序章 彷徨える魔人 その②
愕然とした態でカルマンは声をあえがせた。
たちまち呼吸と鼓動が速まり、額や首筋に汗が光る。
ややあって、まるで催眠術にかかったかのような動きでカルマンは立ち上がり、だがすぐに膝を折って片膝を地面につけ、その場にかしこまった。
まるで畏怖が見えない糸となってカルマンを操り動かしたようであり、微動することなく黙してかしこまるその態は、さながら敬虔な教徒が神かその代理人にぬかずく姿を思わせた。
事実、見えざる者に対してカルマンは、まさしく「下僕」にすぎなかった。
カルマンはひたすら見えざる者が語を継ぐのを待っていた。
沈黙のベールが破れたのはそれからまもなくのことである。
ふたたび声ならぬ声がカルマンの脳裏に響いてきたのだ。
(我との誓いを忘れたのか、カルマン?)
その声はどこか朗読調であったが、一方で、カルマンを糾問する響きに満ちていた。
そのことを敏感に感じとったカルマンが戦慄のあまり声も出せずに沈黙していると、見えざる者がさらに語を継いだ。
(あの夜、お前は我に誓ったはずだ。この絶望から救われるのであればいかなる誓約もいとわない、と。それとも転生した今、都合よく忘れてしまったか?)
「わ、忘れてなどいない……いや、忘れるはずがない」
底知れない狼狽と動揺に声をわななかせつつそう抗弁するカルマンに、見えざる者はさらに糾問の響きを強めた。
(ならば、ここでなにをしている? なぜファティマを目指さぬ? なぜかの地に眠るわが肉体を奪還しようとせぬ? お前は誓ったはずだ、かならずその手で奪い返してみせると。それともあの夜の誓いは口先だけの騙りであったか、光輝ある諸侯カルマン・ベルド卿よ)
「ぐっ……!」
見えざる者の嘲るような物言いに、カルマンはひざまずいたまま上下の歯を噛みしめた。
こみあげてくる反発の念を必死で抑えながら沈黙を守るカルマンに、見えざる者は語調をわずかに変えてきた。
(それともファティマの〈猟犬〉ごときに、ただ一度打ちのめされただけで臆したか? それもよかろう。誓いをたがえるというのならばその魔体、我に返してもらうだけだ。元の無力で惨めな逃亡者に戻り、どことでものたれ死にするがいい)
「ま、待ってくれ! そ、それだけは!」
それまでの沈黙の態から一転、血相を変えて悲鳴にも似た声をあげたカルマンに、見えざる者は笑声を漏らしたようであった。
(そうだ、カルマン。謀反人、殺戮犯、そして背教者としてバスク国内のみならず教圏世界全土に追われる身となった今のお前が、絶望もせず臆することもなくいられるのは、すべてその不死の魔体があるからこそだ。その魔体を失えば最後、一月と生きてはおられぬであろうことはお前が一番わかっているはずだ)
「は、はい……」
激しい屈辱の念が胸中を満たしつつも、表面的にはカルマンはうやうやしい態度で首肯した。
見えざる者の指摘は冷嘲と侮蔑に満ちていたが、まぎれもない事実であったからだ。
そう、教圏世界において最重罰とされる背教者として追われる身となった自分が、教圏各国からの厳しい追跡にさらされ、さらにはこのような山奥に潜んでいてもわずかな絶望感すら覚えることなく平然としていられるのは、すべてこの超常の魔体があるからこそなのだ。
もし今、この魔体を失うようなことがあれば、〈彼〉のいうとおり一月と経たぬうちに自分は捕縛の手にかかり、背教者として断頭台の露と消えることであろう……。
冷厳たる現実を突きつけられてもはや激する気力も反発の念も失ったカルマンの脳裏に、見えざる者の意志の波動が峻烈に響いてきた。
(ならば、我との誓いを果たせ、カルマン・ベルド! その魔体をもってファティマを撃ち、そのすべてを滅ぼしつくせ。男も女も、老人も幼子も、牛も羊も、花も草木も、かの地に存在する生あるものすべてを殺しつくし、封じられし我が肉体を我のもとに持参せよ!)
「…………」
一瞬、カルマンは心情の発露を抑えることに多少の忍耐力を必要とした。
こうして声を聞くのはあの夜以来二度目のことだが、見えざる者の語調にはじめて激したものを感じとり驚いたのだ。
それだけに見えざる者の聖都ファティマに対する、否、かの地を本拠とするダーマ神教とその聖職者たちへの底知れない憎悪と怨嗟の念がうかがい知れたが、それにしてもとカルマンは思う。
かの聖都には魂と分離した〈彼〉の肉体が封じられていて、その肉体を奪い返すために自分たち人間を《御使い》に転生させている。
そのことはすでにカルマンも承知していたが、しかし、そもそもなぜ肉体と魂が分離するようなことになり、しかも一方の肉体が封じられているのか。ダーマ神教とはいったいどのような関係と因縁があるのか。
見えざる者の激した語調を耳にして、とめどない疑問とそれを解したい衝動と欲求がカルマンの胸の内を浸したが、声にだして質したのは別の疑問についてであった。
「し、しかし、ヴラドよ。かの聖都には強力な破邪の法が幾重にも仕掛けられていて、その身に〈魔〉を宿したものは決して立ち入ることはできない。たしかあなたはそう言ったはずだ。そうである以上、《御使い》である私にいったいどうしろというのだ?」
すると、見えざる者は一転して沈黙したが、それも長いことではなかった。
(……たしかにお前たち《御使い》が、かの地に足を踏み入れることは不可能に近い。だが、人外にはかなわなくとも〈普通〉の人間であれば容易に踏み入ることができる。明哲なお前ならこの意味がわかるはずだ)
「普通の人間なら……?」
真意をはかりそこねたカルマンに、見えざる者がさらに語を継ぐ。
(自ら手を下そうとするだけが策ではないぞ、カルマン。我がお前たちを支配し、お前たちに命じ、そして動かしているようにな。それは我のみの手法ではないはずだ)
それに対するカルマンの反応は「無」であった。
見えざる者の意味深な言葉を、またしても理解しそこなったのだ。
だが、沈黙を守ることしばし。ほどなくカルマンの面上に異なる表情が浮かんだ。
それは、完全な理解の閃きであった。
カルマンは悟ったのだ。見えざる者の真意と、自分に示唆した「策」の正体を。
「そ、そうか、そういうことか……」
得心したカルマンは噛みしめるようにつぶやいたが、すぐにハッと表情を変えた。
見えざる者がカルマンに示唆した「策」は、可能だとしても一朝一夕にできる類のものではないことに気づいたのだ。
カルマンはうわずった懇願の声を、見えざる支配者に投げた。
「し、しかし、それを成すには時間が必要だ。どうか私に時間をあたえてくれ、ヴラド。時間さえあたえてくれれば、かならずや誓約を果たしてみせる!」
(よかろう……)
返ってきた一語は端的であったが、満足した様子がその声からは感じられた。
(我は待つことには慣れている。我が友ヨシュアによって封じられたあの日より今日まで千年。この先、幾年待つことになろうとなにほどのことがあろうか……)
「…………」
カルマンは沈黙をもって応えた。
見えざる者が発した一語は、他者に向けたものではなく独語であることを察したからだが、沈黙した理由はもうひとつある。「我が友ヨシュア」という奇妙な言葉を聞きとがめたからだ。
ヨシュアとは何者であろうか。カルマンは内心でいぶかった。
およそ教圏世界ではありふれた男性の名前だが、カルマンの脳裏に一番に思い浮かんだのは、ダーマ神教の初代教皇ヨシュア一世である。
ヨシュア教皇の生存していた時期と、〈彼〉が口にした封じられた時期というのはたしかに一致するし、それなら〈彼〉の肉体がかの聖都に封じられている理由もわからないではない。しかし、それにしては「我が友」という下りがひっかかる。
まさか、この亜空をさまよう幽魂の魔王と、かの歴史上の大聖人とが「友人同士」であったとでもいうのだろうか……。
黙したままカルマンがそんなことを考えていると、見えざる者の端的な声が耳を打った。
(期待しているぞ、カルマン……)
その一語を端にして、声はむろん、それまで感じとれていた見えざる者の気配も完全に失われた。
「さ、去ったのか……?」
そのことを瞬時に悟ったカルマンであったが、身動きすることなく、膝をついた姿勢も崩そうとはしなかった。
大きな息をひとつ吐きだして立ち上がったのは、それからしばらくしてのことである。
手と膝についた土を払い飛ばすと、カルマンはなぜともなく頭上を見あげた。
本降りになって久しい強い雨滴がその秀麗な顔をたちどころに濡らす。
その面上には、およそこの剛毅な青年には不似合いな、深刻な精神の疲労と消耗とが青黒い影を落としていた。
履行不可避な誓約と絶対的な服従心とをひきかえに、超常の能力と不死の肉体を得たのだという事実を、カルマンは今さらながらに思い知らされたのである。
しばしの時間、カルマンはその場に佇立したまま自らの顔に雨滴をあてていたが、やがてコートのフードを深くかぶり直した。
その奥で輝く両の碧眼には、先刻までちらついていた迷いと苦悩の光はもはやなかった。
「さて、行くか……」
自らをうながすようにつぶやくと、カルマンは雨脚が激しい暗がりの山中を歩きだした。
今この瞬間より、〈彼〉との誓約を果たすための旅が始まるのだ。
明確な道程はないが、終着地だけははっきりとわかっている旅がだ。
はたしてこの旅路が自分が想像している以上に長く険しく困難なものとなるのか、それとも予想外に早く容易に到達できるものなのか。
このときのカルマンにはまるで予測がつかなかった……。