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趙飛燕  作者: しのぶ
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後編

合徳は、皇帝の寵愛をつなぎ止めるための一環として、道士を呼んで房中術(性交の技法)を習って来た。合徳は言った。


「この房中術は、精を戻して脳を養う技で、これを実践すればいつまでも老いることなく、若さを保てるのですよ。これこそ、玄女(げんにょ)素女(そにょ)が黄帝に伝えたという秘伝の技ですわ」


「ほう、それは良いな。それでは早速、我らで試してみようではないか」


というわけで、皇帝はますます合徳にのめり込み、他の女のことも、政治のことも気にかけなくなっていった。合徳は豊満な体型をしていたので、皇帝は合徳を「温柔郷」と名付け、「私は、この郷で生涯を終えたいものだ」と言っていたのであった。


またそうするうちに、皇帝は再び飛燕のもとにもやって来るようになった。飛燕は言った。


「あら陛下、久しいですわね。なぜ私なんかのところに?」


「なぜはないだろう。お前は皇后ではないか。実は、合徳のもとで房中術を習ってきてな」


「はあ」


「お前は行気(呼吸法)に優れているようだから、房中術にも素質があるだろうと思ってな。さあ、試してみようではないか」


「そう、ですか…」


かくして、皇帝は専ら合徳のもとに通い、時には飛燕のもとにも通ったが、とうとう二人とも、子供ができることは無かったのだった。

そこで飛燕は次善の策として、養子を取ることにした。皇帝の甥に劉欣という者がいたが、あまり注目されていなかったこの男を、飛燕と皇帝は養子に迎えた。

これで、劉欣が皇帝の後を継げば、飛燕は太后の位を得られる。実の親子でないのは心残りだが、この際選り好みはしていられない。


だがそれだけでは危ういかも知れないので、飛燕は、王太后を始め王氏一族との関係を改善しようと思った。王太后は皇帝の母親であることもあって、王氏一族は政治の要職に多く就いており、宮廷での影響力は大きかった。だが、王氏一族は、趙姉妹のことを快く思ってはいなかったのだ。


その関係改善の糸口として、飛燕が目をつけたのは王莽(おうもう)であった。王莽は王氏一族ではあるが、一族のつてで出世したわけではない。

彼はもとは貧しい生活をしていたのだが、学問を修めることで頭角を表し、今では皇族の教育係にまでなっていた。王莽は特に儒学に優れていた。

飛燕が王莽を部屋に呼ぶと、王莽はやって来たが、飛燕は昼間から酒を飲んでいた。王莽は眉をひそめるが、何も言わない。飛燕は言った。


「ねえ、王莽さん。儒教では人の和が大切だって言うじゃないかい。でも、いまの宮廷は、どうも人の和が足りないと思うんだよね。私は、王氏一族と仲良くやっていきたいんだよ」


「左様でございますか」


「王莽さん、あんたは若い頃から学問ばかりやって来たから、息抜きが足りないんじゃないのかい?だが、この後宮には女がいくらでもいる。陛下から目もかけてもらえない女達がね。どうだい、あんたさえその気なら、女ならいくらでも紹介するよ」


「何てことを仰います。後宮の女たちは、皆陛下のものです。それを掠め取ることなどできるはずがありません。皇后、あなたは陛下の家庭を預かる身です。その立場でそんなことを言うようでは、とても婦人の道を尽くしているとは申せません」


「ハッ、婦人の道ねえ…。そうは言うけど、もし私がその婦人の道とやらを本気で守っていたら、私は今頃、どこかの街角で野たれ死んでいただろうよ」


「…ともかく、今のあなたは皇后なのですから、その道を修める務めがあります。我が身を修めなければ家庭が乱れ、家庭が乱れれば国家が乱れ、国家が乱れれば、それは天下が乱れるもとです」


「あ?それじゃ何かい、私が天下が乱れる元だとでも言うのかい。え?王莽!」


王莽は何も言わず、立ち上がり、一礼して去っていった。

飛燕は苛立ったが、あの対応は、自分でもまずかったかも知れない。そう思い返して、また飛燕は王莽を呼び寄せたが、王莽は病と称して来なかった。



さて、そうこうしているうちに、皇帝は突然、崩御してしまった。

王莽の主導で葬儀が行われ、皇帝には「成帝」と(おくりな)された。飛燕は茫然自失の体であったが、そこへさらに、衝撃的な知らせが飛び込んできた。


「合徳が、死んだ!?」


「は、はい…。なんでも、趙昭儀は死を賜ったとか…」


「賜った!?どういうことなの!?」


飛燕は、知らせを持ってきた宦官に詰め寄った。


「わ、私もまだはっきりとは聞いていないのですが…、なんでも、成帝が崩御されたのは、趙昭儀が陛下に精力剤を使わせ過ぎたせいだったからとか言われておりまして…。それで昭儀は、毒杯を賜って、それを飲んで死なれたとか…」


「言いがかりよ!そんなこと!!誰がそんなことを言ったの!?なぜそんな話が通るの!?」


「いや、私もはっきりとは聞いておりませんので…ただ、王莽様と王太后がそう言われていたとか…。ただ、お二人が薬を使っていたのは確かなようで、それはすでに事実…いや、とにかく事実だと言われていますが…」


「そんな…何かの間違いよ…そんなこと…」


飛燕は立って合徳の部屋に急いだ。戸を開けて中に入ってみると、中にあった家具はあらかたなくなっており、部屋の中央には、一つの棺が置いてあった。


「まさか…そんな…」


飛燕は恐る恐る、棺に近づいて、棺の蓋を開けて見た。


中には、合徳の屍が入っていた。

毒を飲んだせいか、全身の穴から血と膿と汚物が吹き出し、皮膚は青黒く膨れ上がり、目玉は飛び出して、ほとんど見分けもつかない屍だった。


飛燕は悲鳴を上げて、蓋を戻すと、その場にくずおれて、棺にとりすがって泣き伏した。


「こんな…こんなことって…合徳…ああ、合徳…」


しばらくそうやって泣いていると、不意に、背後に冷たい冷気を感じた。振り返って見ると、一人の女官が、戸口にもたれかかって立っていた。彼女は腕を組み、冷たい笑みを浮かべて、こちらを眺めている。この女、どこかで見たことがあるような…ああ、そうか。合徳に子供を殺された女の一人だったっけ。


彼女は言った。

「いやぁ、あんたみたいな人間でも、肉親が死ねば涙を流すもんなんだねぇ。感動的だねぇ。思わず、こっちまでもらい泣きしちまいそうだよ」


言葉とは裏腹に、笑いをこらえきれない、といった口調である。飛燕は、一気に涙も引いて、彼女と同じくらいの冷気をまとって立ち上がり、言った。


「何か用?」


女官は構わず続けた。

「でもね、まだこんなもんじゃないよ。まだまだ、こんなもんじゃないよ。そのうちあんたは、床をのたうち回って、「殺してくれ!!」って泣き叫ぶようになるよ。私はその時を、ずっとずっと待ってるからね」


「あんたこそ」


飛燕は言った。


「今言ったこと、必ず後悔させてやるよ。あんたが泣きわめきながら、「許してください!許してください!」って言うようにしてやるよ。もちろん、絶対に許したりなんかしないけどね。あんたのそのざまを、私は笑いながら、あんたが死ぬまで眺めてやるよ」


「ふん、身の程知らずな。あんたの転落は、既に始まってるんだよ。今に思い知るよ」


「思い知るのはてめぇだろ?」


二人はしばらくじっと睨み合っていたが、やがて女官は、踵を返して去っていった。


飛燕は、自分でも驚くほど冷静になって、考えた。

まだ私には劉欣がいる。あの子が次の皇帝になれば、私は太后の地位を得られるはずだ。実の母ではない分、多少不利ではあるが、後は劉欣を操って、影から権力を行使すればいい…そして王氏一族を排除する…慎重にやらねば…。


そう考えていると、そこへ一人の宦官がやって来た。宦官は涙ながらに、一つの箱を捧げもって、言った。


「飛燕様。これを…」


「あんたは?」


「私は、合徳様のお付きの宦官だったもので、金蓮と申します。これは合徳様の形見の品です。合徳様は毒杯を飲まれる前に、これをあなたに渡すようにと言われました。そして、あなたにお仕えするようにと…」


飛燕がその箱を開けてみると、中には合徳の使っていた剃刀と、(かんざし)が一本入っていた。


「これだけなの?」


「はい。他のものはみな、没収されてしまいましたので…」


「そう…」


飛燕は、その簪を自らの髪に挿して、言った。


「合徳や、あんたの仇はとってやるからね…」



さて、飛燕の思惑通り、劉欣は成帝の後を継いで、新たな皇帝になった。そして飛燕は、皇帝から太后の位を贈られた。血がつながっていない分不安定ではあるが、ひとまず、地位は手に入れたわけだ。あとは、皇帝が新たに子供をもうけて、その子がさらにその後を継ぐ…となれば、とりあえず己の地位は安泰である。

皇帝は、未だに女を近付けてはいなかったが、飛燕は早速縁談を持ちかけた。


「陛下、身持ちが固いのは結構ですが、皇帝になったからには、跡継ぎを残さなくてはなりませんよ。早く皇后を迎えなさいな」


「ええ、そのことなのですが…実は義母上に相談がありまして」


「何だい?」


「私は、女よりも、男が欲しいのです」


「…はぁ?」


「私はどうも、女を愛することには慣れないのです。こんな性格が知られては、皇位継承に差し支えがあるかと思って、今まで隠してきましたが、せっかく皇帝になったからには、これからは自由にやりたいと思っています。つきましては、義母上に、良い男を探してきてもらいたいのです」


(な、なんてことを言いやがるんだ。このガキ…)

飛燕はうろたえたが、言った。


「し、しかし…皇帝であるからには、跡継ぎを残すのも務めの一つですよ…。まずは、皇后を迎えてから、その後のことはどうにかすれば良いでしょう」


すると皇帝は、むっとして言った。

「何だ、私は皇帝ではないのか?皇帝になったからには、誰にも指図されるいわれはない。やりたいようにやるぞ。その為にこそ、今まで耐えてきたんだ。それに、跡継ぎを残せなかったのは、義母上だって同じでしょう。義母上にそんなことを言われる筋合いはありません」


「…」


(くっ…このガキ、大人しくて扱いやすそうな奴だと思っていたら、とんでもない外れくじだったか…。だが、今さら悔やんでも遅い。どうにかするしかないか…)


血のつながりがあるわけでもなく、有力な一族の出身でもない飛燕には、皇帝の母としての「太后」の位しか後ろ楯はない。自らの権力の源泉である皇帝の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。名目上は母であっても、飛燕は、好きに命令できる立場ではないのだ。


「仕方ない…いいでしょう。探しましょう。その代わり、良い男を見つけたら、ちゃんと跡継ぎを残すほうにも気を使うのですよ」


「ありがとうございます、義母上。恩に着ます」


「そう、恩は大事だからね…忘れるんじゃないよ」


かくして、飛燕は金蓮に命じて、各地から男を集めて来させた。さて、その中に、董賢という美少年がいた。皇帝はこの董賢をいたく寵愛するようになり、片時もそばを放れがたいようであった。

董賢は、皇帝の惜しみない援助のもとでとんとん拍子に出世して、遂には何の実績もないのに大司馬(軍事長官)にまでなった。


ある時、皇帝は董賢と共に寝ていたが、皇帝が先に起きた時、董賢はまだ、皇帝の袖の上で眠っていた。

皇帝は、董賢を起こすのに忍びなく、自らの袖を切り取ってから起き上がったのであった。この時から、皇帝は影で、「断袖(袖を断つ)」と陰口を叩かれるようになった。


皇帝は義務的に女のもとにも通っていたが、産まれた数少ない子は女の子ばかりで、皇帝の跡継ぎにはなり得なかった。飛燕は苛立った。


飛燕はしきりに、皇帝に対して、王氏一族を排除するように勧めたが、主だった役職は既に長い間王氏一族が務めていたので、その排除は政治に支障をきたし始めた。皇帝には、王氏一族を抜きにして政治を動かすだけの意志も能力もなかったので、結局、その排除は中途半端なままとなり、王氏一族は宮廷で隠然たる影響力を持ち続けた。


殊に、王莽はそうであった。

もともと、董賢が大司馬になる前は王莽が大司馬だったのだが、皇帝に辞めさせられて以来、その不遇も手伝ってか、人々の支持は王莽に集まり、復職の嘆願書が何通も届くほどであった。


皇帝は言った。

「なぜ、誰も私を支持してくれないのか!?せっかく皇帝になったのに、何一つ思いのままにならぬわ!こんなことでは、皇帝と言っても名ばかりではないか!?」


そんなままならぬ現実から逃避するかのように、皇帝はますます男色に溺れるようになり、政治はますますなおざりになった。

遂には、皇帝は、董賢に皇帝の位を譲りたいとまで言い出すようになったが、さすがにこれは周りの反対で取り止めになった。

この時ばかりは、飛燕も王氏一族と共になって反対した。自らと何のゆかりもない董賢が位についたりすれば、己の没落は明らかだからだ。皇帝には、何としてでも、跡継ぎをもうけて、彼に後を継いでもらわなくてはならぬ。それこそが飛燕の生命線なのだ。


しかし、皇帝には相変わらず息子は産まれなかった。そして、皇帝は、位にあること五年ほどで、あっけなく死んでしまった。


再び王莽が主導して葬儀が行われ、皇帝は「哀帝」と(おくりな)された。


哀帝の死後には、しばらく騒ぎが続いた。というのも、哀帝は死の直前に、董賢に皇帝の玉璽をゆずり渡していたからである。

しかし、王莽ら王氏一族の働きで玉璽は取り返され、結局は王太后の手に渡っていた。董賢は、その日のうちに自殺し、王莽は大司馬の職に返り咲いていた。


飛燕は言い知れぬ不安を覚えた。自分は、いまだ「太后」の名を保ってはいるが、哀帝が跡継ぎを残さず死んだことで、権力の中枢に関わる望みは断たれた。後は、哀帝の残した娘の後見人にでもなって、つつましく過ごす望みくらいしかないが、それだって、果たして許されるものか…


そう考えているところへ、金蓮がやって来て、言った。


「飛燕様。王太后のお呼びで、皇族や外戚の方々は、みな漢の祖廟に集まるようにとのことです」


「…金蓮、本当に王太后のお呼びなんだろうね?」


「一応、王太后の名で集められてはいますが…。実際に人を集めているのは、王莽様のようにも思えます」


「王莽か…。金蓮、私は嫌な予感がするよ。できることなら、この場から消えてしまいたい…」


「…しかし、行かないわけにもいきますまい。もう既に、皇族と外戚の方々は集まっているとのことです」


「やむなし、か…。仕方ない。方をつけるしかないみたいだね…」



飛燕が祖廟にやって来ると、そこには既に、主だった人々が集まっていた。奥には、壁を背にして王太后が座り、その横には王莽が立っていた。こうしてみると、王莽はずいぶん背が高い。王莽は威圧するように辺りを見回し、周りには武装した兵士たちの姿も見える。そういえば、王莽はすでに大司馬の職に復しているのであった。


人々が集まると、ややあって、王莽が言った。


「今回皆に集まってもらったのは、他でもない、哀帝の跡継ぎを決め、過去の精算をするためだ。

だが、まずは過去の精算を先にしなければならぬ。そうしなければ、私達は先に進めないだろう。


ここ数年来、漢王室は乱れに乱れた。そしてそれは、哀帝の時に始まったことではなく、成帝の時に、既に始まっていたと言わざるを得ない」


王莽はそう言うと、己の言葉の効果を確かめるかのようにして周りを見回し、続けた。


「では、その病の根源はどこにあるのか?どこから始まっているのか?


そもそも、昔から、婦人のために道を誤り、自らを滅ぼし、国を滅ぼした例は数多い。

主だったところを挙げれば、()(けつ)王は末喜(まっき)のために国を滅ぼし、(いん)(ちゅう)王は妲己(だっき)のために国を滅ぼし、周の幽王は褒似(ほうじ)のために国を滅ぼした。


そして、この漢の成帝、哀帝は、趙飛燕、趙合徳姉妹のために、道を誤ったと言わざるを得ない。すなわち、成帝は女色に溺れ、哀帝は男色に溺れて、我が身を修めず、政治をなおざりにして、危うく国を滅ぼすところであった…」


飛燕は、座を蹴って立ち上がった。


「王莽!!私達のせいにしようって言うのか!?成帝が女色に溺れ、哀帝が男色に溺れたのは、私のせいじゃない!彼らは最初からそうだったんだよ!私はただ、彼らの望みを叶えてやっただけだ!!」


「飛燕殿、故人を冒涜なされるのか?この霊前で?」


「霊前?霊前が何だって!?私は生前のことを言ってるんだよ!!私は成帝の皇后で、哀帝の母太后なんだ!身内なんだよ!!彼らのことは、誰よりも知ってるんだ!!」


「身内?あんたが?」


と、せせら笑う声が聞こえた。そちらを見ると、例の女官が、あの時のような冷たい笑みを浮かべていた。


「あんたなんて、成帝がどこからか拾ってきただけの雌犬じゃないか。血のつながりがあるわけでもない。金で買われた売女と同じなんだよ。あ、実際そうだったっけ?

まあ、子供でも産まれていれば、血のつながりもできたかも知れないけど、汚らわしい仕事をやっていたせいで、それも叶わなかったわねぇ」


「…てめぇ…」


「静粛に!」


王莽は一喝すると、続けて言った。


「とにかく、この件に方をつけるため、趙飛燕からは「太后」の位を剥奪し、庶民の位に落とすこととする。董賢はすでに妻と共に自殺した。後は、陛下の跡継ぎを決めるだけだ」


「馬鹿な…王莽…あんたに何の権限があってそんな…」


「このことは、既に皇族、外戚一同の間で話し合って決められたことだ。

言っておくが、飛燕殿、あなたは成帝が崩御された時、趙合徳との連帯責任で死を賜っていてもおかしくなかったのだぞ。その上あなたには、成帝の皇子を殺した疑いもかけられている。それでも位を剥奪するだけで済ませているのだ。これだけでも、十分温情のある処置なのだぞ」


「…」


「では、次の議題だが…」


終わりだ。と、飛燕は悟った。哀帝が跡継ぎを残さずに死んだ時、自分はすでに詰んでいたのだ。

自分にとって、唯一の後ろ楯であった「太后」の肩書きももはや失われた。確かに、今回の件だけを見れば、温情ある処置と言えなくもないが、後ろ楯を失って庶民に落とされた今、我が身を守るものは何もない。

皇子殺しの疑いもかかっているこの状態で、このまま済まされるはずはないだろう。手をこまねいていれば、次はどんな残酷な追撃が来るかも知れない。


「潮時か…」



もはや宮廷に住むこともできず、財産もほとんど没収されてしまったので、飛燕は、以前買っておいた郊外の別荘に行くことにした。


わずかに残った使用人達が、車に馬を繋いでくれる。その中には、金蓮もいた。

飛燕は言った。


「金蓮、あんたには別に、私に付いてくる義理なんてないんだよ。宦官のあんたには、宮廷で働く方が良いのじゃないかい」


金蓮は涙ながらに言った。

「いいえ。私は合徳様には本当に恩がありますから…。合徳様のお言いつけ通り、最後までお供いたします」


「ははっ、忠義な人だね、あんたも…。宦官の鑑だよ。残念ながら、それを活かす機会ももうないだろうが…」


金蓮は馭者席に座り、馬に鞭うって車を走らせた。ガタガタ揺れる車から外を眺めれば、既に日は傾き、彼女の運命のごとく、今や沈むのを待つばかりである。


と、車が郊外の道にさしかかったところで、一人の杖をついた老人が、道を横切ろうとした。ところが、何かにけつまづいたのか、老人は道の途中で倒れ、杖が転がった。

老人は起き上がろうとするが、脚が悪いのか、なかなか起き上がれず、杖を拾おうとして、のろのろと這っていく。金蓮は、馭者席から怒鳴った。


「おい、じじい!さっさとどかないと、轢き殺すぞ!!」


飛燕は、急に哀れを催して、言った。


「よしなよ、金蓮」


そして、車から降りると、手ずから老人を助けて、立ち上がらせた。金蓮が言った。


「飛燕様、なにもそのような奴に…」


「いいんだよ。私だって、今はただの庶民なんだからね」


そうして、杖を拾ってやると、飛燕は、老人をまじまじと見て、言った。


「爺さん、あんた、昔どこかで会ったかい?何か、見覚えがあるような気がするんだけど…」


「いえ、滅相もございません。私はただの貧しい庶民でございます。高貴な方々と知り合いなはずはありません」


「そう…まあ、いいけど…そうだ。爺さん、これも何かの縁だろうから、これをあげるよ」


そう言うと、飛燕は自らの金の腕輪と首飾りを老人に与えた。老人は、ただただ恐縮している。金蓮が言った。


「飛燕様、なにもそこまでしてやらなくても…」


「いいんだよ。どうせもう、私には必要ないものだから…。私には、この合徳の形見の(かんざし)さえあればいいのさ。さあ、そろそろ行こう。じゃあね、爺さん。誰かに盗まれないように気を付けるんだよ」



別荘に着くころには、既に日も落ちていた。飛燕は、わずかな使用人たちの中から、金蓮を呼んで、言った。


「私はこれから自殺する。金蓮、あんたには世話になったから、私の財産は、少ないけど、半分はあんたに残すよ。そして残りの半分は、後の使用人たちに等分に分けておくれ。ついでに、この家も、あんたにあげるよ」


「飛燕様…」


「いいんだよ。もうどうしようもない。それとも、もし私の遺産が少ないと思うなら、私の首を宮廷に持って帰るかい?私が反乱を企んでいるところを討ち取った、とか言ってさ。そうすりゃ、褒美ももらえるだろうし、また宮廷で働けるだろうよ」


「飛燕様!私がそんなことをする人間だとでも…」


「ごめんごめん。冗談だよ。世話になったね、金蓮。ありがとう。じゃ、お別れだ。元気でね…」


そう言うと、飛燕は部屋に入って、扉を閉めた。そして、合徳の形見の剃刀を取り出すと、言った。


「合徳や、今行くよ」


そうして、一気に首を掻き切った。

首からは勢いよく血が吹き出して、天井にまで跳ねかかり、飛燕は血だまりの中に、仰向けに倒れた。


激しい痛みに溢れ出す血。自らの血に浸かりながら、次第に意識が薄れて行く。


(合徳…)


ふと、ずっと昔のことを思い出した。ずっと昔、あの雪の降る夜。古びて朽ちかけた道観で、合徳と二人、道士にならないかと誘われた時のことを。

あの頃は合徳もいた。卑しい仕事をすることもなかった。殺しに手を染めることもなかった。できることならやり直したい。でも、もう遅い…。いずれにせよ、今これから、合徳のもとへ…










「飛燕!!」


ビクッとして目を開けると、暗い床が目に入った。そして、自分の手足が目に入った。

目を上げて、周りを見回してみると、そこは古びて朽ちかけた道観で、隣には幼い合徳がいて、そして、あの老人がいた。外では、まだ雪が降り続いている…


「大丈夫かね?」


老人は言った。


「だいぶ、うなされていたようだが」


「そうよ。病気してる時みたいだったわ」


と、合徳。


飛燕は目を下ろして、自分の小さな手足を見た。そして辺りを見回し、老人を見て、合徳を見て、それからまた自分の手足を見た。

それから、目を閉じて、長いため息をついて、言った。


「夢だったのかな…。なんだか、とても長い夢を見ていたような気がするわ。

とても長くて…暗い夢を」


老人は訊いた。

「どんな夢かね?」


飛燕は首を振って言った。

「思い出せないわ。でも、思い出さないほうがいいのかも知れない。きっと悪い夢だったのよ。忘れたほうが、良いような…」


「そうかね。でも、まだ呼吸法は覚えているだろう?」


「うん」


「それでは、とっておきの技を見せてあげよう。二人とも、私に付いてきなさい」


そう言うと、老人は立ち上がって外に出ていく。


「お姉ちゃん…」


「大丈夫よ、怖いことなんてないわ。私がずっとついてるから」


飛燕は、合徳の手を取って、外に出た。

境内に出ると、老人は二人に手を差しのべて言った。


「さあ、つかまってごらん」


二人が老人の手を取ると、老人は地を一蹴りした。そうすると、風が巻き起こり、三人は空に飛び上がり、そのまま上へ上へと、空を飛んで行く。


「すごい!空を飛んでる!」


合徳が言った。


三人はさらに、上へ上へと昇って行く。老人は言った。

「二人とも、寒くはないかね?」


「「ううん、全然!」」


周りには雪が降っているのに、不思議と、もう何の寒さも感じなかった。

やがて、下の街は小さくなり、家々が豆粒ほどになり、さらに雲を抜けて、雲の上に出た。

雲の上は雪もなく澄みきった夜空で、下には雲の海が広がり、上には満天の星々が輝いている。それは息を呑むほど、美しい光景だった。


老人は言った。

「私はこれから、天帝の宮にお参りに行ってくるが、お前たちも来るかね?」


「「うん、行く!」」


二人は一緒に答えた。


「そうかね、それではしっかり掴まっていなさい。天帝の宮は良いところだ。そこに至れば、もう何も、憂えることはあるまいよ」


そうして三人はさらに上へ上へと昇って行き、輝く星々をも通り越し、天の果てへと消えていった。

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