第一章 争乱の王国 その④
「お買いあげ、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
嬉々とした店員の声を背中でうけとめながら、シェリルは満面の笑みとともに店を後にした。
「つい衝動買いしちゃったわね。まあ、しょうがないか。ひさしぶりの買い物だもんね」
両手に抱える複数の買い物袋を見つめながら満足そうにつぶやくと、シェリルは活気と喧騒にみちた商店街の通りを、颯爽とした歩調で歩いていった。
数多くの商店が通りをはさんで軒を連ねている場所だけあって、すれちがう人々の中には同じように買い物袋を抱えている姿がみうけられる。しかし、シェリルのように左右の手にそれぞれ四袋も抱えている人間はさすがにいない。
快楽亭でひと騒動が起きていた同時分。「疲れて寝ているのだろう」というキリコの予想をあざ笑うかのように、シェリルは元気いっぱいに街の中を歩きまわっていた。
その目的は市街での買い物で、キリコが眠っている間に宿を出たシェリルは、ライエン市中でもとくに高級品を取り扱っている商店がひしめく一等商業区に足を運んだのである。
そこで洋服店、靴店、宝石店、雑貨店と、商店という商店をめぐってまわり、そのつど買い物袋の数を増やしていったのだが、男爵令嬢の購買意欲に満足という言葉はないらしく、次なる商店をさがし、通りを歩きながら両目を左右にあわただしく動かしていた。
そのシェリルの目と足の動きが止まったのは、美容院の前にいたったときである。
店舗の飾り窓には客への参照のためか、さまざまな髪型の女性が描かれた絵が幾枚も貼られてあったが、シェリルが見つめていたのはそのどれでもなく、ガラス窓に映る自分の頭髪だった。
ぼさぼさとしたまとまりのない自分の頭髪に、たちまちシェリルの表情がくもる。
おもえばあのジェラード邸での事件以降、貴族のたしなみである「美の追究」に、とんと無頓着になりがちだった。高貴な諸侯の令嬢としては恥ずべき怠慢といえよう。
「考えてもみれば、なんで男爵家の令嬢である私が薄汚れた格好のままで旅をしなければならないのよ。それというのもみんな、あの鈍感でがさつな男のせいだわ。うら若き乙女にひどい格好をさせていても平気な顔をしていられるんだから、ほんと、神経を疑うわよ」
生命の恩人をこきおろすだけこきおろすと、シェリルは美容院の扉に手をかけた。
自らに関する深刻で重大すぎる事実を思いだしたのは、まさにそのときである。
「ちょ、ちょっと待って……旅?」
扉のノブに手をかけたまま、シェリルはおもわず心身を凝固させた。
自分がなぜ故郷を離れて、キリコとともに聖都ファティマをめざして旅をしているのか。その理由を思いだしたからだ。
故郷を離れた理由を思いだすと同時に、シェリルはそれ以上に重大で、かつ深刻すぎる事実をも思いだした。すなわち、自分がいかに危険な立場にあるかという事実に……。
「そ、そうよ……のんきに買い物なんかしている場合じゃないわ……!」
たまらず声をわななかせたシェリルは、自分の軽率さにあやうく卒倒しかけたものの、それはなんとかこらえた。
こらえると同時にシェリルは買い物袋のひとつから絹製のストールを取り出し、それを頭からかぶるとその場から一目散に駆けだしていった。通りを往来する人々の、奇異の念にみちた視線を浴びながら……。
†
「なにをしているんだ、キリコさん!?」
酒場内にヘルトのわななき声が響いたのは、キリコが警備兵団の兵士を一人残らず店の外に叩きだし、なにごともなかったような態でカウンター席に戻ってきたときだった。
その姿はまさに周章のきわみ。声も表情も蒼白にして駆けよってきたヘルトに、キリコはごく平然とした態で応えた。
「悪かったね、マスター。店をこんなにして。壊れた物はすべて弁償するから、遠慮なく言ってくれ」
兵士たちとの乱闘のはてに、快楽亭の店内はまるで竜巻でも発生したかのような惨状と化していた。
壁板はへし折れ、床板は抜け落ち、大きな穴がいくつも穿たれている。
テーブルや椅子は脚の部分が折れた状態でひっくりかえり、砕けた料理皿やグラスの破片が料理の具材や飲み物の液体とともに一帯に散らばっていた。
こうなると修理のために大工を呼んだり、新しい調度品に買いかえなければならないのだが、ヘルトが問題にしているのはそんなことではなかった。
「そんなことはどうだっていい! それよりも早く逃げるんだ。今すぐに!」
「逃げる? どうして?」
「ど、どうしてって……」
キリコに真顔で反問されて、返答に窮したヘルトは声を詰まらせた。
開かれている口はもごもごと動いてはいたが、そこから声らしきものはまったく聞こえてこない。
それでも事態の深刻さをキリコの百倍は理解しているヘルトはすぐに気をとりなおし、あらためて逃亡をうながした。
「悪いことは言わない、早く逃げるんだ。いや、店からだけじゃない。このライエンからもだ。あいつらは必ず報復にくる。自分たちの顔に泥をぬられて、黙っているような連中じゃないんだ!」
そこに店の常連らしき初老の男が、厳しい顔つきで声をはさんできた。
「マスターの言うとおりだ、お若いの。連中の集まる警備兵団の屯所は、ここから少しばかり離れた街の中心部にある。今頃、そこに駆けこんで事情を説明し、仲間を集めている頃だろう。そう、あんたを捕まえにくるためにな」
「そうだ。そして捕まったら最後、なにをされるかわかったものじゃない!」
警備兵団屯所の地下には大規模な獄舎があり、そこでは捕まった人々が、日々、拷問まじりの過酷な尋問をうけているともっぱらであった。
だが、必死の形相でそう説明する二人に、キリコは小首をかしげてみせた。
「だけど、俺は捕まるようなことはなにもしていない。悪質な酔っぱらいから女性を救っただけだ。騎士道精神にもあるだろう、危を見てせざるは勇なきなりと……」
まあ、俺は僧侶だけど。キリコがそう胸郭でつぶやき終えないうちに、ヘルトがふたたび悲鳴のような声をあげてきた。
「そ、そんな理屈がとおるような連中じゃないんだ。奴らにとって騎士道精神がどうのということよりも、自分たちの面子を守ることが……」
そのとき、店の軒先がにわかにざわめいたかと思うと、出入り口の扉の前に立っていた客の一人が血相をかえて叫んだ。
「大変だ、警備兵団の連中が大勢でこちらにやってくるぞ!」
「な、なんだってぇ、こんなに早く来たのか!?」
驚愕のあまり、ヘルトはおもわず飛びあがった。兵士たちの戻ってくるのが、予測をこえて迅速かったからだ。
無数のざわめき声、無数の怒号、無数の地面を踏みならす疾駆音との三重奏が店の外から聞こえたきたのは、それからすぐのことである。
「出てきやがれ、赤毛野郎! さっきの落としまえをつけにきてやったぜっ!!」
「も、もうだめ……」
とどろいてきた獰悪な声に、ジェシカなどは今にも卒倒しそうである。
だが、当事者たるキリコはというと、そんな声にもまるで反応せず、それどころかカウンター席に座ったまま平然と葡萄酒などを呑んでいる。
そんなキリコの余裕然とした姿が見えたわけではないだろうが、獰悪きわまる第二声が脅迫の要素を含んでとどろいてきた。
「さっさと出てこい! それとも店に火をつけられて、いぶりだされたいのかっ!!」
「やれやれ。ばかどもが……」
辟易とした声を漏らし、キリコはグラスの葡萄酒をひと飲みして立ちあがった。
さすがに店にまで被害がおよぶようなことを言われては、無視しつづけることはできない。
「キ、キリコさん……」
店から出ていこうとするキリコに、ジェシカが泣きだしそうな顔で泣き声にも似た声を向けてきた。
「心配しなくていいよ、ジェシカ」
微笑をたたえながらジェシカの肩をポンとたたくと、キリコは両開きの扉を押してゆっくりと店の外に出ていった。