前編
「道士」や「道観」といった名前や制度は、当時はなかったとも思われますが、これらは由来もはっきりしませんし、元ネタの「趙飛燕外伝」自体が後世の作のようなので、これらもそのまま使っています。
漢の都は長安の、ある雪の降る、寒い夜のこと。
趙飛燕、趙合徳の姉妹は、打ち捨てられて朽ちかけた古い道観(道教寺院)で、身を寄せあって眠れぬ夜を過ごしていた。
借金の為に父は夜逃げし、母は自殺し、一族は散り散りになってしまい、行くあてもなくなった幼い姉妹は、泊まるところもなくこの道観で夜を過ごしていたのである。
道観の屋根は所々破れていて、そこから粉雪が舞い込んでくる。二人は身を寄せあって暖めあっているが、とても眠ることはできない。
だが、姉の飛燕が眠れないのは寒さのためばかりではなかった。
今は何とか物乞いをして暮らしているが、いつまでもこんな生活を続けることはできないだろう。
どこかで働ければ良いのだが、まだ子供で、これといった特技もない自分たちにどんな働き口があるだろうか。幼い妹を抱えて、これからどうやって暮らしていけば良いのかと思うと、眠ったほうが良いと思ってはいても、眠ることができない。
妹の合徳は、もともとおとなしくて依存心の強い性格だったが、一家が離散してからは何だか幼児退行してしまったようで、ますます依存心が強くなり、何をするにも姉に頼りきりだった。
合徳は飛燕にくっついて、言った。
「お姉ちゃん、寒いよう」
「ああ、そうだねぇ。でも春になれば、また暖かくなるよ」
「うん…」
そう言うとしばらく合徳は黙っていたが、少し経つとまた言った。
「お姉ちゃん、寒いよう」
「ああ、そうだねぇ。でも夏になれば、また暖かくなるよ」
「うん…」
そう言うとしばらく合徳は黙っていたが、また少し経つと言った。
「お姉ちゃん、寒いよう」
「うっさいわね!私だって寒いんだよ!!」
合徳はビクッとして黙ったが、今度は身を震わせ、声を押し殺して泣き出した。そうしていつまでも泣き続けている。
飛燕は、合徳を哀れむ気持ちと、己を哀れむ気持ちがない交ぜになって、合徳を抱き締めて言った。
「ああ、ごめんね。合徳や。つい怒っちゃったけど、あんたが嫌いになった訳じゃないんだよ。
でもねぇ、寒い寒いと言ったって、どうにもならないでしょ?そうだ、寒いって言うから寒いんだよ。何かもっと暖かいことを考えるんだよ」
「暖かいことって、どんなこと?」
「そうだねぇ。いつか私達がこの状況から脱け出して、大金持ちになったら…」
「どうやってなるの?」
「どうにかしてだよ。とにかく金持ちになったら、そしたら、この道観の十倍はあるような大きな屋敷に住みましょうね。そして、この道観と同じくらいの広さの浴場に熱々のお湯をはって、そこでお風呂に入れるわ。
そのお湯には香が混ざっていて、良い香りがして、ついでに花びらも浮かべて、召し使いが体を洗ってくれるわ。
そして、軽くて暖かくてふわふわの毛皮の衣を着て、鏡のように磨きあげられた床に虎の皮を敷いて…」
「虎は嫌だわ。怖いもの」
「そうね。じゃ、狐にしましょう。とにかく毛皮を敷いて、方一丈の食卓には山海の珍味が並んで、召し使いが熱い酒を注いでくれるわ」
「じゃあ、夏になったら?」
「そうね、夏になったら、この街の一区画くらいはある庭園で、池に舟を浮かべて舟遊びしましょう。私達は薄くて軽い綾織りの衣を着て、召し使いが傘をさしかけてくれて、扇であおいでくれるわ。
あたりでは小川のせせらぎに小鳥のさえずり、花々が咲き乱れて良い香りが漂い、楽士が琴を奏でれば空からは鳳凰が舞い降りてくる…
そして、優しくてかっこよくて金持ちの皇族の男性と結婚して、連日連夜宴をはって、朝は遅くまで寝て、ふわふわのベッドで寝ていると、旦那さんが「まだ寝てるのかい?」って言いながら起こしに来てく…」
「ちょいと、お嬢さん方」
「!?」
声のした方を見ると、道観の入口に、一人の老人が立っていた。白髪に白髭、額が広く生え際の後退した、耳の大きな老人だった。
「なんだ、爺さんか…何か用?」
「お前たち、ここに住んでいるのかね?よければ、一晩泊めてもらいたいのだが」
「まあ、別にいいけど…私達の家じゃないしね」
「それでは、失礼するよ」
そう言うと、老人は上がり込んで、片隅にうずくまった。飛燕は言った。
「ねえ、爺さん。こっちに来て、私達とくっついて寝たら?そうすれば、少しは寒さもしのげるからさ」
「うむ、では失礼」
老人は姉妹の隣に座った。合徳は怯えて、飛燕の陰に隠れる。そこで、飛燕は驚いて言った。
「爺さん、あんたずいぶん体が暖かいんだね。外はあんなに寒いのに」
それにこの老人、よく見ると、髪や髭は白いのに、肌には張りとつやがあって、四十代くらいと言われてもおかしくない程である。老人は言った。
「ああ、これかね?これは呼吸法によるものだよ」
「呼吸?」
「そうだ。特殊な呼吸をすることで、大気中の陽気を取り込んで、冬でも暖かく過ごすことができるのだよ」
「へぇー…」
「他にも、夏でも涼しく過ごせる呼吸法や、長い間何も食べずに済ます呼吸法もあるぞ。どうだね、お前たちもやってみるかね?」
「うん、やるやる!」
さて、その呼吸法を教わってやってみると、飛燕はすぐにできるようになったが、合徳はうまくできなかった。老人は言った。
「まあ、人には向き不向きがあるからな。仕方ない」
「大丈夫よ合徳。私がこの呼吸をやってるから、あんたは私に抱きついてればいいわ。そうすりゃ、もう寒くないでしょ」
「う、うん…」
「どうだね、お前たち、これを期に道士になってみる気はないかね」
「道士に?」
「そうだ。出家して道士になるのだよ」
「うーん、それもいいかも知れないわね。合徳、あんたはどうする?」
「えっ、私?私は…お姉ちゃんがそうするなら私も…」
飛燕は言った。
「そうね…でもやっぱり、まだ道士とかにはなりたくないわ」
「なぜかね?」
「だって、まだ人生始まったばかりだし…いきなり出家するなんて早すぎる気がするわ。
そうね…、もし私達がお金持ちになって、今よりもっと幸せになれたら、その時は道士になってみるのも良いかも知れないわね」
時の皇帝には、皇帝になってからも、しばしば身分を隠してお忍びで城下町に出かけ、遊び歩く癖があった。
皇帝の母の王太后を始め、外戚の王氏一族はたびたびこれをいさめていたが、生来遊び人の気質のある皇帝には、これがやめられなかったのだ。
今日も今日とて、皇帝が車に馬をつないで長安の都を走らせていると、不思議なものを見かけた気がした。
「おい、車を停めろ」
皇帝はそう馭者に言うと、車から身を乗り出してそちらを眺めた。
そこには、雪の降りしきる中で、一人の美女が、薄い衣一枚をまとっただけの姿で立っていた。目を閉じて息を詰め、じっと雪の中に立ち尽くしているが、震えてもいないし、血色も良く、寒がっているようにも見えない。
「少し、ここで待っていろ」
皇帝はそう言うと、車から降りて彼女に歩み寄り、言った。
「もし、あなた、この雪の中でそんな格好で立っていて寒くはないのですか?」
すると彼女は、目を開けて皇帝に微笑みかけると、言った。
「ええ、寒いですわ。だから私は、誰か私を暖めてくれる方を探しているのです」
「ほう、それはどういうことかな」
「私は、かごの中の鳥ですわ。誰でも、一晩私を買ってくれる方がいれば、私はその方のために鳴くのです。あなたは、私を買う気がおありになって?」
「もちろん、そのつもりです。それで、どこに行けば、あなたを買えるのですかな?」
「案内しますわ」
そう言うと、彼女は歩き出した。皇帝は言った。
「ところであなたは、名は何と言われるのか?」
「飛燕」
彼女は言った。
「趙飛燕と申しますわ」
案内された店で、皇帝は飛燕と歓楽の限りを尽くした。皇帝は飛燕をいたく気に入り、彼女を後宮に迎えようと決意した。皇帝は言った。
「あなたは、このかごの中で飼われているには惜しすぎる。どうか、これからは私のためだけに鳴いてはくれないか」
「まあ、お気持ちは嬉しいけど、あなたにそんなことができるのですか?」
「もちろんだとも、この国で、私にできないことなど何もない。
飛燕、飛燕!ああ、まさしく名は体を表すというやつだな。私の手のひらの上で、舞えるくらいに軽やかだ!」
「まあ、そんなお世辞を」
「いや、本当だとも。待っていろよ飛燕。明日にはお前を迎えに来よう。だから、今日はもう客はとらないでくれよ」
そうして部屋を出ると、皇帝は店の主人に言った。
「飛燕を身請けしたい」
店主は、じろりと皇帝を見ると、言った。
「お客さん、ずいぶん簡単に言われるがね、あの娘はうちの店でも一番の稼ぎ手だよ。私にとっては掌中の珠だ。そう簡単に手放すわけにはいかないね。もしあんたが、車一杯の黄金を積んでくるとでも言うなら話は別だが…」
「車一杯だな?いいだろう。明日には持ってこよう。だから、明日私が来るまで、飛燕には客をとらせるなよ」
「はあ?ちょっとあんた…」
そこへ皇帝のお供の、屈強な護衛が割って入って、店主に金を渡すと、皇帝は言った。
「これは前払いだ。言うとおりにすれば、私も約束は守ろう。だがもしそうでなければ…お前も無事では済まないぞ」
「は、はあ…」
店主は気圧されて言った。
さて翌日になって、皇帝は車一杯に黄金を積んで、もう一台の車に乗ってやって来た。そして言った。
「飛燕よ、迎えに来たぞ!」
飛燕は出てくると、辺りを見回して、言った。
「本当に…夢じゃないのね。ここから出られるのね?」
「もちろんだとも。さあ、乗るがいい」
そう言って、皇帝は車から手を差しのべる。そこで飛燕は言った。
「待って」
「どうした?」
「この店では、私の妹も働いているの。合徳って名前よ。彼女も一緒に行くのでなければ、私は行けないわ」
「では、その者も連れていこう。おい店主、それで良いな?それとも、もう一台分の金が要るか?」
「いえ、滅相もない。どうぞお連れ下さい」
店主はかしこまって言う。
そこで合徳も連れてこられたが、皇帝がこれを見れば、姉のほうは細身で小柄なのに対して、妹のほうは豊満な体型である。
なるほど、これは二人とも楽しめそうだわい、と心の内で思う皇帝。飛燕は言った。
「合徳や、長い間待った甲斐があったね。やっとここを出られるんだよ」
「夢みたいだわ…ああ、姉さん、ありがとう」
「お礼なら、この方に言いなよ。合徳。この方が私達を身請けしてくださったんだからね」
かくして、趙姉妹は宮廷に迎え入れられることになったのだった。
皇帝は飛燕をいたく寵愛して、すでに皇后になっていた許皇后を廃して、飛燕を皇后に立て、合徳は皇后に次ぐ位である昭儀に立てた。
この行いに、王太后を始め、王氏一族は反対していたようだが、飛燕はさして気にもとめなかった。
かくして、二人は本当に広い広い屋敷に住み、鏡のような床に方一丈の食卓、冬は毛皮の衣に夏は薄絹で舟遊びができるようになったのだった。使用人たちは、飛燕が命令すれば、何でもはいはいと命令を聞いてくれる。飛燕は得意満面であった。
しかし、合徳のほうは、しばらくすると、なにか悩ましげな表情を見せるようになった。飛燕は言った。
「合徳や、せっかく願いが叶ったというのに、何を悩んでいるんだい」
「うん…。姉さん、人ってどこにいても、本質はそう変わらないものなのね」
「?」
「ううん、何でもないわ。きっと私が考えすぎなだけだと思うから…」
「そうね。あんたは昔から、深く考えすぎる癖があるからね。でもせっかくここまでたどり着いたんだから、今を楽しまなきゃ損よ」
「そ、そうね…ははは」
そうこうして、歓楽の内に二年ほどが過ぎたある日、合徳は飛燕の部屋を訪ねてきた。飛燕は言った。
「何か用?」
「うん…。姉さん、単刀直入に訊くけど、もう子供はできたの?」
「え?いやまだだけど…」
「でも、陛下とはやることやってるんでしょ?」
「いやまあ、そうだけど…。あんた、ずいぶん遠慮がないわね」
「そりゃ、遠慮してる場合じゃないからよ。
…ねえ、姉さんは分かってるの?私達後宮の女は、陛下の子供を産んで、皇族の母親になってこそ、初めて後宮での立場を保証されるのよ。その子が皇太子になればもちろんのこと、そうでなくても、王族の母親であれば、少なくとも地位は保証されるわ。でもそうでなければ、私達はいくらでも替えのきく女官でしかない…。
姉さんは今、陛下の寵愛を受けているから、それを後ろ楯にしていられるけど、私達は有力な一族の出身でもなければ、そのつてで後宮に入ったわけでもない。陛下の寵愛だけが頼みの綱なのよ。
でも、陛下はああいう性格だから、いつ他の女に心が移るかも知れないわ。そうなったら、私達はどうなるの?この周りは敵だらけの後宮で、何の後ろ楯もなくなってしまうのよ」
「敵だらけねえ…、結構私には、皆よくしてくれるけどね」
「そんなのはうわべだけよ。姉さん、騙されちゃいけないわ。姉さんが陰でどんなことを言われてるか知ってるの?あの女は昔汚らわしい仕事をしていたから、その時使っていた薬のせいで、子供ができないんだって言われてるのよ。それだけじゃないわ。もっと聞くに耐えないようなことだって、いくらでも言われてるのよ」
「へえ…そうなんだ…」
「この後宮だって、私達が働いていたあの店と同じようなものなのよ。お客の寵愛を得るために、互いに競いあい、奪い合う…。違うのは、対象が一人だから、その競争がさらに熾烈で、陰湿だってことくらいかしら。
姉さんはあの話を知ってる?あの戦国時代の、鼻を削がれた女官の話を」
「いや、どんな話?」
「それはこうよ。
昔、戦国時代のある国に、王に寵愛されている女がいた。でも、王が新しい女を後宮に迎えて、彼女を寵愛するようになったので、古い女のほうは寵愛を失ってしまった。
それで、古い女は新しい女を憎んでいたけれど、そこで一計を案じた。古い女は、憎しみを隠して、新しい女に親切にしてやり、なにくれとなく尽くしてやったわ。それで、新しい女は、古い女のことをすっかり信用するようになった。
そこで、古い女は新しい女に言った。
「王はあなたのことを大変愛していらっしゃるけど、ただ、あなたの鼻の形だけは気に入らないそうよ。だから、王の前に出る時は、いつも鼻を隠すようにしなさいな」
それで、新しい女はそれを信じきって、王の前に出る時はいつも鼻を隠していた。そこで王は、不思議に思って古い女に聞いた。
「あの女は、私の前に出る時はいつも鼻を隠しているが、あれはなぜなのか?」
そこで古い女はすかさず言ったわ。
「あの女は、王は嫌な臭いがするから嫌いだと、常々申しておりましたよ」
そこで王は烈火の如く怒り、新しい女の鼻を削ぎ落とした上で追放してしまった。で、古い女のほうは再び王の寵愛を取り戻して、元の立場に返り咲いた、というわけ」
「へえ」
「でもこれは、決して昔の戦国時代だけの話ではないわ。この漢でだって、もっとひどいことが起こっているのだもの。
高祖の時代、戚夫人は高祖の寵愛を受けていたせいで呂后から恨まれ、高祖が死んで後ろ楯を失ったあと、子供を目の前で殺され、凶暴な囚人に犯され、手足を切り取られ、目をえぐり出され、耳と喉を焼きつぶされた上で、便所に捨てられて殺されたわ。私達だって、後ろ楯を失えば、どんな目にあわされるか知れたものではない…。
しかも、危険はもうすぐそこまで迫っているのよ。だって、すでに陛下の子供を産んだ女が、何人かいるのだもの。
これから姉さんに子供ができればそれでいいけど、もしこのまま子供ができなければ、陛下だって、嫌でもあの女たちの子供の誰かを皇太子に立てざるを得なくなるわ。そうしたら、姉さんはきっと皇后の立場から下ろされる。それでも陛下の寵愛が保たれていれば良いけど、その頼みの綱は、いつ切れるかも知れない危うい綱でしかない…私達がどんなに危うい綱渡りをしているか、わかる?」
「そうは言うけど、じゃあどうするつもりなの?」
「殺すのよ」
合徳はあっさり言うと、懐から小さな瓶を取り出して、飛燕の前に置いた。
「何これ?」
「これは、私が腹心の宦官に探させた秘蔵の毒薬よ。これを飲むと、最初は風邪に似た症状が出るけれど、すぐに重くなって死んでしまうわ。これを陛下の子供らに飲ませて、彼らを亡きものにするのよ」
「ちょっとあんた、本気なの?そんなことがバレたら、腰斬の上に一族皆殺しの刑にされてもおかしくないわよ。まあ、一族って言っても、私とあんたしかいないけどさ…」
「大丈夫よ。子供が急病で死ぬなんて、よくあることだもの。たとえ怪しまれたって、決定的な証拠がなければ彼らには何もできないわ。
…それに、多少危うい橋でも、渡らないわけにはいかないわ。生き残るために。どんな手を使ってでも…。そうよ、この世は全て、喰うか喰われるかなのだから…」
合徳は、熱に浮かされたような眼で、飛燕を見つめて言った。
飛燕は、まじまじと合徳を眺めたあと、笑って言った。
「合徳や、あんたも悪くなったもんだねぇ」
「そりゃそうよ」
合徳は言った。
「そうでなければ、とても今日まで生きてこれなかったわ」
かくして、皇帝の息子たちは次々と病死することになった。人々は怪しんだものの、他殺だという証拠はなにも見つからなかったので、結局事件はうやむやに終わった。しかし、疑惑はいつまでも残ることになった。
結局、合徳の判断は、時宜を得ていたとも言える。と言うのも、この頃から、皇帝は次第に飛燕に飽きてきて、他の女の元へ通うようになったからである。
飛燕は皇后の立場こそ下ろされなかったものの、皇帝の寵愛が誰に移っているのか、気が気ではない。そして調べさせたところ、皇帝は他でもない、妹の趙合徳の元に通っていたのだった。
飛燕は、合徳の部屋を訪ねて、言った。
「合徳、話があるんだけど」
「な、何?」
「合徳、あんたは本当に頭が良いわねぇ。陛下はああいう性格だから、いつほかの女に心が移るかも知れないって言ってたけど、本当にそうなったじゃない。それを見越して、あんたは先に陛下の気を惹いておいたと言うわけね?
良かったじゃない合徳。あの店では、私はあんたよりずっと沢山の客をとってたけど、あんたもようやく、あんたの真価を見いだしてくれる相手に巡り会えたんだからさ。しかも皇帝陛下にねぇ」
合徳は、おどおどしながらも言った。
「…何よ、姉さん。嫉妬してるの?」
「嫉妬?私があんたに?ハッ!馬鹿いわないでよ。私は本当に嬉しいのよ。
私はあんたを養うために、あの店であんたよりずっと沢山の客を受け入れて、薬を使って、それで体を壊して、子供が産めない体になっちゃったけど、あんたはこうして陛下と結ばれて、二人で幸せになろうってんだからさ。私も本当に、我が身を犠牲にして働いた甲斐があるってものよ。あんたが独り立ちしてくれて、私は本当に嬉しいわよ?もう祝福の気持ちしかないわ!」
「…何よ。やっぱり嫉妬してるんじゃない。柄にもなく、皮肉なんか言っちゃって…。でも仕方ないじゃない。だって、陛下が私を選んだんだもの。
それに、むしろ私で良かったじゃない。これが誰か他の女だったら、またその女に子供ができるんじゃないかと心配しなきゃならないところだったわ。でも私なら、姉さんだって今の地位を保てるだろうし、少なくとも一段階下がって昭儀くらいにはなれるわ。むしろ感謝してもらいたいくらいだわ」
飛燕はカッとなって、合徳の横っ面を殴り付けた。合徳は床に倒れ込むと、泣き出して、言った。
「姉さんは、私が邪魔なのね?私なんて、もっとずっと昔に死んでいれば良かったんだわ!そうすれば、姉さんだって卑しい仕事をしなくて済んだし、もっと昔に、一人で幸せになれていたはずなのに!私なんて、生きていても、姉さんの邪魔にしかならないんだわ!!」
飛燕は、急に哀れを催して、合徳を抱き起こすと、言った。
「ああ、ごめんね、合徳や。ついカッとなっちゃったけど、あんたが嫌いになったわけじゃないんだよ。邪魔なんかじゃない。私は今までずっと、あんたのために生きてきたようなものなんだからね。あんたがいなくなってしまったら、私だって、もう生きてる甲斐がないよ」
「…本当に?」
「ああ、本当だとも。いいよ。陛下のことは諦めるわ。結局のところ、皇帝が沢山の女を囲うのは、今に始まったことじゃないのだもの。
あんたの言う通り、むしろあんたで良かったとさえ思うわ。だから、あんたはがんばって陛下の心をつなぎ止めるようにするんだよ」
「うん…うん…。ありがとう姉さん。…ごめん」
「何謝ってんだい。私はあんたが幸せになってくれればそれでいいんだよ。…だからそんなに泣かないでくれよ。全く、人を毒殺するようなとんだ悪党のくせに、そんなふうに泣くなんて、ずるい子だね、あんたは」
「うん…ごめん…でも悪党だって…いや、あるいはむしろ悪党だからこそ、泣きたくもなるものなのよ。私だって、もし物語に出てくるような、本当に冷酷非情な悪党になれるなら、どれだけ気が楽かも知れないけど…、でも、自分の心って、本当に自分ではどうにもならないものだから…」
かくして、皇帝は合徳の元に通い続けていたが、飛燕が皇后の位を下ろされることは無かった。かつて飛燕を迎えた時に許皇后を下ろしたことで、皇帝は王氏一族に散々非難されていたので、それに懲りていたのかも知れない。