終章 過去、現在、未来 その②
「シトレー卿。いつだったか、この教圏世界における民衆の信仰心の薄れというものについて私が言及したことを憶えておるか?」
「はい、憶えております」
「聖キリコからのこの急文は、まさに私の、いや、われわれ奇跡調査局の中でもかねてから危惧されていたあの〈可能性〉が、現実のものになりうることを意味しておる。このガウエルなる《御使い》がいかなる目的を秘めて人間の王に仕えているのか。その理由、すなわち聖キリコのいうところの〈不逞な野心〉に卿も心当たりがあるはずだ」
「は、おおよそは……」
応じたシトレー大司教の声がわずかにくぐもったが、すぐに声調をととのえて語を継いだ。
「しかしながら猊下。仮にこのガウエルなる《御使い》がそのようなだいそれたことを画策していたとしても、私にはしょせん夢物語としか思えませぬ。いかにジェノン国王リンチ一世が野心的な為人で、かつ信仰とは無縁な憂慮すべき人物だとしても、とてもそのような暴挙に与するとは……」
「はたしてそうかな?」
返ってきたグレアム枢機卿の疑問の声に、シトレー大司教はわずかに目を細くさせた。
ひとつ息をついてグレアム枢機卿は続けた。
「たしかに以前の、そう、われらが若い時分の世のことであれば一笑に付すことができたであろう。しかし、ダーマ神教および教皇庁に対する信仰と信頼への揺らぎというものが肌で感じられる昨今では、可能性が皆無とは必ずしも言いきれまい」
シトレー大司教が沈黙を守る中、グレアム枢機卿がさらに語を継ぐ。
「幸いにも今回は、聖キリコの慧眼によって未然の内に防ぐことができるであろう。だが、本当の問題は別にある」
「それはつまり……」
「そう、今回の件が氷山の一角やも知れぬということだ」
グレアム枢機卿の一語に、シトレー大司教は小さく息を呑んだ。
「すると猊下は、第二第三のガウエルが教圏国の中に存在するかも知れぬとお考えで?」
「考えたくはないがな」
グレアム枢機卿が応じると、しばしの間、重い沈黙の紗が執務室内を包みこんでいたが、やがてシトレー卿の声がそれを破った。
「……その身に〈魔〉を宿している以上、決してこの聖都に足を踏み入れることはできない《御使い》が、〈その手段〉を用いてヴラドの肉体を奪還に来るのではという懸念の声は、われわれ奇跡調査局の中にも数世紀前からありましたが、真剣に対抗策を講じたことはこれまでありませんでしたな」
「仕方あるまい。教圏国がこのファティマに刃を向けてくる可能性など、先達者たちにとってはまさに絵空事、妄想の域すら出ない話であったろうからな」
「それが昨今では、妄想どころか現実の問題として危惧せざるをえない状況にある。先達者たちが知ればなんと思うことでしょうな」
「おそらくこう叱責するであろうよ。いわく『それは汝らの不徳が招いた結果だ』とな」
「返す言葉がありませんな」
「まったくだ」
苛立ちと疲労感をにじませた声で応じると、グレアム枢機卿は机上に視線を落とした。「不徳」の数々が記された洋紙の束が見つめる先にある。
それは毎月のように作成されており、「襟を正せ」という教皇庁からの厳しい通達が日々送られているにもかかわらず、聖職者たちの「堕落ぶり」はいっこうにあらたまる兆しがなかった。
「たった一人の聖職者に対する民衆の不信は、教義と教権に対する不信に容易に増幅することをわきまえていない者が増えてきているようですな。もっとも、そのような愚か者を聖職者として取り立てているのは、ほかならぬわれわれ教皇庁でありますが」
「しかし、嘆いていても問題はいささかも解決されぬ。ここはひとつ聖キリコを見習ってわれらも行動に出ようではないか、シトレー卿」
「と、おっしゃいますと?」
「まずは教圏各国の大臣や将軍といった国政に携わる重臣の中に、このガウエルなる者と似たような経歴をもつ者がいるかどうかを調べてみよう。せっかく聖キリコが詳細な情報を送ってきてくれたのだ。有効に活用しようではないか」
「なるほど。つまり各国の重臣の中に、出自や過去の経歴が明確でない人物がいるかどうかを探るのですな。このガウエルという将軍のように」
「そうだ。さらにいえばジェノン王国のように国内で、もしくは近隣の国々と無用な争乱を起こしている国も怪しむべきであろうな。それが君主の意志によるものなのか、それとも余人の進言によるものなのか、その当たりも含めて調査をすべきであろう」
シトレー大司教が小さく低頭した。
「承知いたしました。しかしながら猊下。各国の内偵におよぶというのであれば、ここはひとつラファーン帝国の力も借りたほうがよろしいかと思うのですが」
「なに、帝国の?」
「はい。たとえば〈風魔衆〉であれば、その種の諜報や内偵は彼らに一日の長がありましょう。われわれがおこなうよりもはるかに正確な情報が集められるかと存じます」
「なるほど、〈風魔衆〉か……」
グレアム枢機卿は腕を組み、得心したようにうなずいた。
風魔衆。それはラファーン帝国の外務府に直属する諜者集団の名である。
その任務は教圏諸国の政情を秘密裏に探る情報収集であり、数千人ともいわれる諜者が各国に潜伏して、日々、担当する国の情勢や動向を外務府に送っている。
同様のことは教皇庁も独自におこなっているが、教皇庁が教圏各国に点在する教会群を通してなかば公然と情報を集めているのに対し、潜伏先の国民に擬装するなどしておこなう風魔衆のそれは完全な隠密活動であり、そもそも組織の存在すら帝国内でも知られていない。その存在を知るのは、帝国でも教皇庁でもごく一部の重臣や高位司教のみである。
「わかった。では、私のほうから帝国の外務府に依頼を出しておこう。幸い、現在の外務大臣のアインフェートン卿は神学校の出身で、私とは旧知の間柄だ。こころよく協力してくれるだろう」
それからしばらくしてシトレー大司教が執務室を去ると、グレアム枢機卿は大窓を開けて露台に出た。
端まで歩を進めて手すりに両手を置くと、枢機卿は頭上にはてしなく広がる夜空を見あげた。
その一角で燦然と輝く不動の恒星を見つめながら、グレアム枢機卿は初代教皇ヨシュアの言葉を思い起こした。
かつてヨシュア教皇は、自らの後継者たちに言ったという。
この地上に信仰心と慈愛に満ちた世界を築けと。
師祖ファティマがダーマ神より託された「神の王国」を実現させ、それをもって地上における〈魔〉の蔓延を防げと。
自分たちの先達者たちはヨシュアの言葉を忠実に守り、血の滲むような辛苦を重ねて今日の教圏世界を築いてきた。
そして現在。初代ヨシュア教皇の御代から時が移ろうこと一千年。先達者たちの苦労は実を結び、今では億を超える人々がダーマ神教の敬虔な信徒としてこの世界に生きている。
表面的にみればそれは未来永劫に渡って不変のようにも見えるが、実情は違う。
ファティマとヨシュア。そして、彼らの意志を継いだ教皇庁の先人らが築き上げてきた「神の王国」は今、かつてない危機の時代を迎えているとグレアム枢機卿は肌で感じていた。
一部の聖職者たちの背教行為によって教会、ひいては総本山たる教皇庁に対する民衆の目は厳しく冷たく、それが人々の信仰心の薄れにつながっている。
それは憂慮すべきほどのことではないという見方もあるが、信仰心の薄れはこの地上に〈魔〉の蔓延を誘う呼び水となり、ひいては「あの男」の復活にもつながることを考えれば、どれほど憂慮してもしたりないということはないのだ。
過去、そして現在に至るまで、幸いなことにその予兆は見られない。だが「揺るぎない信仰心で築かれた世界」などもはや過去のものである以上、現状を放置していれば未来において「Xデー」はかならず到来するであろうとグレアム枢機卿は考えているが、だからといって教圏世界の崩壊する様を座して眺めているつもりなどない。
ファティマの使徒にしてヨシュアの後継者たる自分には、この教圏世界を護り、維持し、亜空から世界の破壊をもくろむ幽体の魔王の野望を阻止する使命と責務があるのだから……。
それまで黙して星々を見つめていたグレアム枢機卿の両目が、にわかに鋭く光った。
「いかなる手段や策謀を用いようとも、決して貴様の思い通りにはさせんぞ、ヴラドよ……」




