第二章 簒奪者対反逆者 その⑤
燃えさかるたいまつの炎が夜風に吹かれ、右に左にかるくゆらめいていた。
その炎に地面が赤く照らされた邸内の一角では、黒々とした人影がうごめいていた。
フランシスを筆頭に数にして十人ほどの義勇軍兵士が馬車庫の周辺を静かに、だが鬼気せまる態で奔走していたのだ。
やがて敷地の四方から馬車庫の前に勢ぞろいした彼らは、そこで待っていたフランシスに焦燥に駆られた表情と声で報告をおこなった。
「だめです、どこにもお姿がありません!」
兵士の報告にフランシスは沈黙をもって応えたが、その顔にひろがる焦慮と困惑の色が報告に対するフランシスの心情を如実に語っていた。
ロベールひきいる本隊とわかれ、裏門から邸内に侵入したフランシスと麾下の兵士たちは、敷地内をすばやく駆けぬけていっきにこの馬車庫にまでやってきた。目的はむろん、馬車庫内に潜み隠れているエリーナの救出である。
ところが、なんなく馬車庫にたどりついたもののそこにエリーナの姿はなかった。
それどころか、一緒に隠れているはずのハンナたちの姿までなかったのだ。
まさかと思い周辺の建物にまで捜索の手をひろげてみたのだが、やはりエリーナたちの姿はどこにも見つけられなかった。
「馬車庫は屋敷にここだけだ。まちがうはずはない!」
「これはどういうことだ。まさか、ハンナたちがしくじったのか!?」
「だが、合図の煙はたしかにあがったぞ」
予想外の事態に直面し、兵士たちの間に不安と困惑の声がかさなった。
それまで沈黙していたフランシスが声を発しようとしたとき、またしても夜気を裂く異音が闇夜にひびき、一瞬後、頭上から無数の矢雨が降りそそいできた。
たちまち悲鳴がかさなり、噴きでた血しぶきが地面にとびちり、甲冑と肉体をつらぬかれた兵士たちが横転する。何者かの哄笑が鼓膜を刺激したのはその直後のことだった。
「まんまとかかったな、叛徒どもっ!」
矢雨同様、頭上からとどろいてきたその声に、フランシスたちは馬車庫からほど近い屋敷の上階に視線を投げつけた。そこに見たのは建物の窓という窓、露台という露台から身をのりだして弓をかまえる弓箭兵の姿だった。
その中に、フランシスは見おぼえのある顔を見つけた。
露台のひとつに銅像のごとく屹立し、愉悦の光をふくんだ視線を地上に投げつけている一人の若い騎士。銀色の甲冑で全身をつつんだ角刈り頭のその男を、フランシスは名前も地位もよく知っていた。
「フロスト近衛隊長!」
「ふふふ。そろいもそろって愚かよな。きさまら叛徒どもにだしぬかれる、われら近衛隊とでも思ったかっ!」
ごう然たる一語を投げつけて、フロストは指音をひびかせた。
直後、屋敷の中や陰に潜んでいた近衛兵の群が疾駆音をひびかせながらとびだしてきた。
馬車庫を背にする形でフランシスたちはあっという間に半包囲され、驚愕にわななく声が内よりわきあがった。
「ば、ばかな、これではまるで……!?」
つい先刻、ロベールが口にしかけた言葉をフランシスもおもわず口にしかけ、だが、おなじように声にはださずにのみこんだ。この状況を前にしていまさら言葉で表現する必要がなかったからだが、それよりもフランシスが口を閉ざしたのは、戦意と殺意をたぎらせた近衛兵たちがフロストの合図とともに殺到してきたからだ。
「こ、侯爵さまをお守りしろっ!」
義勇軍の兵士たちはあわてて剣を鞘ばしらせ、フランシスを守るべく近衛兵との一戦にうってでた。
本館中庭での衝突につづき、ここでも両軍の激突がはじまったのである。
†
「でやああーっ!」
気合いのこもった叫び声とともに闇夜に刀剣の閃きがはしった。
まるで黒雲の中を稲妻がほとばしったかのようだった。
くぐもった悲鳴とともに血しぶきがはね、屍体と化した兵士の肉体が地面に横転し、砂塵があがる。
たいまつのにごった炎が呼応するかのように噴きあがり、血臭のまじった熱気をふきつけてくる。
自分たちは勇敢というより無謀なのではないか。二本の小太刀をふるいながらハンナは深刻に疑わずにはいられなかった。なにしろたった四人で、その数倍もの敵兵と斬りあっているというのだから……。
「三人とも、まだ生きている!?」
ふりかえりざまにハンナが声を投げはなった先では、コルネフ、リンツァ、オルソンという三人の義勇軍兵士が、群がってくる警備兵相手に奮戦する姿があった。
ハンナと同様、その身その衣は血で赤く染めあげられていた。
七割は斬りたおした相手の返り血であるが、二割は自身たちの血によるものだ。
それでも三人の男たちは、気情のきわみ、笑みをたたえて陽気な声を返してきた。
「心配するな、ハンナ。ようやく身体がほぐれてきたところだ。これからが本番よ」
「おおよ。こんな連中にやられるほど、おれたちはやわじゃないぜ」
「まあ、ちょいと小腹がすいてきたていどだな」
三者三様の軽口を耳にして、ハンナはおもわずふきだした。
「あいかわらず言うわね。ところで、あとどのくらい残っている、こいつら?」
「そうだな。ざっと見て、二十人ってとこかな」
コルネフが周囲を見まわしながら応えた。
四人の周囲には血まみれの肉塊と化した警備兵の死屍が、幾重にも折りかさなっていた。
その数はゆうに二十人をこえており、四人の勇猛さと奮戦をしめす証しであった。
それだけに、ハンナたちに残された選択肢は敵兵をことごとく倒すか、その刃にかかって戦死するかのいずれかだった。
このときまで彼らはあまりに勇猛に戦いつづけて敵に甚大な損失をあたえていたので、いまさら投降しても許してもらえそうになかった。それは殺気と憎悪の念を面上にたぎらせている警備兵たちを見ればわかる。もっとも、降伏する気などハンナたちには毛頭なかったが。
一方、彼らの主人であるギュスター伯爵はというと、時期は不明だがこの場から姿が消えていた。
おおかた命令を下すだけ下しておいて、自分一人だけ安全な場所にさっさと逃げだしたのであろう。
そのことに気づいたとき、あの男らしいと四人は納得したものである。
「どうする、ハンナ。いまから投降しても、どうも許してもらえそうにない雰囲気だぜ」
「そうみたいね。じゃあ、あきらめて戦うしかないわね」
「なあに。こうなりゃ一人でも多く、あの世に道づれにしてやるまでよ」
「では、天国での再会を期して、まいるとしますか」
もはや避けようのない死を覚悟した四人は、たがいに顔を見あわせ、うなずき、おのおのが手にする小太刀や長剣を握りなおした。
心の中で父親のハウルに別れを告げたハンナがまず一歩踏みだし、一番に地を駆った。
「いくわよ、三人とも!」
「おおよっ!」
ハンナに遅れることわずか。コルネフ、リンツァ、オルソンの三人も地面を蹴って駆けだした。
向かってくる四人に応戦すべく、警備兵たちは憎悪の念を剣刃に移し、その刃をハンナたちに打ちつけようと動きだした、そのとき。矢音とはまた別種の、夜気を裂く無数の風音が一帯にひびいた。
にごった悲鳴とともに、警備兵たちが次々と地面に横転していったのは直後のことだ。
「な、なに、なんなの!?」
一瞬、ハンナは立ち止まり、突然、地面にくずれおちていった警備兵たちを見やった。
すぐにはわからなかったが、目を凝らして兵士たちを見たとき。彼らの肩や腰、肘や膝といった甲冑におおわれていない部分に、黒いナイフのようなものが突きささっていることにハンナは気づいた。それは致命傷となりうるものではなかったが、警備兵たちから戦意と動きを奪うには十分なものだった。
いったい、なにがおきたのか。おもわぬ事態に思考を停止させた四人は、ぼう然とその場に佇立していたのだが、にわかにハンナが暗闇の一角に視線をとばした。第三者の気配を感じとったのだ。
三人組も遅ればせながらその気配に気づき、あわてて剣を身がまえた。
あわせて八本の視線が一点に注がれたとき、暗がりの一角が帆船の帆のようにゆれ、低い足音ともに建物の陰から一個の人影が出現した。その姿を視認した瞬間、ハンナたちはおもわず息をのんだ。
彼らの前にあらわれたのは、黒い覆面頭巾で頭全体をおおいかくした人物であった。
否、それは頭だけにかぎらなかった。
黒い革の上着、黒い革ズボン、黒い革のブーツという、頭から足の先まで全身黒革ずくめというその姿はあまりにも芝居じみたものであり、このような状況下でなければ四人とも笑声をあげたかもしれない。
だが、不審と警戒の念のほうが強くまさったハンナは、小太刀をかまえつつ正体不明の覆面者に誰何の声を投げつけた。
「あんた、何者?」
敵ではない。そのことはハンナにもわかっている。
敵意や殺気はまるで感じとれないし、なにより警備兵たちをナイフの一投で戦闘不能にせしめ、自分たちを救ったのがこの正体不明の覆面者であることを直感で悟っていたのだ。
それは三人の男たちも同様らしく、いつしか彼らの手にする剣は本人たちも気づかないうちにふりおろされていた。
先刻とはことなる目色で、ハンナはあらためて視線の先の覆面者を見やった。
黒い覆面頭巾からわずかにはみ出ている赤い髪の毛は、この暗闇の中でもはっきりとわかるものだった……。