序章 彷徨える魔人 その①
頭上で黒い濁流が渦巻いている。
それは空を覆いつくす厚い黒雲の群であった。
強風によってかなりの速さで流れているのだが、あとからあとから湧き起こって、途切れることも途絶えることもなく空を覆い隠している。
おかげで時刻は正午を過ぎたばかりにもかかわらず、あたりは日没直後のように暗かった。
それでも希に黒雲が薄くなるとそのわずかな隙間から太陽が顔を覗かせるのだが、燦々と輝くことはなく古い銀貨のように白っぽい光を弱々しくちらつかせるだけだ。
だが、そのていどの弱く薄い陽光ですら、ほんのわずかでも浴びれば「命取り」になる青年にとっては、いつ黒雲がなくなって太陽が姿を見せるかわからない状況下では、用心の上に用心を重ねる必要があった。
すでに暑熱の季節で、じっとしているだけでも汗ばむ気温にもかかわらず、青年がフードのついた厚手の黒いコートで全身を包んでいるのはそういう理由からである。
もっとも人煙まれな山間部のさらに奥深くにある、小山ほどもある巨大な岩の陰で青年が息と気配を殺すようにして身を潜めていたのには、さらに別の理由もあったが……。
「ジェラード侯爵夫妻殺害される。舞踏会に参列していた貴族も巻添えに、か。ふん、気の毒なことだな」
毒はあるが熱のない声で独語を漏らした青年の手には、一枚の紙片が握られていた。
それはバスク国内で発行されている新聞の切り抜きであり、先日、北部の湖水地方で起きたある凄惨な事件についての記事が掲載されていた。
バスク貴族の盟主とうたわれるジェラード侯爵が、舞踏会を開催していた自らの別邸で何者かの襲撃をうけ、夫人ともども殺害されたというのだ。
さらに舞踏会に招待されていた貴族たちまでもが犠牲となり、生存者はわずか「一人」だという。
その唯一の生存者であるランフォード男爵家令嬢シェリルの証言から、殺戮犯の正体と惨劇の詳細が判明したのだという記事を読んで、青年の口端にまたしても毒の含んだ笑みが浮かんだ。
事件の生存者が一人ではなく本当は「二人」であることを、記事でいうところの「大量殺戮犯」である当の青年――カルマンは知っているからだ。
しかし、カルマンの知る「二人目」については、記事の中ではまったく触れられていない。
ゆっくりと紙面から目を離すと、カルマンはなぜともなく周囲の宙空を眺めやった。
「あの小僧……たしかキリコとかいったか。新聞に名前がでていないあたり、どうやらただの小役人ではないようだな」
そうつぶやいてから、カルマンはふいにおかしくなった。
考えてもみれば、あのような得体の知れない奇術を使い、人外の魔人である自分を完膚無きまでに打ちのめせるほどの人間が普通の役人、いや、そもそも人間であるはずがないのだ。
たしか聖武僧とかいったか。
〈彼〉が言うには教皇庁が組織した極秘の兵士らしいが……。
カルマンはひとつ息を吐くと、視線を切り抜きから自分の左腕に移した。
あの夜。「赤毛の小役人」ことキリコに断たれた左腕は、十日がすぎた今ではすでに再生している。
徹底的に打ちのめされて負傷した肉体も同様に完全に癒えていた。
にもかかわらず自らの腕を見つめるその碧眼には、あの夜以前にまでカルマンが所有していた、ぎらつくような矜持と覇気の輝きはまるでなかった。
まるで憑きものがとれたかのように、よく言えば穏やかな、悪くいえば無気力な、なんとも空虚な光がその双眸には見てとれた。
事実、今のカルマンは心身ともにある種の虚脱感にとらわれていた。
これから自らが進むべき「指標」というものを見失っていたのだ。
ひとつには一族の仇敵ジェラード侯爵を夫人ともども殺し、彼に与して一族の破滅に加担したほかの貴族たちも皆殺しにして、自身の復讐心が満たされたという心境の変化がある。
あとは残るもう一人の仇敵であるバスク国王を手にかければ、一族の復讐劇は完全な形で終幕を降ろすことができる。
そのことをカルマンはむろん承知しているが、しかし今のカルマンには国王ハルシャ三世に対する復讐心や怨嗟の念はもはや皆無に近かった。
かのジェラード邸での事件後、警備と監視、さらに追跡の目が厳しくなり、王宮はおろか国都内にすら足を踏み入れることが困難になったこともあるが、たとえ状況が変わらないままであったとしても、王宮に乗りこんでまで国王の首を獲る行動に出ていたか、今のカルマンには自信がない。
厚い黒雲が広がる上空を眺めやりながら、カルマンはふと思った。
はたして自分は、本当にバスク国王を憎んでいたのかと。
たしかに、かつては魂の奥底から憎悪していた。
ジェラード侯爵に諫言をうけいれて国軍を派遣し、一族を討ち滅ぼした当事者なのだから当然であるが、しかし今にして思えば、かの国王も実の息子とその岳父たる外戚の貴族に生命を狙われたのだ。
ジェラード侯爵の謀略が事前に露呈することさえなければ、今頃はハルシャ三世もベルド一族同様に「被害者」側の人間となっていたはずで、それを考えればかの国王への怨嗟の念が消えてもおかしくないとカルマンは思うようになっていたのだ。
怨嗟の念といえば、あらたに加わったもう一人の怨敵、「赤毛の小役人」ことキリコに対する思いにも変化が生じていた。
あの夜。完膚無きまでに打ちのめされ、ほうほうの態で屋敷から逃げだし、断たれた腕が再生するまでの間はたしかに抑制不能の怒りに心身をふるわせていた。
負傷した肉体が治癒りしだい、どこまでも追いかけ、どこにいようとも捜しだし、復讐戦を挑んで自らがうけた屈辱の代価を払わせてやると激情の炎を燃やしていたのだが、しかし、腕が完全に再生したあたりから、どういうわけかキリコに対する憎悪の念もまた薄れていったのだ。
たんに打ちのめされただけではなく、同情心と哀れみをかけられるという二重の屈辱を味わったにもかかわらずだ。
さすがにキリコに対する心境の変化には、カルマン自身も戸惑いを隠せなかった。
ハルシャ三世の場合は自分と同様に被害者側の人間という一面があるから、まだ理解できる部分もあるのだが、あの「赤毛の小役人」に対する怒りの薄れはいったいなにが理由なのだろうか。
ここ数日来、カルマンはそのことばかり考えていたのだが、いまだ答えは見いだせずにいた。
まさか敵である自分にすら哀れみをおぼえた、かの者の寛容さに「美」を感じたとでもいうのだろうか……。
そんなことをカルマンが考えていると、ふいに降ってきた雨滴がその身をおおうコートの革面ではじけた。
最初は数滴ほどの雨であったのだが、徐々に勢いと量を増していく。
どうやら本降りになりそうであった。
「雨か……まあ、ちょうどいい」
どうせ夜になるまではここからは動けないのだ。
それまでの間、この岩陰でのんびりと待つとするか……。
手にしていた新聞を内懐にしまいこんだカルマンが、岩肌に背中をあずけようとしたまさにそのとき――。
(ただの敗北者に成り下がったか、カルマン・ベルド!)
ふいに鼓膜をうった、否、脳裏に直接響いてきた声ならぬその声にカルマンは戦慄し、たちまち全身を緊張させた。
見えざる声の主が誰かなど詮索する必要もなかった。
「ヴ、ヴラド……!?」