第一章 争乱の王国 その②
「ここが私の店だよ」
そう言って、ヘルトは石畳の路地の一角に馬車を止めた。
ヘルトが営む〈快楽亭〉という酒場を兼ねた宿屋は、ライエン市内においておもに宿場や商店などの商業施設が建ちならぶ商業区の一角にあった。市内中心部へと続く大通りに面し、地上五階建てで総花崗岩造りの、なかなかに立派で美しい建物である。
馬車を降りたヘルトは、少し遅れて荷車から降りてきたキリコとシェリルを店内に招きいれた。
「二人とも、急ぐ旅でないのなら今日は泊まっていきなさい。助けてくれたお礼だよ」
そう言われては二人に断る理由はない。
キリコとしては、シェリルをできるだけ早くファティマに連れていきたい気持ちもあったが、一日や二日、時間を費やしたところでたいした影響はないと判断し、ヘルトの厚意をうけることにした。
両開きの扉を押して三人が店内に入る。
足を踏み入れた一瞬、微量の異臭がキリコとシェリルの鼻孔を刺激した。
魚、肉、酒、その他、さまざまな臭いが混合したものだった。
といっても、店の一階部分にある酒場はまだ開いておらず、客は一人もいない。
おそらくは店の内壁や床にしみこんだ臭いなのであろう。
さすがにヘルトは慣れているようで、なにも感じないかのように平然としている。
店の中は天窓からさしこむ光で十分に明るかったが、さえぎるものとてない屋外の明るさと比べれば、さすがに薄暗さは否めない。
キリコとシェリルは目が慣れるまで時間がかかり、ややあって、ようやく目がなじんできたとき、二人が店内に見たのは店の使用人と思われる男女の姿だった。
各自、ほうきやモップ、雑巾などで、テーブルや椅子、床板などを掃いたり拭いたりと、開店にむけてあわただしく掃除をしている。
「おーい、帰ったぞ」
ヘルトが声をかけると、彼らは呼応したように作業の手を止め、用具類を手にしたままヘルトのもとに駆けよってきた。
顔中しわまみれの老人から年端もいかぬ少年まで、店で働く人はさまざまだ。
その中の一人。店の番頭とおぼしき、白髪頭の初老の男が三人の前に進みでてきた。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
「ああ、ただいま。ロッド、路上に馬車を止めてある。裏口にまわして、中の荷物を地下の倉庫に運んでおいてくれないか」
「かしこまりました」
ロッドと呼ばれた男はうやうやしくうなずき、使用人を三人ほど連れて外に出ていった。
次にヘルトは、今度はシェリルと同年齢と思える娘に声をかけた。
小柄で細身の、鼻のあたりにかすかに残るそばかすが印象的な少女だ。
「それとジェシカ。こちらのお二人を部屋まで案内しておくれ。三階の単身者用の部屋がまだ空いているはずだ」
「はい、旦那さま」
「それじゃあ、お二人さん。この娘についていってください。私は開店の準備があるので、これで失礼させてもらいます」
ヘルトが店の奥へと消えると、ジェシカという下働きの少女が二人に声をかけてきた。
「じゃあ、私に着いてきてください。階段はこっちですよ」
にこりと笑うと、ジェシカはカウンター席の横に設けられた階段をあがっていった。
キリコとシェリルもその後に続き、二人通るのがやっとのせまい階段をあがっていく。
「私はジェシカというの。あなたたちは?」
「私はシェリルよ。こっちはキリコ」
よろしく、とキリコがうなずく。
「よろしくね。それで、ライエンには新婚旅行かなにかできたの?」
「……し、新婚?」
意外すぎる言葉を向けられて、一瞬、シェリルはあ然とした。
ひとつには、まさかそんな風に見られているとは思っていなかったこともある。
わずかな沈黙後、シェリルは助けをもとめるようにキリコに向き直ったが、そのキリコはというと、軽く肩をすくめて苦笑しただけだ。詳しい素性をあかせない以上、苦笑するしかないというわけだ。
ひとつ咳払いし、シェリルはジェシカに向き直った。
「ち、違うわよ、ジェシカ。勘違いしないで。別にこの人は、私の旦那さまでもなければ恋人でもないわ。ただの護衛よ、護衛」
「護衛?」
「そうよ、ファティマに着くまでのね。ライエンにはその途中で立ちよったの」
ファティマに帰還し、教皇庁でジェラード侯爵邸での一連の怪事を報告するとともに、シェリルを領内で保護する。それが二人の旅の目的であるのだが、むろん詳細を話せるわけもなく、それがさらなるジェシカの勘違いを誘ったようだ。
「へえ、聖地巡礼ですか。二人とも、お若いのに敬虔深いんですね。私なんか教会でやってる週末礼拝にいくのもさぼりぎみなのに」
一人得心した声を漏らすジェシカの背後で、キリコとシェリルは顔を見あわせて苦笑した。
やがて三階にたどりつくと、ジェシカはポケットから二本の鍵を取り出し、それをキリコとシェリルに手わたした。空いている三部屋のうち、三〇五号室がキリコの、隣の三〇六号室がシェリルの部屋となった。
渡された鍵を手にキリコが室内に足を踏み入れると、青いカバーが掛けられたシングルベッドが一番に視界に映った。
室内には他に木製の丸テーブルと椅子がひと組ずつあるだけで、全体的に質素な雰囲気だ。
カーテン一枚でさえぎられた総タイル張りの浴室は単身者用にしては大きめで、かつ清潔な造りである。
カーテンを閉め直してからキリコはジェシカに向き直った。
「うん、悪くない」
「でしょう。あと部屋の鍵だけど、外出するときは自分で持っていってもいいし、フロントにあずけてもいいからね。それと一階の酒場がはじまるまでまだ時間があるけど、お腹がすいているのならなにか持ってくるわよ」
「いや、腹はすいていない」
「そう。それじゃあ、なにかあったら呼んでね。私は一階の酒場にいるから」
そのとき、隣の部屋からジェシカを呼ぶシェリルの声が聞こえてきた。
慌てて部屋から駆け出ていくジェシカの後ろ姿を見送ると、キリコは部屋の窓を開け、そこから望める街並みを眺めやった。
異国に開かれたジェノンの飾り窓。ライエンの人々は、自分たちが住む街をそう呼び、誇りに感じている。その言が誇大なものでないことは、通りを見れば一目瞭然であった。
白色、黒色、褐色と、さまざまな肌色をした異国人たちが街の中に溶けこみ、まるで自国にいるかのように堂々と大通りを往来している。このライエンが平穏で活気にみちた都市である証左であろう。
ヘルトの話では、国軍と義勇軍との抗争が各地で続いているらしいが、その余波はこのライエンには及んでいない。少なくともキリコにはそう見えた。
だが、キリコも千里眼の持ち主ではない。
その平穏な街に争乱の嵐が近づいていることなど、このとき知るよしもなかった。
†
キリコが宿の窓から街並みを眺めていた同時分。ライエン市街へと通じる一本の牧草路を、四頭だての四輪馬車が馬蹄を響かせながら駆けていた。
それは貨物の運搬などに使う貨物馬車であったが、貨車には荷物の類はなく、かわって二十人ほどの男たちが乗っていた。皆、作業用の地下足袋を履き、頭には麻で造られた布を巻いている。
浅黒く日焼けしたその風貌からして、どうやら彼らは人夫の一団らしい。少なくとも第三者にはそう見えるであろう。
ほどなく馬車は、街はずれの検問所に到着した。
馬車を駆る馭者の男――麦わら帽子を深くかぶり、口のまわりに灰色のひげを生やした中年の男は馬車を止め、近づいてきた検問係の兵士に一冊の手帳を手わたした。市街地に入るための通行許可証である。
検問係の兵士は、うやうやしくさしだされた手帳を奪いとるように手に取り、それがガルシャ発行の通行証であることを確認した。
「ふん、国都からきたのか」
じろりとした目つきで馭者の男を見すえると、係の兵士は貨車のほうにまわり、幌をめくりあげて中を覗きこんだ。
貨車内にいならぶ人夫風の男たちの姿に兵士は両眉をしかめ、ふたたび馭者の男に声を放った。あきらかに詰問調である。
「おい、貨車に乗っているこの連中はなんだ? まさか、反乱軍に加担している叛徒どもではないだろうな?」
ジェノン義勇軍の兵士と彼らを支援する人々を、国軍の兵士たちは悪意と憎悪をこめて叛徒と呼んでいる。
本来は、背教者や異端者などに向けられる宗教上の呼称であるが、ともかく検問係の兵士がそう質したのは、男たちに不審なものを感じとったからではない。馭者の男を含め、彼らがライエン市民ではないよそ者であることを知り、遠まわしに「ある物」を要求しているだけなのだ。
「めっそうもございません。この者たちは教会の改築工事のために王都から呼びよせた、いずれも腕のよい職人たちにございます」
そう説明した後、馭者の男は内懐の中から小さな革袋を取り出し、それを兵士にそっと手渡した。
「いつもライエンの治安を守るためにご苦労さまでございます。これはささやかながら、私どもからの感謝の気持ちにございます。どうぞ、お受け取りください」
革袋を手わたされて、兵士の表情がたちまちゆるんだ。
その感触から、袋の中身が金貨であることをすぐに察したのだ。
ざっと五、六枚といったところか。兵士は研ぎ澄まされた重量感覚を発揮して中の枚数を正確にはじきだすと、革袋をさっと内懐にしまいこんだ。他の兵士に見られて分け前を要求されてはたまらん、といったところであろう。
「よし。では行っていいぞ。改築工事の方、しかと頼んだぞ」
その口調と表情は、検問所到着時に見せたものとはあきらかに異なるものだった。
「はい、心得ております」
うやうやしく一礼した後、馭者の男はふたたび手綱を取り、馬車を走らせた。
馬車が動きだしたことに貨車内の男たちは一様に安堵の息を漏らしたが、むろん外の兵士たちには気づきようもない。
やがて検問所の建物が豆粒ていどにしか見えない距離まで遠ざかったとき、馬車を駆る麦わら帽子の男は貨車内に向かって声を放った。
「ここまでくれば、もう大丈夫ですぞ、フランシス様」
「ああ、そのようだな」
声とともに貨車の小窓から顔を覗かせたのは、二十代半ばとおぼしき青年であった。
頭に巻かれた麻布からは金色の髪がのぞき、両の瞳は透きとおるような碧い輝きをたたえている。長身だが華奢に見える身体と、繊細といっていいその容姿には気品を感じさせ、威圧感や力感とは無縁に見える。
だが、表面をおおう気品という衣の中には、強烈なまでな知勇の活力が脈打っていることを一部の者だけが知っていた。馭者の男と貨車に乗る人夫風の男たちは、その一部に属している。
彼らはある共通の目的のために生死をかけた行動をともにする間柄であり、フランシスと呼ばれた金髪碧眼の青年は彼らを統べる立場にあった。
「貨車の中を見られたときはさすがに肝を冷やしたが、なんとか無事にライエンに入ることができたな、ハウル」
ハウルと呼ばれた馭者の男は、馬車を操りつつ応えた。
「はい。さすがにガルシャ発行の許可証を見せられては、まず疑うことはありますまい。それにとどめも刺しておきましたゆえ」
男のいう「とどめ」というのが、兵士への賄賂であることは言うまでもない。
やがて馬車は市街地へと入り、商業区の大通りをそのまま中心部に向かって駆けていった。
その途中、〈快楽亭〉という宿屋の前を横切ったことや、そこの四階の部屋からキリコという若者が自分たちの乗るこの貨物馬車になにげなく視線を注いでいたことなど、金髪碧眼の若者も馭者の男もむろん気づいていない。
「ところでフランシス様。ガルシャに潜伏している同士からの報告では、あのリンチめが国都を発ってこのライエンに向かったのが五日前とのこと。道中になにごともなければ、今日か明日にも到着するでしょうな」
声を向けられて、金髪碧眼の青年は小窓越しにうなずいた。
「うむ。奴らより早くライエンに着いたのは幸いだが、喜んでばかりもいられない。奴らの滞在先はギュスター伯爵の屋敷にまちがいないであろうが、問題はどうやって邸内の様子をさぐるかだ」
「それにつきましてはご心配なく。すでに手は打ってあります」
口もとに自信の笑みをたたえ、馭者の男は語をつないだ。
「すでにギュスター邸には、わが娘ハンナをはじめとする間者を数人、使用人として潜らせております。リンチ一行が到着しだい、すぐに連絡をいれるように命じてあります」
「なに、ハンナを?」
馭者の男の言葉に若者は一瞬、驚いたように両目をしばたたいたが、すぐに得心したようにうなずいた。祖父の代から仕えるこの馭者の男が機知に富み、間者や斥候を使うことに長けていることを、今さらながらに思いだしたのだ。
「そうか。ならば、まずはライエンに潜伏している同士たちとの合流を急ごう。すべてはそれからだ」
「はっ、かしこまりました」
馭者の男は四頭の馬に鞭をいれ、馬車の速度を加速させた。
その馬車の小窓から、金髪碧眼の若者は流れゆくライエンの街並みを、どこか感慨にみちたまなざしで見つめていた。
それも当然で、彼にとってこのライエンは幼少の頃からすごしていた郷里であり、こうして足を踏み入れるのはじつに三年ぶりのことだったのだ。
若者の名はフランシス・ド・リドウェルといった。
先の内戦で戦死した前のライエン領主レイモン・ド・リドウェル侯爵の遺児であり、王権に反旗をひるがえすジェノン義勇軍の若き指導者にして、内心で彼ら義勇軍に快哉を叫んでいる民衆から「反逆の貴公子」と呼ばれている人物であった。




