第二章 簒奪者対反逆者 その⑩
「し、白刃取りだとっ!?」
「隙ありっ!」
底知れぬ驚愕がガウエルの喪心を誘い、ほんの一瞬、その動きを停止させるにいたった。
その一瞬の隙をキリコが見逃すはずもない。
はさみ止めた剣刃を横に払いのけると同時にガウエルの懐にとびこみ、黄金色の光につつまれた掌をその胸甲にかざした。
「気光砲!」
掌より放出された光の砲弾が胸甲に炸裂した瞬間、強烈な力の前にガウエルは声もなく吹き飛んだ。
黒衣黒冑に包まれた体躯はのけぞった状態で宙空を飛行し、ほどなく床面にたたきつけられて何度となくその面上を跳ねとんだが、ごく短時間のうちに体勢をととのえ、ガウエルは立ちあがってきた。
だが、無惨な形状に窪まった鋼の胸甲がしめすように、その身にうけた打撃は甚大であった。
立ちあがったもののほぼ同時にその口角から鮮血が噴き出し、黒衣の将軍はたまらず片膝からくずれおちた。
「ぐっ、オ、気光か……!」
うめき声を漏らしつつ正面を見すえたとき、おもわずガウエルは両眼をむいた。
視線を投げつけた先に、あるべきはずのキリコの姿がどこにもなかったからだ。
とっさに周囲を見まわしたものの、屋上のどこにもその姿を見つけることはできなかった。
「き、消えただと……!?」
まさか逃げたのか、というありえない可能性が脳裏をよぎったとき。熱風と熱気ただよう一帯にガウエルは殺気の塊のような気配を感じとった。頭上から迫ってくる苛烈きわまりない気配を。
「う、上空かっ!?」
「遅いっ!!」
ガウエルがとっさに頭上に視線を投げつけたのと、頭上からキリコの怒号がとどろいてきたのと、そのキリコが放った強烈な回転蹴りがガウエルの頭に炸裂したのはすべて同時のことだった。
聴く者の心を総毛だたせるような異音がとどろいた直後、またしてもガウエルは声もなく宙空を吹き飛び、またしても床面を跳ね転げていった。
すぐに立ちあがってきたものの、蹴られた頭は首ごとあらぬ方向に折れまがり、口角からはむろん耳や鼻からもおびただしい量の血を噴きださせていたが、むしろ深刻だったのは精神的な打撃のほうであろう。
それを即座に見ぬいたからこそ、両眼に屈辱の毒炎を燃えあがらせるガウエルにキリコはあざけった一語を投げつけたのだ。
「窮鼠、猫を噛むという格言があってな、将軍。たかがネズミとおもって調子にのって追いつめると、逆にとんだしっぺ返しをくらうことになる。いまのあんたのようにな」
「…………」
ガウエルは応えない。
無言で、だが目元や口端を痙攣させたようにひくつかせながらキリコを睨みつけている。
「またひとつ利口になったな、将……!」
ふいにキリコの声が消えた。否、かき消されたのだ。
ガウエルの口からとどろきあがった、人間のものとも獣のものとも異なる亜種の咆哮によって。
その肉体に異変が生じたのは直後のことだ。
こぶし大の奇怪な形の肉こぶが、身体の各箇所で発生し、もりあがり、しぼみ、さらにもりあがるという無秩序な運動をくりかえす。
やがて肉体のうねりに耐えかねて体躯を包んでいた甲冑の留め金がはじけ、甲冑そのものもはじけとび、身体の巨大化とつらなるようにその姿が変貌をはじめた。
両腕と両足が太く長くのびはじめ、深緑色をした鱗のようなものが体面上に出現してきた。
両の頬骨が異音をたてて変形しだすと、あごが上下と前に、口角が左右両側に裂けるようにひろがり、無数の暴虐な牙歯が口角からはみだすように生えてくる。
無言でその様子を見ていたキリコの両眼がにわかにするどく光った。
ガウエルの身体が変貌を終えようとしていたのだ。
床に張られたレンガ材が悲鳴をあげ、亀裂がはしり、砂埃を巻きあげながら小山のような巨影がキリコの眼前でうごめいたのは、それからまもなくのことである。
その姿は、まさに「蜥蜴」であった。
無数の突起がつきでた巨大で平たい頭。
深緑色の鱗におおわれた体躯。
湾曲にのびたするどい爪を生やした四肢。
頭の巨大さとくらべて豆のように小さい丸い両眼からは、溶岩の輝きにも似た灼熱の光が漏れ、左右に大きく裂けた口がひらくと、暴虐な歯牙を舐めまわすように赤色の長い舌が上下左右におどるのが見えた。
キリコのゆうに倍はあるであろう、巨大な体躯の蜥蜴の怪物……。
「……待たせたな、ファティマの猟犬よ」
熱風にのって流れてきたその声は死の威嚇にみち、発声者の容貌にふさわしいまがまがしいものだった。
鼻孔から瘴気のような鼻息を噴きだしつつ、蜥蜴の怪物と化したガウエルが床を一歩、踏みだした。
まさに小山がうごいたかのような圧倒的な量感と威圧感。
その怪異な巨体が歩をすすめるたびに、床に張られたレンガ材が悲鳴をあげて砕けちった。
「よもや超魔態と化さねばならぬとは、正直、きさまの力量をみくびっておったわ。だが、それもここまでだっ!」
赤い丸眼が灼熱の光を発した瞬間、ガウエルの口内奥深くから白濁色をした、一見、唾液のような液体が吐きだされ、キリコめがけてとんできた。
ほとんど本能で危険を察知したキリコは後方にすばやくとびすさり、その液体から身をかわした。
その判断が正しかったことはすぐに証明された。
寸前までの立ち位置に吐きだされた液体が直撃した瞬間、異臭と異音をともなう白煙がもうもうと噴きあがったのだ。
やがて白煙がおさまったあとにキリコが見たものは、床の一角にぽっかりとあいた溶解穴だった。
ガウエルの吐きだした白濁色の液体は、まるで高熱の溶岩を垂れながしたように床のレンガ材を溶かしたばかりか、さらにその下にある花崗岩造りの強固な屋敷の外壁をも溶かしつらぬいていたのだ。
「これは……!?」
おもわず息をのんだキリコの鼓膜を、ガウエルの悦に入った笑声が刺激した。
「グフフ。わが胃液は岩石をも溶かす超高濃度の硫酸でできているのだ。まともに浴びたら最後、人間の身体など骨すら残らぬ。遠慮はいらぬぞ、猟犬よ。きさまもたっぷりと味わうがいいわっ!」
ガウエルは吠えたけり、またも硫酸の胃液を吐きとばしてきた。
まともにくらえば、キリコといえどひとたまりもない。瞬時に左側に跳びのいて、その一撃をかわす。
標的をとらえそこなった胃液はまたしても寸前の立ち位置を直撃し、異臭と白煙とを一帯に噴きあがらせた。
その間もガウエルの執拗な攻撃はくりかえされていた。
とめどなく吐きだされる胃液の連射攻撃を、キリコは右に左に後方にともてる体術を駆使してとびかわしつづけた。ひとつには、吐かせつづけることで胃液が枯渇することを期待してだが、そんなキリコの心底を見ぬいたのか、異形の蜥蜴の怪物は奇怪な顔に奇怪な笑みをたたえた。
「ちょこまかとよく逃げおるわ。だが、こういうのはどうかな?」
直後に吐きだされたのは、それまでの液状のものとは異なる球形状の固体であった。
それが凝縮された胃液の塊であることをキリコが知ったのは、せまりきた一撃をかわしよけた際、床に直撃した塊がまるで水しぶきのように飛散し、うち数滴がブーツに付着したときである。
たちまち異臭をともなう白煙が足もとから噴きあがり、苦痛の悲鳴がキリコの口からほとばしった。
「ぐわあっ!」
たまらずキリコはもんどりうって横転した。
わずか数滴であったにもかかわらず、付着した胃液は厚革造りのブーツを一瞬で溶かしたのだ。
とっさに脱ぎ捨てたため骨にまでは達していなかったものの、足の皮膚はまるで重度の火傷を負ったかのように赤黒くただれていた。戦慄という名の氷滴がキリコの胸郭をすべりおちた。
「な、なんて破壊力だ……!?」
驚異的な溶解力を実体験し、さしものキリコも平静さを保つのは困難であった。
赤黒くただれた箇所からは強烈な痛みが襲っていたが、キリコはそれに耐えてすぐに立ちあがった。
奇怪な高笑いとともに小山のような巨影が接近してきたのだ。
「さきほどの跳剣の返礼だ。そうだな、跳液とでも名づけようかな、グフフ」
笑声まじりにあやしげな造語を口にすると、ガウエルはふたたび胃液の塊を吐きとばしてきた。
痛みをこらえてキリコはその場からとびすさったが、その跳躍距離は先刻までのものとは比較にならないほど短いものだった。負傷した片足に力がはいらず、おもうような跳躍力をえられなかったのだ。
否、それは距離だけにとどまらず、俊敏さをもキリコから奪っていた。
そのことを見ぬいたのであろう。ガウエルの両眼に愉悦の毒炎がゆらめいた。
「フフフ。その足ではさすがの貴様も思うようには動けぬようだな。待っていろ、いますぐに楽にしてやるわっ!」
嘲罵とともにさらにガウエルが硫酸の液塊を吐きちらす。
照準や見当を無視した、まさにめくらうちの連射攻撃。
白濁色の液塊が床を直撃するたびに白煙と異臭とが噴きあがり、そのつど溶解穴が穿たれていった。
負傷した足をかばいつつ、キリコはその苛烈な連射攻撃をかわしつづけていたのだが、ふと気づいたとき、いつしか自分が屋上の角へと追いつめられていたことを知った。
一連のガウエルの攻撃は、一見やみくもな攻めに見えて、その実、キリコを屋上の角へと巧妙に追いこんでいたのだ。
「ぐっ……!」
「もはや逃げ場はないぞ、猟犬。いかにきさまといえど、その足ではこの高さからは飛びおりれまい。もっとも、飛びおりたところで逃げられはしないがな」
鼻孔から瘴気のような鼻息をふきだしてガウエルは笑った。
見る者を総毛だたせるであろうその奇怪な笑いは、まさしく爬虫類の笑いであった。
じりじりとした動きでキリコとの距離を詰めていたガウエルの足がふいに止まった。
屋上の隅に片足立ちでたたずむキリコを凝視する赤い眼が灼熱の光を発したのは直後のことだった。
「死ぬがいい、ファティマの猟犬っ!!」
咆哮につづいて、砲弾の一撃をおもわせる液塊が口角から吐きだされ宙空を走った。
それは、これまでのものよりもひとまわりも大きく、勢いはさらに猛烈だった。
たとえこの一撃をかわせたとしても、あの足では飛散した液滴までは回避することは不可能。
わずか一滴といえどそれは深刻な打撃をあたえ、今度こそ完全に動きを封じるであろう。
そのあとでゆっくりとなぶり殺しにすればいい。
このとき、ガウエルの脳裏ではそこまでの算段がめぐらされていた。しかし――。
「気光態!!」
夜気をふるわせたその叫びがガウエルの計算を根底からふきとばした。
にわかに黄金色の発光体と化したキリコが光の尾をひきながら宙空に飛翔し、せまりきた液塊を寸前で飛びかわしたのだ。
標的をとらえそこなった液塊は一瞬前までのキリコの立ち位置に炸裂し、白煙と異音を噴きあげて屋上の一角を溶かした。その際、無数の硫酸の滴が広範囲にとびちったが、宙高く飛びいたったキリコにはとうてい届くものではなかった。
「な、なんだとっ!?」
一瞬、ガウエルの赤い両眼が驚愕ににごった。
それは必殺の一撃をかわされたこともさることながら、突如として黄金色の発光体と化したキリコの姿に、それまで失念していた聖武僧に対する重要な記憶を思いおこしたからだ。
気光態。自己の戦闘力を瞬時に増強するという、ファティマの聖武僧が使う謎の奇術。
これまで幾度となく彼らとの戦いで目の当たりにしていたにもかかわらず、いまにいたるまで失念していたおのれのうかつさをガウエルは心の底から呪わずにはいられなかったが、自責の念に駆られた時間はごく短かった。
「……ばかめ、自在にうごきのとれぬ宙空に逃げるとはな」
驚愕と自責の念に濁ったのも束の間。蜥蜴の魔人の両眼にふたたび毒炎がゆらめいた。
宙高く舞うキリコの姿に、一度はつかみそこなった勝機を見いだしたのだ。
上空を舞うキリコにふたたび巨大な口角を開き向けると、ガウエルは勝利を確信した咆哮をとどろかせた。
「今度こそ終りだ、猟犬! その肉体、骨ごと溶かしてくれるわっ!!」
「そうはいくかっ!」
キリコはにわかに顔の前で両腕を交叉させると、絶叫とともにふりほどいた。
「気光放射!!」
次の瞬間。キリコの身体をつつみこんでいた光の衣が音もなくはじけた。
否、放射されたのだ。
まるで不毛の砂漠を照らしつける灼熱の陽光のように、キリコの身体から地上にむけて放射された強烈で峻烈な光の波濤は、一瞬にして屋上全域をつつみこみ、まともに直視したガウエルの網膜を灼き視力を奪いとった。
「グワアッ!!」
灼かれた両眼をとっさに手でおおいかくしつつ、悶絶の悲鳴をとどろかせるガウエルめがけて、上空からキリコが急降下してくる。
数瞬の間をおいてその頭頂部に音もなく降りたつと、キリコはすかさずその表面に手刀を突きつけ、叫んだ。
「気光剣!」
光刃一閃! キリコの手刀からほとばしった閃光の刃は頭頂部をつらぬき、そのままガウエルの体内を垂直に一閃した。
頭蓋骨を砕き、脳髄を破壊し、脊髄を断ち、内臓という内臓を容赦なく斬り裂いたあと、体内を一閃した光刃は股間をつきやぶり屋上の床にはげしく突きたった。
さらに遅れることわずか。つらぬかれた頭頂部と股間からは間欠泉をおもわせる膨大な量の血が噴きだし、断末魔の悲鳴がそれにかさなった。
半永遠とも思われるしばしの時間。必殺の致命傷をうけたにもかかわらずガウエルはその場に佇立していたが、やがて落雷をうけた巨木のように倒れこんだ。
その衝撃で床に張られたレンガ材が四方にふきとび、ほぼ同時に噴きあがった砂埃が一帯にたちこめ、帳となって異形の体躯をその中におおいかくした。
ややあって砂埃の帳がとりはらわれたとき。血で織られたカーペットの中に横たわるガウエルは人間の姿をとりもどしていた。甲冑も衣服もない一糸まとわぬ姿で、まもなくおとずれようとしている最期の瞬間を静かに待っていた。
不死の肉体にありえないはずの死が到来したとき、すべての《御使い》は人間の姿をとりもどして死んでいくことをキリコはむろん承知している。
ゆっくりとした歩調でその傍らに歩をすすめたとき。横たわるガウエルはなおもその両眼にかすかな闘志の光をたたえていた。
「いかに《御使い》といえど、脳髄を破壊されては生きつづけることはできない……」
言いさしてひとつ息を吐くと、キリコは冷然と断じた。
「あんたの負けだよ、将軍」
「……ふっ、どうやらそのようだな」
キリコの一語に激情に狂うのかと思いきや、その口から返ってきたガウエルの声には意外にも穏やかな響きがあった。
「なにか言うことはあるかい、将軍?」
急速に死へと心身が傾斜するなかにあって、横たわる敗者はごう然と、それでいて愉快そうに勝者を見かえした。
「そうだな……ひとつだけ言わせてもらおうか」
「聞こう」
キリコが応えると、ガウエルは薄笑いをたたえながら声をつないだ。
「ファティマの坊主どもに伝えてもらおうか。貴様ら猟犬をはなち、われら《御使い》を狩りつづけようとも、いずれかならずわれらの悲願は成就されるとな。そのときこそ千年にわたるわれらの因縁に終止符が打たれ、わが同胞たちは完全なる肉体を手に入れるのだ……」
「……完全なる肉体だと?」
いぶかしげに眉をひそめるキリコを見すえつつ、ガウエルは薄笑いをたたえながら小さくうなずいた。
「そうだ、猟犬。そのときこそわれら《御使い》がこの世の真の支配者となるのだ。もはや誰にも止めることはできぬ。ファティマの坊主どもはむろん、貴様ら聖武僧にもな。ククク……」
声が低くなるにつれ、ガウエルの両眼から光が失われていった。
最後の笑声は音というにはあまり小さく、むしろ唇の微動として発現しただけで、キリコにすら知覚されることなく宙空に消えていった。それは同時にガウエルの命脈が尽きた瞬間でもあった。
血の泥濘に沈むガウエルの亡骸を、キリコはしばし黙然と見つめていたが、やがて静かな一語をそれに投げつけた。
「そんな日は永遠にこないよ、将軍。われら聖武僧がいるかぎり……」
口を閉ざすとキリコは踵をかえし、そのまま屋上から去っていった。
所有者を失ったビロードのマントが熱風によって宙空に舞いあがり、その亡骸とともに猛火の中に消えていったのはそれからまもなくのことだった……。