終章 過去、現在、未来 その③
間断なく波の音が聞こえてくる。
ざあざあというざわめきが規則正しく繰り返され、その合間に波が岩に当たって砕ける音がときおり激しく響き、それに合わせて潮の香を含んだ風が吹き寄せてくる。
ライエンの市街地からから北に行くこと約一日。そこにはフェラートの港町がある。
フェラートはライエン随一の海港であり、貿易と海運の中心地である。
市街地にくらべると町の風景や建物などは華やかさや荘厳さに欠けるが、その分、港町特有の活気にあふれており、港湾はもちろんのこと宿屋や市場などの施設もきちんと整備されていて利便性に富み、内海を通じて訪れる異国人たちの評判もよい。
そのフェラートの港町にキリコとシェリルがやってきたのは、その日の正午前のことであった。
目的はむろん、ここから出航する渡海船に乗るためだ。
旅船を謳っているわりには運搬用の貨物船にしか見えない船から、貴族や豪商が乗るような豪華な客船まで港にはさまざまな種類やグレードの船が停泊しており、町に着いたキリコとシェリルはさっそく「さて、どれに乗ろうか」と港内に停泊する船を見てまわった。
「言っておくけど、あんまりオンボロな船は嫌だからね」
というシェリルの強い意向も汲んで、幾隻かの船を見てまわったあと二人が選んだのはボンメルン号という船であった。純粋な旅客船ではなく積載するものが半物半人の商船だが、乗組員と船客合わせて二百人を乗せることができる大型の帆船である。
客船ではなく商船を選んだのには理由がある。
純粋な客船の場合、船客の乗り心地というものを重視して、可能なかぎり船体の揺れを抑えるべく船の速度を遅くして航行するのだが、商船は積み荷の中に野菜や果物といった鮮度が失われやすい荷物もあるため、乗り心地よりも航行の速さと時間を重視する。先を急ぐ二人にとっては商船のほうが好都合なのである。
二人はさっそく船賃を払い、ボンメルン号に乗りこんだ。
商船ということもあり船内には個別の部屋はなかったので、かわりに鍵のついた荷物棚にわずかな手荷物を入れると、二人はふたたび甲板に出た。
すでにそこには二人よりも先に乗船を済ませた百人ほどの船客たちが、甲板上のあちこちにかたまって談笑を交わす姿があった。
船の性格上、やはり観光客や家族連れの類は見られず、時間と船賃を節約したい商人とおぼしき男性らによってほとんどを占められていた。
それだけに場違いなまでにきらびやかな衣服に身をつつみ、どこか興奮したような態で甲板上を小走りで駆けまわるシェリルの姿は目立つのであろう。周囲の男たちから好奇の視線がちらほらと向けられていた。
そのことに気づいたキリコが苦笑まじりに声を投げる。
「あまりはしゃがないでくださいね、お嬢様。どこの田舎者だと笑われますよ」
「う、うねさいわね、わかっているわよ!」
キリコの嫌みに目端をつり上げて反駁するシェリルであったが、やはり好奇心は抑えられないようで、船縁を移動ししつつ海面を覗きこんだり、帆柱の下をぐるぐるとまわったり、船内とのやりとりに使う金属製の管のふたを開けたり閉じたりと、あいかわらず甲板上を動きまわっている。
やがて船縁の一隅で一人ただずんでいたキリコの元にシェリルが戻ってきた。
「ねえ、キリコ。この船ってどのくらいで対岸に着くのかしら?」
「そうだな……この手の商船はいったん出航したら、夜だろうと月明りさえあれば風が止まないかぎり走り続けるからな。遅くとも明日の日の出までには着くだろう」
「そんなに早く着くものなの? もうすこしゆっくり進めばいいのにね」
心底から残念そうな顔を浮かべるシェリルに「先を急いでいることをお忘れですか?」と内心で皮肉るキリコであったが、声にだしてはこう言った。
「そういやバスク王国は内陸の国だったな。これまで船に乗ったことはないのか?」
「あるわよ、一度だけ。別の国の港からだけど、三年くらい前に家族旅行でね。母はこの鼻をつく潮の臭いが苦手だったみたいだけど、私は好きよ」
家族のことを口にした瞬間、シェリルの表情が微妙に翳ったが、それもごく短時間のことで、すぐにもとの明るい表情を回復させると、帆柱のひとつに設けられた大型の銅鑼を指さしながら嬉々とした声をはりあげた。
「あっ、あれ銅鑼っていうんでしょう。一度でいいから叩いてみたいわね。ゴォーン、ゴォーンって、いい音だすのよね、あれ」
そう言うなりシェリルはその場から駆けだしていった。
あいかわらず甲板上をはしゃぐように動きまわるシェリルを眺めながらキリコが船縁でたたずんでいると、商人とおぼしきほかの乗客たちの会話が聞こえてきた。
「おい、聞いたか。義勇軍の連中、今日にも国都に向かって軍を進めるらしいぞ」
「ああ、聞いた。リドウェル候の呼びかけに応じて、けっこうな数の貴族や将軍クラスの騎士が各地から集まってきているらしいじゃないか」
「嘘か本当かわからないけれど、ライエン行幸中にリンチ王が討たれたって話だしな」
「それなら本当らしいぞ。しかも国王に随行してきた近衛隊長とか側近だったライエン領主とかも、義勇軍の虜囚となって獄舎に入れられているらしい」
「けど、いくら国王が討たれたからって、国都に残っているほかの王族や重臣の連中もすぐに降伏するわけないし、こりゃ近いうちにどでかい戦が始まりそうだな」
「そうなりゃ、俺たちにも儲け話が転がりこんでくるかもしれんな」
商魂たくましい彼らの会話に、ひそかに聞き耳を立てていたキリコはおもわず苦笑したが、すぐに笑いをおさめると、視線の先に広がる内海の碧い水面を望みながら、数日前、ファティマのシトレー大司教宛に送った自身の急文のことを思い起こした。
ジェノン王国大将軍ガウエルに《御使い》の疑い有りと記した手紙は、教会を介して送っただけにすでにファティマに届いていることだろう。今頃「なにゆえ《御使い》が人間の王などに仕えていたのか」という自分の疑問にも答えを出しているのかも知れない。
あのガウエル将軍になにかしらの「不逞な野心」があったのは見え透いているが、しかし、それがなんであるかまでは自分には皆目見当もつかない。だが、明哲なシトレー大司教であればおそらく心当たりがあるはずだ……。
そんなことを考えていると、出港を告げる銅鑼の打音が激しく鳴り響き、キリコの鼓膜を刺激した。
船員たちが慌ただしく動き始め、係留用の綱をほどき、碇を上げ、帆柱に帆布を張るとボンメルン号はたちまち動きだし、波を蹴立てて海上を走りだした。シェリルがふたたびキリコの元に戻ってきたのは直後のことである。
「ねえ、キリコ。船首部に行きましょうよ。肌を切るような風がすごく気持ちいいのよ」
「ああ、今行くよ」
片手をあげて応じると、キリコは視界いっぱいに広がる水平線をながめやった。
はるか視線の先の青い海面上には白いものがちらついていたが、それが波なのか海鳥なのかかはわからない。軽く両手を広げて大きく息を吸いこむとキリコは船縁から離れ、シェリルを追って船首部に向かってゆっくりと歩きだした。
めざすファティマまでは、あと七日ほどの道程である。
ライエンにおいて予想外の騒動や予期せぬ《御使い》との遭遇があったように、この先、いつまで続くか保証のかぎりではなかったが、潮の香に満ちた風を浴びてキリコはとりあえず平和そうであった。
――ロゥグ・オブ・セイント2(完)――




