざる負えない程の痛みを感じました。これを両腕にくらったらやばい・絶対やばいと思いギブアップしました。
そして聞きました「なんでそんな痛いパンチできるんですか?」とすると、その人はこう言いました「お前の事聞いてたからこれに耐えれるか一回せこい事しただけやで、でも痛がるだけでやろうと思ったらまだできたんちゃう?」と言われました。せこい事?何のことだろうと不思議に思い私はすぐに返答しました「せこい事とはなにをしたんですか?あの痛さは両腕交互なら2発が恐らく俺の限界だと思ったので勝てないと判断し、ギブアップしました。なので、そのせこい事とはなにか教えてくれませんか?」本音でした。というか両腕交互に受けても2発目に耐えれるかわかりませんでした。
するとその人が今まで怒っていた様な顔をやめ穏やかな顔に戻り言ってくれました「殴る瞬間に中指を少し前に出す、こんな感じで(実際の殴る瞬間の手を見せてくれました)これを受けれたらお前が今までなんでそんなに勝ってたかわかると思ったからな、実際2回耐えれると今聞いてびっくりしたわ、この殴り方はヤンキー殴りって教わってるから、まじの喧嘩になった時使うといいぞ、後受け方があかんな、その受け方やと限界がすぐくるんちゃうか?だから殴る腕でたまに受けてるんやろ?」ここで私は、ヤンキー殴りというのを初めて知りました。そして聞きました「受け方はどうした方が良いんですか?あと先輩の普通のパンチを全力でお願いします」どれ程違うのか気になりとっさに言ってしまいました。
すると、「取り合えず先に全力で殴るから受け身とれ!」と言われ受け身をとりました。
するとビックリ痛いのは痛いですが、想像していたより痛くありませんでした。
私は聞きました「さっきの殴り方との破壊力の段違い差がわかりました。では受け身を教えてくれませんか?」先輩は痛がってない私を見て笑いながら言ってくれました「受ける腕をもっと体に密着させるだけやで。てかそんなに俺の全力痛くなかったんか、ちょっとショックやな。」と言って下さり、それから仲良くもしてくれました。
それからも肩パンは流行っているまま続けていました。皆楽しみながらも日頃のストレス発散にもなり、教師もその風景を楽しんでいたりしている時期がありました。
そして、修学旅行先を決めるという匿名アンケートがありました。
海外は1つ上の先輩が修学旅行先で問題をおこした為、国内という制限になっていました。
そして最終的に 沖縄・北海道 どちらかという結果になりました。修学旅行が10月だった為、皆北海道には反対していたのですが、何故か北海道になっていました。
そして、いざ修学旅行当日です。皆荷物が多いのです。不思議でしかありませんでした。私は当時PSPのゲームにハマっていた為、必要最低限の物以外それしか持って行きませんでした。
修学旅行初日 飛行機で北海道の札幌までだった為、皆飛行機内では大騒ぎしていました。
私はその様なテンションには参加できなかったので、一人音楽を聴きながら外の風景を見ていました。途中富士山が見えると皆大はしゃぎで写真を撮っていたりしていました。
いざ、札幌に着くと当日のスケジュール通りに、昼ご飯はジンギスカンでした。それも、面白いのが各テーブルに決まった量しかないのですが、私達のグループは一番早く食べ終わり、食べたりないので他のテーブルから少しずつ貰い、また食べ始めました。最終的には一番遅く食べ終わりました。そこから1時間程自由行動があったのでそこで遊べる遊具等で楽しんでいました。射的・パターゴルフ等色々ありました。満喫した私達は次のスケジュール通り移動しました。なんとビックリ10月の北海道の川でラフティングです。それも一緒に乗る人はランダムで決められ、皆ウェットスーツに着替えました。
ラフティング開始です・・・水しぶきが物凄く冷たいというか痛い。そしてわざと水をかけてくる船頭の方に皆腹を立て始めていました。そして、その船頭さんはボートをひっくり返しました。皆冷たいので我先にとボートを元に戻し乗り込みました。そして我々の仕返しの開始でした。船頭さんは一番先に乗っていたので、私ともう一人とで押してもう一度川に落としました。そして上ってくる友人達を助けるフリをしてもう一度川へ落としたり、正直そこからハチャメチャでした。(笑)
そしてラフティングが終わり着替えると寒いのなんの・・・そして泊まる旅館に着き、部屋割りや、その他諸々の話がありました。そして部屋に入ると寒いので勿論皆風呂に早く入りたいので、じゃんけんをする事に勝った人から入るというルールに、そして私は1番だったか2番だったか忘れてしまいましたが、3・4番の人は部屋を出ていき他の部屋でも同様にじゃんけんをしていた様なので、そこに参戦していまいた。
私が風呂からでてくると、3番だった人が温かそうにしていました。聞いた話違う部屋でのじゃんけんで1番を勝ち取ったらしく、私の部屋で4番だった人も他の部屋でのじゃんけんに混ざりそこで1番を勝ち取り部屋に全員揃うのが早かったです。
ここで部屋を見渡し問題を発見しました。ベッドが二つしかないのです。残りの二人は床に布団を敷き寝るという部屋でした。ここでもベッド争いのじゃんけん。私は勝ったので、ベッドで寝る権利を獲得しました。負けた二人は他の部屋に行き、ベッド事情を話じゃんけんに参加したそうです。そして皆戻ってきた時晩御飯の時間になりました。
バイキング形式の晩御飯でしたので、好きな物をお腹一杯になるまで食べました。
お風呂は部屋にもあったのですが、大浴場がある為、皆そっちに入りたいという意見が多く、2部屋グループの順番制になりました。私達のグループは2番目になりました。
そしていざ大浴場へ、思っていたよりも広く凄く綺麗でした。露天風呂もあったのでそっちにも行きました。するとなんと女性側の大浴場の露天風呂との境目の柵が思ったよりも低く何か台になるものがあれば覗けれるぞ!と皆テンションが上がっていました。ですが私は知っていました。女性は男性が入る前に全員浴場を使い、女性側の方には違うグループの男性陣達がいる事を、まぁでも見た後の反応が面白そうだった為、私が露天風呂に浸かりながら今から覗こうとしている人達を観察していました。するとこっそり覗いた一人が見るのをすぐやめ、ゆっくり戻ってきて小声で全員に言いました。「向こう側男達が露天風呂にいるぞ、なんか悪戯してやろうぜ」と私を含め皆その悪戯作戦実行。桶で湯を向こう側に投げまくりました。向こう側からは「あっつ!いきなりなんやねんこんにゃろー」とか聞こえ、露天風呂を堪能した私達はすぐさま露天風呂から浴場に戻りました。するとお湯が飛んでくるのを楽しんで見ていました。向こうは何の反応もないこちら側に飽きたのかお湯を飛ばすのをやめました。そして風呂を堪能した私達は浴場を後にし、次のグループに交代の事と露天風呂で向こう側にいる人達に悪戯してやれと言い、部屋に戻りました。
その日露天風呂では3グループ目からお湯の掛け合いがあったそうです。
そしていざ就寝時間になると、床で寝る二人が言いました。「俺〇〇号室のベッド権とったから向こう行ってくるわ」ともう一人は違う部屋でのベッド権を得たそうです。
最終的に二人部屋となり広く使え、もう一人とは仲が良かったので一緒にゲームをしたりしていました。そして就寝時間になった後外が騒がしかったけど気にせず眠りにつきました。
二日目・・・なにがあったのか・何をしていたのか記憶がありません。
覚えているのは二日目もベッド権を得て部屋で寝ていた事です。
3日目 お土産等を買い、自由行動の時間があったのですが覚えていません・・・
帰りの飛行機の中では、行きとは正反対で皆疲れ果て寝ている人達が多かったです。私もその一人でした。
修学旅行が終わり、普段の学校生活に戻りましたが、一つ問題がおきました。
普段私は穏やかな感じで過ごしていたのですが、ある一人が私に必要以上にからかってきたので私は「もうやめろって、鬱陶しいなー」と何度も言ってたのですが、それでも続けてきたその人に対して私は、イラっとなりそこから記憶が飛びました。ふと我に戻るとビックリでした。ガタイの良い友人3人が私を止めていて、私をからかっていた相手がもう一人の友人に抑えられどんどん離されて行っていました。何があったか分からなかった私は止めてくれていた友人に何があったのか聞きました。すると「お前まじで言ってんの?さっきあいつを殺す様な勢いやったし、俺ら3人で止めても引きずっていっててんで?」という返答でした。後に聞いた事ですが、その時私はその相手を綺麗な一本背負いをし、馬乗りになり物凄い形相でゆっくり首を絞めにかかっていたそうです。それで危険と察知してくれた友人4人が静止してくれたみたいでした。
その後から、あいつを怒らせたらやばい。等と言われ、よそよそしい態度で喋りかけてくる人もいました。
2年の頃の記憶はここまでしかありません。
高校3年生
これもほとんど記憶がありません。
唯一覚えているのは2つ
1つ目は夏休み中に車の免許を親がとれと言い教習所に通わされました。他にも学校で希望者はフォークリフトの講習と小型車両系建設機械運転技能講習・玉掛け技能講習にも行かされました。正直これらは絶対使う事ないなと思っていましたが、反抗できず、講習等を受け免許を取得しました。
2つ目は就職先についてです。これは成績順だった為、私は下から数えた方が早い立ち位置でした。残っていたのが数ヵ所、そしてそこで私はこの会社が良いなと思ったところがあったのですが、そこは先に他の方が受けていた為選ぶことができませんでした。
担任と母親でいろいろ探してくれ1つの会社の面接に行くことになり、面接を受け無事内定を貰いました。
父親から就職祝いとスーツやその他諸々買ってくれたのですが、まぁケチな父親な為全部その店で一番安い物+セール品とか・・・(笑)
その時の私は父親の性格を知っていた為そんなに気にはなりませんでしたが、スーツを1着しか買ってくれなかったのが不思議でしかなりませんでした。
そして高校卒業まで平穏な学校生活でした。
社会進出
初めての会社勤めで初日は凄く緊張しました。当然これを読んで下さっている皆様も分かって頂けると思います。どの様な会社かというと大阪ガスの下請けの会社で、ガス管工事の監督業等が基本的会社の仕事でした。
同期は3人いましたが、皆部署は違う所に配属されました。
私が配属された部署は外管の監督業の部署でした。
入社早々に干されている事に気づいていました。自分のデスクには何もない 誰かに何か出来る事を聞いてもたらい回しにされ、結局何もする事がない1日ばかりでした。
内管監督の部署に配属された同僚も同じ様な感じでしたので、それがきっかけで仲良くなりました。
部署にいてもやる事がないのがわかっているので、二人で倉庫の方に行き、そちらの手伝い等をしていました。倉庫の担当の人達は優しく、色々と教えてくれました。何がどこにあるか、注文書に書かれている物がどの棚にあるのか、棚の番号が注文書にも書かれている事等
そして、いつの間にか私は倉庫の方の仕事ばかりしていました。
入社後3ヵ月が経ったある日、歓迎会をするからと上司に言われ「内心何も教えてくれない部署に歓迎会なんてされても・・・」って思っていました。
歓迎会当日
とある居酒屋を貸し切りにしているのにビックリしたのですが、それよりもびっくりしたのが、上司が私にお酒を注いできた事です。当時の私はまだ19歳でした。
私が「まだ二十歳になっていないのでお酒は・・」と拒むと上司はこう言いました「俺が注いだ酒が飲めんのか?歳とか関係ないわ!」と怒鳴られました。恐怖を感じた私は注がれたお酒を飲むしかその場では考える事ができませんでした。その後は他の方々に注ぎに行き、また注がれ飲む。の繰り返しでした。2時間程の事でしたが、凄く長く感じました。
歓迎会が終わり、皆解散ムードになり3度目のビックリです。その上司がバイクに乗り帰っていったのです。勿論飲んでいたのはアルコールですし、私が知る限り一番飲んでいて、フラフしていました。
私は唖然としていました。そして他の人に聞いてみたところ飲酒運転は毎度の事で止めても無駄だと言われました。
その後も何度も飲み会に誘われ、断れず行ってしまったりの繰り返しでした。
そして入社後4ヵ月程たったある日上司に現場に一緒に来いと言われ、行く事になりました。
季節は真夏で蒸し暑い中、勿論作業服です。正直車から降りた後から汗が止まりませんでした。
そして自分で用意していた飲み物がなくなったので自販機まで買いに行きました。
ここで少し違和感を覚えました。500mlのスポーツドリンクをその場で飲み干したので、あと2本買い現場に戻ろうとしました。戻る最中にも1本ほとんど飲み干している状態でした。現場に戻ると、激しい頭痛とめまいがしてきたので、上司ではなく現場の作業長に相談したところ「日陰で休んでいろ」と言われ少し安心しました。
日陰で数分休んだ頃でしょうか、上司が私の方に来て言いました「何休んでんねん!仕事やろが、ちゃんと働けや!」と言われフラフラしながら現場に戻り、作業の手伝いをしていました。そして作業長が私に「そんなフラフラしてると危ないから休んどけって!」と言って下さり、飲み物を買いに行きまた、買っては飲み干してしまったので、次は3本買って戻りました。そして作業長に言われた通り休んでいたのですが、やはり上司に怒られ、作業に戻り作業長に休めと言われ休み、飲み物を買い、戻って休むの、繰り返す苦痛の時間でした。
途中からスポーツドリンクが売り切れになり、仕方なくお茶を飲んでいました。
その日飲み物だけで4000円ぐらいは使いました。
帰宅後すぐ病院に行き検査をしてもらいました。熱中症だと言われ尿検査からですが、あれだけ飲んでも全く・・・
そして医師からしばらく安静にする事・もう少し遅かったら入院しないといけなかったと言われ、その事を会社に連絡をし、しばらく休暇を貰いました。
その日から食欲は皆無で、そうめんをちょっとだけ食べたり、ヨーグルトだけ食べたりといった生活になりました。
数週間後、医師からもう働いて大丈夫と言われ、その事を会社に連絡をし、次の日から行く事になりました。
職場に戻ると私と一緒の現場に行った上司が私の方にかけより「お前が熱中症になるから俺が課長に怒られたやんけ!」と怒鳴られました。私はこの人の考えはいったいどうなっているんだ?とキョトンとしていました。普通なら心配するのが当たり前じゃないのか?等自分で色々考えてしまいました。
その後その上司から現場に誘われる事はなく、3ヵ月後、正規的に正社員になったにも関わらず依然と変わらない何もない自分のデスク、そして、他の社員の人達からは冷たい目線。
以前より干されている状況になっていました。喋ってくれたのは私より3年前に入社していた先輩の二人だけとなっていました。喋ってくれると言っても「これして」と書類をシュレッダーにかける雑用だけでしたが・・・
やはり私はその場にいるのが辛く倉庫の方で手伝いばかりして過ごしていました。
その様な雑用や倉庫の手伝いをしている期間が2ヵ月程たったある時、私が職場に行きにくくなった事がありました。
ある日5年先輩に珍しく現場に誘われ、行くことに、その現場仕事は案外早く終わり会社に戻ってきたのが16時でした。仕事が終わるのが17時でしたので1時間余っていました。
先輩が私に「これ倉庫の方に持って行って」ととある書類を私に渡し、先輩は職場に戻っていきました。私は言われた通り、その書類を倉庫の方に持って行きました。
倉庫の責任者がその書類を受け取ると、こう言いました「これはここの書類と違って部署に提出する書類やな」と、私は少し困惑してどうしていいのかわからなくなっていました。
倉庫の責任者は私がどうしていいかわからないのかを悟ったのか、こう言って下さいました「多分戻っても仕事ないからここで時間潰せって事と違うかな?やからここでゆっくりしてから書類持って戻ったらいいんとちゃうかな?」という言葉を聞いて私は少し安心しました。そして少し手伝いをしながら休んでいると部署から倉庫に私あてに電話がきたので私が電話にでると先輩は怒った口調で「お前どこにおんねん!」と言ってきました。私の頭の中は ?でいっぱいでした。少し間が空きましたが、私は「〇〇さんが書類を倉庫に持って行ってと言われたので倉庫に持って行ったのですが、この書類は倉庫の方に提出する書類じゃないと言われたので、どうしたらいいかわからなかったので、ここの責任者は遠回しにここで時間潰してから戻ってこいって感じとちゃうかな?と言って下さったので、ここの手伝いをしていました。」と言うと、先輩はすぐに「電話じゃ話にならんから俺が今からそっちに行くから詳しく話せ」と怒鳴り、電話は切れました。
数分後その先輩が倉庫に来て私に向かって「誰がその書類を倉庫に持って行けなんか言ってん!お前も見たらわかるやろが!それはこっちの部署の提出書類やろが!」私は初めて見る書類なので部署に提出する物なのか知りませんでした。当たり前ですよね、今までまともにその部署で仕事を任されていなかったので・・・。
私は先輩に言いました「この書類を部署に提出する物なんて今初めて知りましたし、この様な書類を見るのも初めてです。それについては、今はどうでもいいですが、○○さんが、これを倉庫に持って行ってと、私に言いましたよね?」先輩は「は?俺がいつそんな事言ってん!俺は部署の提出物の所に持って行けって言ったぞ?」それを聞き私はポカーンとなり、よく考えるとこの人から頼まれた事は今まで矛盾してる事が多かったなと、思い出しました。「これしといて」と言われ、その事をしていると「何でそんなんやってんねん!先にこっちやっとけよ!」等色々あったな・・とその時思い出し、つい先輩に私は言ってしまいました。「私はこの耳ではっきり聞きましたよ?この書類を倉庫に持って行って、という言葉を私はそれに従ったまで、ですが、何か間違いがありますか?先輩は今まで私に色々矛盾してる事言ってくるの多かったですよね?これしてと言って、私がそれをしていると、なんでそんかことしてんねん!とか私はこの様な矛盾した事を6~7回は言われていましたけど今回もその矛盾してる事ですよね?間違っていますか?間違っていませんよね?身に覚えありますよね?私はずっと我慢していましたよ?ですが、こんな理不尽な怒り方は流石にもう耐えれません。間違っている事があれば反論して下さって構いませんよ?」
というと先輩は下を向きながら「すまん、俺が悪かった。」と言い、部署に戻っていきました。私は今まで溜まっていた鬱憤が晴れスッキリしました。
そし17時前に部署に戻ると、唯一喋ってきてくれていた先輩がこう言ってきました「お前○○さんに何言ってん、かなり機嫌悪くなってるやんけ!」私はこの言葉を聞き言い返しました「私は言われた事をしただけなのにも関わらず、矛盾している事を言ってきたのでそれを訂正しただけです。」と言いました。するとその先輩は「そんなことないやろ、お前が間違ってただけと違うんとちゃうか?」と言ってきたので私はもうこの人とは話にならないと思い時間を見ると17時を過ぎていたので、先輩に「あ、17時過ぎているので私はこれで帰らせて頂きますね。詳しい話は本人から聞いて倉庫の責任者の方にも聞いた上で私が間違っていると思うならまた言って下さい。ではお先に失礼します。」と言い帰りました。
ですが、その次の日の朝 いつもよりまして社員の私に対しての目線は冷たくなっていました。周りからは「新人の○○君、○○さんの事嘘ついてまででも反論して怒らせたみたいやで」と小声で話しているのが聞こえてきました。私はその場にいたくなかったので同僚を倉庫に行こうと誘い倉庫に行き、倉庫の責任者と同僚に部署で聞こえた事、今まであった事を言いました。すると皆私を慰めてくれたのでその時は凄く助かりました。
ですが、次の日から仕事に行けなくなりました。
それが一週間ぐらい続き、会社の責任者から電話があり一度会社に来いとの連絡でした。
次の日に会社に行きました。
そして総務の方に呼ばれ次の様な事を言われました「○○高校に久しぶりに求人出して採用した人間がこんな適当な奴やったとか、やっぱりあの高校はあかんな、次から求人出さないでおくし、君はもう退社して」と発言。
私は反論しました「求人とは働く人が足りないから出したものですよね?新人に何も教えない会社だと知っていたら私はここにきませんでした。学校に求人をもうださない?そうした方がいいでしょうね、どんどんこの会社の評判落ちますからね。新人教育ができない会社だと私から高校の方に連絡させて頂きます。別に退社扱いして下さって構いませんよ?あ、あと会社のHP去年から全然更新していませんよね?その時点で適当な会社であると私は認識していますが、間違っていますか?」もう辞める気だったので言いたい事を言ってしまいました・・・
総務の方は反論できなかったのか「取り合えず今月中に退社届出してな、今日はもう帰っていいよ」と言い追い払われました。
案外あっけなかったので部署に戻り私物を鞄に入れ帰りました。
数日後 会社に行き退社届を出して、倉庫の方々に今まで御世話になっていたのでお礼を言いに向かいました。一通り言った後、少し雑談していました。(この時に部署の人の連絡先全て消していました)すると、私の携帯に電話がきました。電話帳に登録されてない電話番号でしたので「もしもし」とだけ言うと相手は「お前今どこにおんねん!」怒鳴ってくる聞いた覚えのある声でしたが誰かわからなかったので「誰ですか?しかもどこにいるとかあなたには関係なくないですか?知らない人にそんな事言われて答える人いるとでも思っているのですか?」と答えました。すると相手は「〇〇じゃ!(私を熱中症になっても働かせてた人物)番号消したんか?あ?」どうやら相当怒っているみたいです。私はもうこの会社の人と関わりたくなかったので「もう辞めた会社の人の連絡先消して何か悪いのですか?もう関わることない、関わりたくないから消しただけですし、どこにいるか教えるつもりもありません。」この時の私はやけに冷静になっていました。すると電話が切れ、倉庫の方に電話があり、私が倉庫にいるかどうかの確認だったそうですが、責任者の方が、ここにはいない と気をきかせてくれました。そして倉庫の方々は私に言いました。「お前連絡先消すの早すぎやろ(爆笑)○○さんめっちゃ怒ってたで」と笑いながら言ってきました。
私は「さっき言った通りこの会社の人とはもう関わりたくないので、あと私がここに長いすると○○さん達(倉庫担当の人達に向けて)も怒られてしまいそうなので、私はもう帰りますね。短い間でしたが、今までありがとうございました。」と礼をし、帰りました。
倉庫担当の人達は会社の門前まで見送って下さいました。正直この会社にこんな事をしてくれる人なんていない。と思い込んでいましたので、少し嬉し涙がでました。
1ヵ月のブランクの後 母親に「ここのアルバイトはどうや?」と、タウンワークのページを開き渡してきました。そこにはある車関係の職場の求人でした。車の事に興味が全然なかったのですが、面接に行きました。面接は無事合格を頂き、働き始めることになりました。
ピット内作業だった為お客様への接客は入りたてなのであまりせず、作業の補助等から入り、徐々に教えてくれていたので、凄く嬉しく感じました。その後、洗車作業・オイル交換・バッテリー交換・ブレーキランプ等の交換等できるようになりました。しかし、同時期に入った二人は車の事が好きで私より遥かに覚えが早く、先輩達からも信頼されていました。
それを知り私は以前働いていた職場のフラッシュバックが起きたりし、頭が真っ白になったりして、普段ならしないミスをしてしまい怒られる日々が続いてしまいました。
働き始めて5カ月程たったある日。私は寝坊をしてしまい4時間遅刻してしまいました。勿論迷惑をかけてしまった人達に謝り、上司にも謝りました。
それからでしょうか、段々と周りが私を嫌っている様に感じるという考えがでてきていました。教えてもらっていないことを押し付けてきたり、何もないのに怒鳴られたり。
段々と自分が悪いんだ・自分のせいだと決めつける日々が続いていました。
そしてある日他の人達を見返してやろう!という気持ちが湧いてきました。そして毎日出勤する時に使うエレベーター内に誰が何をどれぐらい売り上げに貢献したかというグラフがある事にその時気づきました。私は「これだ!」と思い、それからは他の人を出し抜いてでも売り上げのグラフを自分が担当しているピット内の1位を取ってやろうと思いました。
そして、積極的にお客様へ接客し、他の人達が使っている言葉等を自分流に置き換え、お客様と話す機会を増やしていきました。すると、ますます売り上げ貢献のグラフに私の名前の欄に1つまた1つと増えていきました。そして念願であった私が担当しているピット内で売り上げ1位という結果がでました。
しかし、それも長く続きませんでした。それに腹を立てた先輩が、私が接客していたお客様に横入し、他の事に関しても詳しく説明し、他の売り上げもとり、私がおすすめしていた商品の売り上げもその人が売り上げた事になってしまうといのが続きました。
するとやはり私が接客したお客様の人数は減り、売り上げも減っていきました。
1位を取った2週間後にはまた最下位に戻っていました。するとピット長から「あれだけ売り上げ取れてたのに最近減ってるやんけ!1位取ったからって調子乗って接客サボったんか?それともサボっても1位取れるとでも思ってるんか?」等怒り口調で罵声を浴びせられました。私は「いえ、接客は以前と変わらずちゃんとしていますが、先輩方が私が接客していたお客様に対し、横入し、他の事に関しても説明し、他の売り上げ・私が勧誘していた物の売り上げ等を取られています。グラフを見れば分かると思いますが以前までそれ程売り上げ貢献できていなかった先輩が明らかに増えているので分かると思いますが。」と言いました。するとピット長は「こいつはそんな事するわけないやろ!自分が落ちて他が上がったらそいつのせいにでもお前はするんか?」と批判的な言葉を受けました。内心良い人だと思っていたピット長は私にとっては他の人達と同じに見えたので「分かりました。では今週また1位に戻ります。戻らなければクビにしてくれて構いません。というかあなた方は私が気に食わないのですよね?喋り方・対応等が以前と正反対なので分かりますよ。では失礼します。」と言いその場を後にしました。
それからは勧誘しているお客様に先輩が横入りをしてきても接客を続け、先輩を押しのけ売り上げ等していました。すると先輩達は私がお客様に接する事が出来ない様に仕向けいつの間にか接客する機会がなくなっていました。
そしてある日、私がいつも通り作業をしていると先輩が「○○の車の事しといて。」と言ってきたのでその作業注文書を見ると私がやったこともなく、教わってもない事だったので、私は先輩に言いました「この作業した事もなければ、教わってもいないのでやり方がわからないのですが、どうしたらいいのですか?」と言うと先輩は「あ?こんな事も出来んのかよ!もういいわ!これは俺がやるから向こうやれ」と言ってきたので言われた作業の方にいっても同じ内容の作業注文書・・・私は再度先輩に言いました「こちらも同じ作業なのでやり方を教えて頂ければできると思うのですが、どうすればよろしいですか?」と言いました。するとその先輩は「あれもできん!これもできん!お前今まで何教わってきてん!そんなんもっと前に教えてるやつやろが!簡単なんばっかり選んで作業しとったんかお前は!」と言われ私は矛盾しているのでついカッとなり怒鳴ってしまっていたようです。
これから書く文章は私自身覚えていなく同僚がその時は私が言っていた事を覚えていたからです。私「さっきから聞いとけば何言ってんねんお前!入るのが1カ月しか変わらんのにそんなに先輩面したいんか?俺は今まで教わった事全てメモ取ってるぞ?どこ見返してもそんな作業のメモもないし、した記憶も教えてもらった記憶もないぞ?それとも他の人と間違ってんちゃうんけ?こっちが下にでてたらいい気になりよって今までお前が俺に対して何回矛盾してる事言ったか覚えてるか?少なくとも5回以上は言ってるぞ?この作業はこうするねんでとか言ったやり方は違ってたりしてたし、お前は俺に何がしたいわけ?売り上げ負けてるから八つ当たりか?そうやろうなー俺がまともに売り上げ貢献しだしてから最下位やったもんなー、んで俺が他の先輩に客とられた時にギリギリ最下位免れたぐらいやもんな、んでまた俺の売り上げ上がってきて危機感感じてるんやろ?」等と言っていたみたいです。敬語なんて一切なかったみたいで気づいた時にはその先輩が私に殴りにかかろうとしていました。それは流石に危ないと思ったのか、他の先輩達が止めに入りその人とはそれ以降話す事はありませんでしたが、嫌がらせは終わりませんでした。
やり方のわからない作業注文書を俺に突き付けてきたり、私が掃除当番の日には、わざとオイルをこぼして掃除が大変にしたり。正直もうこの段階で相当精神的にきていました。
そして売り上げの順位が出たのですが、私は再度1位に戻っていました。
ピット長は「お前が言ってた事は正しかったんかもしれんけど先輩が接客しようとしたのを押しのけて接客してたそうやんか、そんなんで1位取れて嬉しいんか?先輩に申し訳ないと思わんのか?」等の意見の押し付けをしてきました。色々あり精神的にきていた私はその次の日から職場に行けなくなりました。
職場から電話がきても無視をしたり、電源をきっていたりして自然と電話がくることがなくなるまでそういった対応をしていました。
この職場で働けた期間が最初に入社したところと同じく半年だけしか続きませんでした。
1ヵ月程働けない期間が続き、タウンワークの求人票である居酒屋の新オープンの求人を見つけました。新オープンなら以前の様な事はないであろうと思い、面接を受ける事にしました。 面接時に担当をして下さった店長が「社員で働く気はありますか?」と聞いてきたので少しビックリしましたが、私は「はい、社員であればそちらの方がいいです。」と、その時は軽率に答えてしまいました。(この判断が後に最悪な結果になるとは思いもよりませんでした。)
私の返答に店長は「ハローワークに求人だしてるから、今から行って申し込んできて」と言われ、少し疑問に思いましたがハローワークに行き、その居酒屋の求人に申し込みをしました。用紙を貰い再度面接を受けた居酒屋に戻り再度面接をしました。
ハローワークに記載されていた項目は以下の文章でした。
・勤務時間:17時~2時 休憩時間1時間
・週休二日制
等といった普通の内容でした。
働き始めの初日は15時から来てくれとのことでしたので時間通り行きました。
そして開店前の準備・清掃・等雑務から始まりました。ここまでは一般的な範囲でしたので、先日まであった私の疑問はただの思い込みかな?という感情に変わっていました。
そして開店してからはキャベツ切り・ソースの補充・空いた席の清掃等を続けていました。
ふと思ったのは私以外明らかに新人ではありませんでした。その疑問を抱きながら働いていまいた。客足が落ち着いてくると休憩をとらせて下さりました。しかし15分で戻ってこいとのこと。御飯も落ち着いて食べれる時間ではなかったので、すぐ食べて戻りました。
その後は休憩はなく、深夜2時になり閉店。これで帰れると思ったのですが、まぁ普通に閉店後の清掃・洗い物等を頼まれました。他の従業員は休憩をとっていたり食事をとっていたりしました。初日働き終わったのは深夜3時半頃でした。
翌日も開始時間は同じ15時からでした。働いた内容・休憩時間・勤務終了時間も同じでした。
帰る前に店長に「今週は忙しいから毎日この時間から出勤して」と言われ、ここで疑問が確信に変わりました。私は初日・二日目の勤務時間・休憩時間・勤務終了時間をメモに取っていきました。
3日目も同じ勤務時間・休憩時間 この日は常連さんが来ていたみたいで、店長に呼び出され、常連さんに店長がこう言いました。「こいつ職安からきたやつやから、こき使っていいで」と言われ、私の心の中では「は?」となっていました。
この日から分かったのですが、店長は毎日お酒を飲みながら仕事をしていました。
酔っている店長が私に向かってこう言いました「お前は笑顔がなってない、客仕事やねんからちゃんと笑顔作れ!」と怒鳴られました。私は当時笑顔が苦手でしたが頑張って笑顔を作って「こんな感じでいいですか?」と聞いてみると「何馬鹿にしてるような顔してんねん!そんなんやったら普通の表情でいいわ!」と再度怒鳴られました。私の心の中でのツッコミ「普通の表情でいいんかーい!」
その日は他にも色々あったはずなのですが、記憶の欠落
4日目以降は精神的にきて出勤できなくなり、そのまま退社扱いされました。
勿論3日分の給料は貰えず・・・
労働省に言おうと思いましたが、その様な行動にでる元気もありませんでした。
その後からは日雇いの派遣で働いていました。
主に倉庫内でのピッキング作業の現場に行っていました。
何度か引っ越しの手伝いの現場へ行ってほしいという電話があったのですが、断っていました。
しかし、元気も取り戻せてきだしたので給料も他の現場よりもよかったので1度行ってみる事にしました。
ここでこの派遣会社が相当ブラックだと思い知らされました。
まず1つ勤務時間・休憩時間の違い 残業無しのはずが2時間残業
他の派遣会社から来ていた人との時給の激しさ
けれどその日は頑張って働きちゃんと残業代もでたので良かったのかなと思っていました。
次の日働いている派遣会社の評判をネットで調べてみた所、でてくる、でてくる口コミの多さ ほとんどの内容がピンハネが多い・勤務時間の違い・休憩時間の違い
しかし他に働く場所もなかったのでそこでの日雇い派遣を続けていました。
23歳の春からその派遣にも行けなくなり引き篭もりがちになってしまっていたので、私は母親に相談し心療内科に行きました。
その心療内科の受付の予約はできず、来た人順でした。待合室も広くはなく落ち着くことはできませんでした。
初診日 自分が現在どの様な事に困っているか等を聞かれるだけで、社会不安障害・強迫性障害という診断が下りました。話だけで診断を出すのに少し疑問を覚えましたが、自分の身にこの様な事がおきていたんだ、と思うと肩の荷が少し軽くなりました。薬も処方され、その日から処方された薬を飲んで過ごしていましたが、やはり働けない。
その状況を知った姉は彼氏と同棲しているのですが、ちょっと住んでいる環境変えるのも良いだろうということで、私を姉が住んでいる家に泊まるのを進めてきました。
私は少し悩みましたが行く事にしました。
姉・姉の彼氏とも働いているので平日は私だけが家にいるという状態でした。
一人の時は掃除をしたり、PCでゲームをしていたりして過ごしていました。
夜は洗い物等の基本的雑務をしていました。
土日は、姉・姉の彼氏二人とも休みの為、洗い物1週間分の食料の買い物の手伝い等。
連休があれば遊びに行くのに連れて行ってもらい楽しい日々でした。すると今まで働けないと思い込んでいたのが少し晴れてきました。
そして姉の家に住まわせてもらって2ヵ月程経ったある日、母からメールがきました。
「今月中にそっちでバイト見つからなかったら帰ってきなさい。あまり長い間いると迷惑やで。」といった内容でした。
姉に相談すると「焦って探さないでいいよ、自分のペースでいいねんで。」と優しい言葉をくれました。しかし、自分の中では母親からの言葉の方が重く捉えてしまい、早く探さなくちゃ、と思い、タウンワークを探しに行き何か自分でもできる仕事はないか、すぐ探し始めました。そして一つ気になった職場がありました。そこはプラスチック製品の加工をする職場でした。私はすぐに電話をし、面接の日が決まりました。電話をした後すぐに履歴書も書きました。
面接当日 その会社の社長室が見える所での面接でかなり緊張していました。
面接をして下さったのは社長の奥さんでした。最初私は自分の精神疾患を隠して働こうと思っていたのですが、診察の日が2週間に1度月曜日だった為、私は面接時「2週間に1回月曜日休ませて頂けませんか?」と質問しました。面接をして下さっている社長の奥さんはこう質問してきました「それは病院?」優しく聞いてくる感じでしたので「・・・はい」と答えました。すると社長の奥さんは「言いにくかったら別に言わなくてもいいけど、それは精神系なのかな?でもこの質問は面接に関係ないから普通に言えるなら、言える範囲で言ってくれたらいいから。」と言って下さったので、私は診断が下りている精神疾患の事・病院に通っている事・住んでいる場所は居候させてもらっている事全て言いました。
すると社長の奥さんは「そっかそっか、辛かったやろうなぁ、でもここはそんな偏見持った人もいないし、精神疾患が原因で入院していた人もいるということを教えて下さりました。
そして2日後からそこで働かせて頂くことになりました。
私はバイトが決まった事をすぐに母に連絡しました。
姉には仕事が終わってから言いました。
いざ初日がきました。新人は私以外にもう一人いました。初日はもう一人の新人と簡単な作業を1日しました。職場の人も良い人ばかりで皆仲が良く休憩時間は楽しく喋っていました。私は上手い事話に参加ができず、あまり話せないまま初日が終わりました。
ここで社長の奥さんが会長と呼ばれている事を知りました。帰る前に会長に呼ばれ、私の事(精神疾患の事)を先輩達だけに言っておいていいかと聞かれました。私はこの職場なら大丈夫だと思い「はい、大丈夫です。」と答えました。
もう一人の新人が帰ってから会長は先輩達を呼び私の事を説明してくれました。
するとビックリしました。皆「そんな事気にせんでもいいのにー」「普通に言ってくれたらよかったのに」等言って下さり、今までこんな良い職場に巡り会えた事がなかったので涙がでてきてしまいました。皆「なんで泣く!?」みたいな感じで心配して下さっていたので、私はこれまで働いて辛い思いをした事を全て言いました。
すると先輩達は「ここは皆仲良いからそんなこと絶対ないから安心していいよ!逆に歓迎してるから!」と言ってもらい凄く安堵しました。
そして普通に働ける日々が続いていたのですが、姉の彼氏にふとした一言で怒らせてしまい、ここで姉から3日間帰ってくれと言われ実家に帰りました。
実家に帰り、母に何故怒られたのかわからなかったので相談しました。すると「長い間おるから多分色々な事が積み重なって怒ってしまったんと違うかな?」と言われました。
3日後姉の家の方に戻っていいかと聞くと、「もう実家からバイト行って」と冷たく言われました。自分自身色々迷惑をかけていたのはわかっていたので実家からバイト先まで行く事にしました。
その事を職場の人達に言うと皆「そんな事で普通怒らへんで!逆に私らが怒りに行ってあげよか!」等と励まして下さりました。
実家から通い始めて1ヵ月後ぐらいでしょうか、雨の日だったからか電車はいつも以上に混んでいました。ここで私は過呼吸になり会社の最寄り駅まではギリギリ行けたのですが、駅から動けなくなってしまい会社に電話しました。すると社長が迎えに行くと会長が言って下さり、私は座れる場所で座り込み社長を待っていました。数十分後社長が来て下さり会社まで送ってくれましたが気分はもう最悪でした。顔色が悪い事に皆心配して下さり、会長は社長がいつも会社に泊まり込みで働いている時に使っている寝袋をだし「少し寝て休み」と優しい言葉を下さりました。私は御言葉に甘えて少し休ませてもらいました。
昼食前に起き、まだ気分が悪いままだったので会長に相談しました。
すると、「今日はもう帰って家で休んでまた明日おいで」とまた優しい言葉を頂きました。
先輩達も心配してくれました。内心少し安心し、気分が悪いまま帰り家で休息をしてその日は終わり、次の日にはいつも通り普通な感じでしたので、いつもの様に電車で会社の最寄り駅まで行こうとしていました。しかし電車が出発してすぐまた過呼吸になりましたが頑張って最寄り駅まで行きました。また会長に電話をし、事情を説明しました。すると姉の家で休憩できるか確認してみてと言われたので、すぐ姉に電話をして事情を説明し、休ませてもらえないかと聞くと「いいよ」と言ってくれたので会長にもう一度電話して姉の家で休憩して、昼から会社に行く事になりました。しかし昼になっても気分が悪いまま・・・
会長に電話をして帰る事に。
この様になってから診察の日まで仕事に行けなくなってしまい、主治医に相談
するとここでパニック障害がでているという事を知らされました。薬も新しいのを処方され、これで様子をみようということになりましたが、その後も会社に行けない日々。
こうなってから姉は何度か私が乗る電車に付き添ってくれましたが、改善されず・・・
会長に事情をちゃんと説明をすると「頑張って来てくれ様としてくれてるのは凄く嬉しいねんけど、もう職場の人にも迷惑かかるし、治ったらまた歓迎するからちゃんと治しておいで」と遠回しにクビということになりました。
この事を母に相談したら「朝の通勤ラッシュをそらしてちゃんとお詫びしにいってから辞めなさい。」と言われ、会長に電話をし、今まで御世話になっていたし、少し話せる時間があるか確認しました。
すると数日後ならいいということでしたので、昼に向かう事を言いました。
軽い手土産を買い、私は頑張って向かいました。
約束より2時間程前に最寄り駅に行き、カフェで少し休憩してから向かいました。
やっとの思いで職場に到達。
職場の先輩達は凄く心配して下さっていて 顔色・やつれて痩せてしまっている事にすぐに気づき物凄く心配して下さりました。
そして会長と話をし、今まで御世話になっていていたので、と手土産を出すと
「そんなことやろうと思っていたよ・・・そんな事の為に無理してきたんとちゃう?」と涙ながら言ってきてくれました。バレバレだったみたいです。
色々話をし「治ってまた働ける自信がついたらまたおいでね」と優しい言葉を貰いました。
他の先輩達も「戻ってくるの、待っているね」等言って下さり凄く嬉しくなり、こんなにも良い職場に巡り合えたのになんでこんな事になったのかと自分を責める毎日が始まりました。
それから半年後ぐらいに姉から連絡があり、実家の近くでそういった精神疾患者のサポートをしている場所があるということを教えてくれ、一緒に向かう事になりました。
ここで初めて気づきました。初対面の人と話すと言葉がカタコトになったり言葉がでてこなくなったりしてしまうことに・・・
そして支援施設の利用が始まりました。
最初はすぐにまた働けるだろうと思っていたのですが、人と関わるだけで 凄い吐き気・気分の悪さ がでることに気づいていきました。
利用してから半年後利用期間が終了してしまい、今後どうするか面談が入りました。
結果は継続不可と判断去れ、その上の階でデイケアがあるのを教えて頂きました。
後日電話をし、確認したらデイケア利用可能だったので、セカンドオピニオンも兼ねて行く事にしました。するとそれまで通っていた心療内科とは全く違いました。
もう待合室が人の密集ではないのですぐ安心感がでてきました、
初診当日
まず軽い心理テストを受けて診察に。
そこで初めてうつ病の診断ました。その後デイケアにも通う様になりました。
それをきっかけに主治医も代えて頂く事にしました。
以前行っていた病院と違い、心理テストもして頂き自分のIQを知る事もでき、自分が苦手な事・得意な事 も知る事ができました。
最初デイケアは、週に1回しか行く事ができませんでしたが、何度も行くにつれ段々慣れていき今では毎日行けるようになりました。
環境が変わったり、人数の多さ等でその日家に帰ってから疲れがドッとくる事もあります。
しかし今ではデイケアが自分自身一番落ち着く場所になっています。
デイケアに通い始めて半年程たった頃でしょうか、近所の祭りに出店する事を知りました。
最初は他人と関わるのが怖かったので裏方にまわろうと思っていましたが、仲良くしてくれている人が皆接客の方に行っていたので、私も接客の方に行こうと思いました。
祭りが始まってすぐ、売れ行きは好調でかなり忙しかったです。
ですが途中から一番人気だった焼きそばの麺が無くなってしまい、買い出しにスタッフさんが行っていました。店に残っているのは瓶のラムネです。これが案外売れなく、皆声を上げて宣伝していました。仲良くしてくれている1人が私にもするようにと言ってきました。
最初は緊張して全然声がでなかったのですが、これも慣れか、近くに信用できる人がいるからでしょうか、途中からは普通に大声で宣伝できていました。
最終的に完売までいき皆喜んでいました。
しかし、終わってから皆疲れがでていたのでしょう、かなりテンションが変わっていました。
その後はイベントで某遊園地に行ったり、農地でできたサツマイモ堀り+バーベキューをしたり、奈良まで行き紅葉を見たり、鹿を見たりしています。
私自身以前より自分に自信がついてきて現在では就労移行サービスを週3日通いながらデイケアにも行ったりしています。
ここまで色々な事を書きましたが、私自身で体験した事・現在の事であったりします。
しかしこうなったから言える事があります。
落ちたら終わりではありません。這い上がる事ができます。
それまで見えていなかった世界が見えたり、考え方も変わったりします。
それは決して悪い事ではありません。
人は皆失敗をして成長していくのです。偉大な発明者達も失敗があり、今まで語り継がれている成功を発見する事ができています。
この事を知ってからは私自身の考え方も変わりました。
できるだけ失敗はしない。しかし失敗は決してダメではないと。失敗したら次はどうすれば失敗しないのか、そういった考えに導く事が大事であるからです。
今でも私自身が本当に自分なのか疑問に思う時は多々ありますが、言える事はこの文章を書きあげたのは私自身・私本人である。
書いている間不思議と不安感等忘れ集中して書いています。
過去の自分と向き合うというのは怖いかもしれませんが、過去の自分があってからこそ現在の自分がいるという事を色々な方に知って頂きたく書き上げたとも言えます。
今回のこの文章を書いていると不思議な事に色々な人の助けになりたい。一人でも多くの人の助けになりたいという気持ちもでてきました。
これはただの偽善・自己満足と捉える方も少なからずいるかもしれませんが私は今後の事をしっかり考え、どうすれば助けになれるのかどうすれば救えるのか考えました。
ですがそれに辿り着くかどうかさえ分かりません。しかし、勉強をし、頑張っていこう。
という気持ちの方が強まりました。
険しい道というのは分かっていますが、次は諦めず最後まで悔いの無い様に勉強し、資格までとれるまで頑張りたいと思います。
諦めも肝心 という言葉をよく聞きますが、諦めないで頑張った先には未来がある。
この事も分かって頂きたいです。
最後に読んで下さっている皆様に伝えたい・届けたい気持ちを文章にしたいと思います。
これを読んで気分を悪くした人がいるかもしれません。過去を思い出し辛くなった人もいるかもしれません。しかしいつかはその事と向き合って過去の自分に勝たなければそれより前に進む事が出来ない事もあります。
進む速さには個人差が勿論あります。遅くたっていいのです。それがあなたなのですから。
頑張る気持ち・プラス思考に変える・マイナス思考にならない
これは非常に大事な事だと私自身が体験して得た重要だと思える3つをあげてみました。
他にも大事だと思う事は沢山あります。ですが、それは私自身だけなのかもしれません。
ただ言えるのは、この3つは恐らく誰にでも良い思考に持っていけると思ったのであげさせて頂きました。
私はいつもこう思います。高校時代に戻れるのなら、ちゃんと勉強して大学まで行っておけばよかった。と、何故この様な考えになるかというと大学となると、少なからず他の県の人がいるかもしれません。それまで自分が体験したこともなかった世界を知る良い場所になるかもしれません。そして高校では学べなかった事も多く学ぶ事ができますし、交友関係も増えるかもしれません。
結果論として、私は現状こうなってから逆に交友関係が増えたのも事実です。それまでの平凡な生活より今の方が良いと思えるぐらい自分の見える視野が広まったとも思えています。
行動に移そう・頑張ろう・先に進んでみよう
これらの思考にいくのに不安や恐怖を感じるかもしれませんが、世界は認めてくれる人もちゃんといます。自分だけなんで・・・と思ってしまっているかもしれない人がいるかもしれませんが、同じ様な境遇、もしくはそれ以上の事を経験しても社会で頑張っている人もちゃんといます。
なので、諦めず先に進むという考えを持って頂きたい。
その考えを否定する人もいるかもしれませんが、自分が導き出した答えに自信を持って欲しい。しかし法に反する行為はいけません。
そしてもし落ち込む事があった場合は何故そうなったか、という事を一度振り返ってみてはいかがでしょうか?
冷静になってから考えてみると、そんなに落ち込む事ではない。という事も沢山あると思います。では何故その時落ち込んでしまったかと思うと思います。
それは心理的に負の思考が働いてしまっているからです。落ち込むのが悪くありません。
落ち込みすぎるのが良くないのです。
1度きりの人生なのです。楽しんでいきましょう。
他人の目が気になる方もいるかもしれません。しかし、実際はどうでしょう?
他人は何気なく違う方向を見ただけかもしれません。
では何故気になってしまうのかという結論に至ると思います。
それは心理的に負の感情が勝ってしまっているからなのです。
私自身まだこれに困っているのが現状ですが、打開策があるはずなのです。
自分なりにこうしたらあまり気にならない。という結果を導き出している人もいると思いますが、その人のやり方が自分には向いていないという事もあります。
では結果を導き出した人みたく、私も、困っている人も自分なりの方法を見つけ出そうじゃありませんか。
見つけ出すまでは時間がかかるかもしれません。
しかし見つけ出せれば気が楽になるはずです。
この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。
これはかの有名な[一休]の名言です。
凄く良い事だと私は思います。踏み出す1歩が重要と伝えてくれているのです。
では最後に私はこれから社会復帰に向けて頑張っていきます。
躊躇ってしまっている方が読んでくださっているのならば頑張って最初の1歩を踏み出して下さい。
私自身社会復帰を目指し現在は少し無理をしている状態ですが、たまには休養も大事です。
睡眠とは心身の疲れ・肉体の疲れからくるものであり、眠れる時に寝るべきだと私は思います。
今は辛いかもしれません、しかし、落ちたら残りは駆け上るだけなのです。
険しい道だと思いますが私はこれから、少しでも多くの人を助けたく、弁護士免許を取得する為に勉強していきたいと思っています。