第一章 争乱の王国 その⑥
「ねえ、キリコ。本当にこれにそんな力があるの?」
シェリルが懐疑の響きにみちた声を向けた先で、キリコは一人、部屋の窓の前でなにかの作業をしていた。陽も完全に沈み、夜の帳が街をつつんで久しい時分のことである。
木製の窓枠に糊を薄くのばし、そこに長方形状をした札紙のようなものをキリコが一枚一枚丁寧に貼っている。それと同じものを手にするシェリルにキリコが声を返した。
「もちろんだとも。創造神の霊験あらたかなファティマの護符だ。効力は保証するよ」
「護符ねぇ……」
そうつぶやくと、シェリルはあらためて手にする札紙を見やった。
それは長方形状の、大きさは手の平ほどで、原材料の色なのであろうか薄茶色をしており、表面の感触もざらついている。紙の表と裏には、それぞれにファティマの紋章が記されているが、シェリルの目にはただの古びた札紙にしか見えない。
だが、この古びた札紙こそ、《御使い》との戦いのためにファティマの僧侶たちが生みだした「護法具」のひとつであるとキリコは言う。
護法具とは、おもに防御と守備を目的として作られた法具のことである。
ファティマの紋章が記された護符はそれを代表するもので、《御使い》や屍生人の接近、ないし侵入を阻止するための「結界」を発生させるために用いられる。
とりわけ、建物の中や室内といった閉ざされた空間内においては絶対的な効力を発揮し、護符を貼りめぐらすことによって生じる結界には、《御使い》や屍生人が足を踏みいれることは絶対にできない。その結界をキリコはシェリルが寝泊まりするこの部屋につくりだそうとしているのだ。就寝時の襲撃にそなえての処置であることは言うまでもない。
護符の使用法と効力についていちおうの説明をうけたシェリルであったが、この古ぼけた札紙にそんな力があるとはとても信じられなかった。それでもシェリルが鼻先で笑いとばそうとしないのは、この数日間における体験があればこそだ。
あのジェラード邸での一件以来、自分の住む世界はかわり、生来の価値観もかわった。
教皇庁の極秘僧兵である聖武僧にはじまり、《御使い》、屍生人、気光、超魔態……。
ごく短期間の間に、それら「非常識的」な存在や能力を目の当たりにしてきたシェリルにとって、今さら護符だの結界だのが追加されたところで驚くに値しない。ただ納得するだけである。
「よし、これでいい。後は扉だ」
窓に護符を貼りおえたキリコは踵を返し、今度は出入り口の扉に向かって歩きだした。
「窓と扉。外界へと通じる空間の穴を護符によって封じる。それによって結界はこの部屋全体に発生し、外からの侵入を防ぐ。本当はこの宿場全体に結界を発生させることができれば一番いいんだが、さすがにそこまではな」
そう説明するキリコに、シェリルが愚痴を漏らしてきた。
「それにしても、護符を貼ったら部屋から外出してはだめなんて、なんだか息苦しいわね。他にもっと気楽で簡単で安全な方法はないの?」
「……もうひとつ別の方法があるが、そっちのほうがいいかな」
「どんな方法?」
そう問いかえすシェリルに、キリコは悪戯っぽく笑ってみせた。
「簡単さ。この部屋で俺と朝まで一緒にいるのさ。寝るときも両手をつなぎ、互いの足をからませ、身体を密着させながらひと晩をすごす。そうすれば、万が一、カルマン卿が寝こみを襲ってきたとしてもすぐに対応できるからな。どうだ?」
「な、な、なに言っているのよ、あんたは!? そんなこと駄目にきまっているでしょう!」
このハレンチ役人! スケベ聖職者! オゲレツ武僧! と、顔を熟れたトマトのように赤くして悪口雑言をまくしたてるシェリルを、キリコは糸のように細めた目で見すえた。
「それが嫌なら言われたとおりに護符を扉に貼って、朝まで部屋でおとなしくしていろ。カルマン卿に寝こみを襲われて、頭からガツガツと喰われたくなかったらな」
「うっ……」
短くうめいたきりシェリルは沈黙したので、キリコもそれ以上は追撃せず、護符の貼る位置をシェリルにしめした。
「貼る位置は窓と同様、扉の上下左右の四ヶ所に二枚ずつだ。それぞれの護符の位置が直線上で交差するようにな。正確に貼れば貼るほど、護符の効力は発揮される」
「はいはい。わかりました」
シェリルはひとつ肩をすくめ、キリコから護符をうけとった。
「じゃあ、俺は少しでかけてくるから。ちゃんと護符を貼るんだぞ」
そう言うなり部屋から出ていこうとするキリコに、シェリルは目をしばたたかせた。
「でかける? どこに?」
「ウイリバルト司教長にあいさつをしてくる」
「ウイリバルト司教長?」
「ああ。このライエンを中心とするジェノン北部管区の担当司祭だ。ここから大通りをふたつほどはさんだ場所に赴任先の教会がある。司教長に託したい物もあるし、あいさつをかねて顔を出してくるよ」
本来であれば昼間のうちに司教長のもとをたずねる予定であったのだが、ジェノン兵との予想外の騒動にくわえ、その後の後始末に時間をとられてしまい、結局、夜になるまでずれこんでしまったのだ。
ゆっくりと階段をおりていくキリコの背中に視線を注ぎつつ、シェリルはどこか感心した口調でつぶやいた。
「ふうん……なんだかんだいっても、やっぱりファティマの人間なのね」
シェリルは扉を閉め、手にする護符を扉に貼りはじめた。
†
ライエン市内のほぼ中心部。市の政庁舎や警備兵団の屯所などが林立する行政区の一角に、無数の緑林樹が斜面に自生する高台がある。ライエン領主ギュスター伯爵の屋敷はその頂きにあった。
東西と南方には市街地の主要部を望み、北を向けばエルド内海へと続く山岳地帯を見はるかして、眺望がすばらしい。
この屋敷、以前は前領主家たるリドウェル一族が所有する別荘のひとつであったものだが、内戦後にライエン領をあたえられたギュスター伯爵が、自身の屋敷として接収したのだ。
ひとつの都市。それも、規模としては国都ガルシャにつぐ大都市の領主ともなると、眺望にかぎらず邸宅じたいも豪華であるのは当然のことであろう。
高さが三メイル(約三メートル)にも達する厚い石塀が、周囲九百メイル(約九百メートル)にもわたってめぐらされた広大な敷地内にはところどころに亜熱帯樹が植えられ、それらの樹木に囲まれるように本館を中心に大小七つの屋敷が建っている。
さらに建物に接するように造られた中庭には、それぞれに人形を形どった噴水、蓮の葉などが浮かぶ涼しげな池、菩提樹の森といった贅と趣向をこらした景観が広がっていた。
陽も沈み、天空の主役を初夏の半月にゆずって間もない時分。そのギュスター邸へと続く高台の坂道を、四頭立ての四輪馬車が数台、馬蹄をとどろかせながら疾駆していた。
豪奢すぎるほどの装飾をほどこされた馬車本体もさることながら、それを牽引する見事な毛並みの馬たちといい、高貴な人間の所有物であることが窺い知れた。
やがて敷地の南側に位置する正門前にいたったとき。その到着を待ちかまえていたかのように、蔦のからんだ厚い鉄扉の門がにぶい金属音をたてて開いた。
その門をくぐりぬけ、ふたたび馬車の群は敷地内を走りだす。
ほどなくその行く手に見えてきたのは、屋敷本館の正面玄関である。
すでにそこには主人であるギュスター伯爵が屋敷の家人たちをともなって、馬車の一団を出迎える準備をしていた。
ほどなく馬車は玄関前で停車し、家人たちがすばやく駆けより扉を開けた。最初にそこから姿を見せたのは白すぎるほど白い、鮮麗な顔だちをした若い女性であった。
腰にまで届く長髪は黒真珠を溶かして染めあげたように黒く輝き、ふたつの瞳は初夏の万緑を映したようなあざやかな碧玉石色をしている。
女性の名はエリーナ。先の内戦で死んだ前ジェノン国王、イスファン二世の遺児である。
そのエリーナから遅れることわずか。同じ馬車から降りたったのは一転して中年風の男であった。
鋭い眼光と高さと幅と厚みのある威風堂々とした体躯の所有者で、顔の半分近くを豊かで強い口髭でおおいかくし、一見、獅子を思わせる風貌をしている。
ギュスター伯爵をはじめとする屋敷の家人たちが低頭して出迎える中を、男はいっさい彼らを顧みることなく、ごう然とした足どりで屋敷の中に消えていった。
男の名はリンチ。現在のジェノン王国にあって至尊の座に鎮座する人物であった。