第二章 簒奪者対反逆者 その③
この日、ライエンの上空は朝から厚い灰色の雲によって隠されていた。
それは昼をすぎ、夕刻となり、さらに夜をむかえてもかわることなく、ライエン市民にとってはついに太陽も月も拝むことのできない一日となったのである。
月明かりのない夜は街全体が漆黒のとばりにおおわれる。
いちおう市中には、街灯が各所に設置されているのだが、さすがに街全体を明るく照らすほどの効力はない。そして、それは高台に建つギュスター伯爵の屋敷も同様であった。
月明かりが皆無とあって、ふだんよりも多くのたいまつが邸内各所で燃えさかり、闇夜におおわれた敷地内をなんとか照らそうと奮戦していたが、月や星々がはなつ膨大な光量の前では線香の灯火にひとしいものだ。
そのギュスター邸にあって今宵、厚雲のとばっちりをもっともうけたのは夜間担当の警備兵であろう。
月や星々の光が降りそそぐふだんの夜であれば、たいまつなどなくとも敷地内をすみずみまで視認できるのだが、こうも暗いとたいまつなしでは警備どころか敷地内の移動すらままならない。
たいまつが熱い、暗くて見えない、ついてねえや、などと兵士たちは口々に愚痴をこぼしながら屋敷の警備に就いていたのだが、そんな闇夜に嘆く者たちもいれば、逆にこの機に乗じてひそかに動きだす者たちもいた。
「こちらでございます、エリーナさま」
敷地内を網の目のようにはしる石畳の道を、音もなく静かに、だが足早に移動する集団がいた。
屋敷内に存在する九割以上の人間が寝静まった、夜半過ぎのことである。
兵士の格好をした者、執事の格好をした者、料理人の格好をした者、女中の格好をした者など、その数十人。石畳や園路を走っては止まり、そのつど用心深く周囲を確認しては、ふたたび走りだしてはまた止まり、さらに周囲を確認するという奇妙な行動をくりかえすこの男女の集団は、屋敷の内情を探るために潜伏していた義勇軍の間者たちであった。
そんな彼らに前後左右をかこまれるように、集団の中心にはエリーナの姿がある。その傍らにぴたりと寄り添うハンナが、周囲に警戒の視線をはしらせつつエリーナにささやいた。
「エリーナさまにはこれよりしばらくの間、馬車庫のほうで御身をお隠しになっていただきます。多少、衣服がお汚れになろうかと思いますが、屋敷の裏手門から侯爵さまが自ら兵士をひきいてまいられ、そこで落ちあう手はずとなっておりますので」
ハンナの説明にエリーナは無言でうなずいたが、その体内では底知れない興奮と期待に鼓動がはげしく脈打っていた。
あのいまわしい内戦から三年。夢にまで見たフランシスとの再会がすぐ目の前にまでせまっている。
その高揚感の前では、衣服が汚れることなど些事とよぶにも値しないことだ。
一方でエリーナには、懸念することがひとつあった。
「でも、ハンナ。馬車庫にたどりつくまでに警備の者たちに見つからないかしら?」
「ご心配にはおよびません。そうならないよう、事前に手を打ってあります」
「手?」
「はい。確実な手をです。いまごろ彼らは、詰所の中あたりで寝息をたてているでしょう」
そう言って、ハンナは愉悦めいた微笑を口もとにたたえた。
ハンナが打った手。それは夜間担当の警備兵の夜食に睡眠薬を混ぜ、屋敷を襲撃する時間帯にあわせて兵士たちを眠らせてしまうというものだった。
当初、ハンナたちは同様の手段でリンチの毒殺を画策したのだが、リンチをはじめとする重臣たちの料理は、作るのも運ぶのも随行してきた専属の料理人や従者たちがすべて担当し、屋敷の人間は料理に近づくことすらできずに計画を断念した経緯がある。
ちなみに屋敷の主人たるギュスター伯爵であれば、この手法で毒殺するのはいつ何時でも容易であったが、国王にとりいって現在の地位を得た「太鼓持ち貴族」など害したところで、リンチ王権にはわずかな影響もないだろうし、諸侯になることを切望しているほかの貴族たちをよろこばせるだけであり、彼らの栄達の手助けをしてやる義務はハンナたちにはない。
ともかく屋敷の料理人にも義勇軍の間者はまぎれこんでおり、食事に睡眠薬を混入させる作業じたいは容易であった。ただ用意できた薬の量が少なく、すべての兵士に効果を発揮するかがハンナの唯一の気がかりであったのだが、これまでのところ屋敷の警備兵とはただの一人とも遭遇していない。どうやら睡眠薬は、期待どおりの効力を発揮したようだった。
「見えたぞ。あの建物の角を曲がれば、馬車庫まではすぐだ」
先頭を走っていた執事姿の男が小声をはなち、三十メイル(三十メートル)ほど先にある建物の端を指先で指ししめした。
ハンナたちはいったん足を止め、周囲を用心深くうかがった。
余人の気配がまったく感じられないことを確認し、ふたたび走りだそうとしたまさにそのとき――。
「これはこれは、王女さま。このような夜分にどちらへまいられるのですかな?」
闇夜の中をただようようにふいに流れでてきたその声に、一瞬、エリーナたちは驚愕し、心身を凝固させた。
あわてて背後をふりかえったとき、ほぼ同時に視線の先の黒々とした闇がオレンジ色に染まり、そこから小型のランプを手に持った男が建物の陰からあらわれた。
ランプの灯火に照らされた顔はギュスター伯爵のものであった。
屋敷の主人とのまさかの遭遇にハンナたちもさすがに息をのんだが、それでも伯爵以外に誰の姿もなかったこともあり、平静をよそおってまずハンナが一歩すすみでて、うやうやしく一礼した。
「これは伯爵さま。いえ、王女さまが夜の散策をされたい申されましたので、私どもが警護を兼ねて、敷地内をご案内していたよしにございます」
「ほほう、散策とな」
応じたギュスターの声には、嘲弄にも似たひびきがあった。
「それはけっこうなことだが、しかしながら王族警護の任は近衛隊の騎士のみにあたえらし光輝ある役目。たとえ敷地内の散策とはいえ、そなたたちのような使用人ふぜいが警護をかってでるとは、いささか出すぎではあるまいかのう?」
露骨な侮蔑の光を両目にたたえて、ギュスターはハンナたちを見すえた。
身分をわきまえろ。その目はそう主張していた。
このような態度をギュスターが見せたとき、彼の従者たちは地に身をなげだし、ひざまずいて主人に許しを請うのが常なのだが、むろんハンナはそのようなことはしない。
表面的には文句のつけようのないほどうやうやしく、だが毅然とした態でハンナは非を詫びた。
「そうおっしゃられますと恐縮するよりございません。不敬のきわみ、一同を代表して幾重にもお詫び申しあげます」
低頭するハンナの後背からエリーナが声を発した。
「この者たちに罪はありません。私が彼らに無理を言ったのです。責めは私がうけます、伯爵」
「ふむ、そうでございましたか」
ギュスターは得心したようにうなずき、指先であごをつまんだ。
「そういうことなれば是非もありませんが、しかしながらエリーナさま。よもや散策ついでに何者かと密会しようなどとはお考えではございませんな?」
「密会?」
「さよう。たとえば、フランシス・ド・リドウェル侯爵とか……」
意味ありげな視線とともにギュスターの口からフランシスの名が発せられたとき。彼らの表情が緊張にこわばったのは無理なからぬことであろう。
それでもハンナだけはどうにか表情を乱さずにいたのだが、それもギュスターがあらたに語をつなぐまでのことだった。
「ふん、下賎なねずみどもめが。きさまらが反乱軍の間者であることはとうに承知しておるのだっ!」
吐きすてると同時にギュスターが指を鳴らした。
直後、それまで静寂と闇におおわれていた一帯がにわかに赤く染まり、地を駆る無数の音がそれにつづいた。建物の中や陰から、おそらくは潜み隠れていたと思われる武装した兵士の群が、たいまつを手に殺到してきたのだ。
それが薬で眠らせたはずの屋敷の警備兵であることにハンナたちが気づくまで、時間は必要としなかった。
「こ、これはいったい……!?」
たちまちハンナの表情が青ざめたものになった。
数にして三十人ほどの兵士に半包囲されたこともさることながら、あきらかに自分たちが「待ちぶせ」されていたことを察したからだ。
いったい、どうなっているのだ!? 驚愕と焦燥に胸郭を乱すハンナたちをよそに、ギュスターはエリーナにむかって手をさしむけた。
「さあ、王女殿下。こちらにおいでくださいませ。いまから殿下をたぶらかす奸臣どもを成敗いたしますので」
エリーナはハンナの背後に隠れてうごかない。おびえた、それでいて嫌悪感にみちた視線をギュスターにむけている。底知れぬ負の感情がその双眸からはうかがいしれた。
それに気づいたのであろう。ギュスターの口端が不快げにゆがんだ。
「ふん、困った王女だ。つまらぬ手数をかけさせてくれる」
もはや殿下の敬称すらつけずにギュスターは小声で毒づいた。近くにいた指揮官らしき兵士に目配せしてなにごとかを指示する。
「……どうやら、計画をすこし修正する必要があるようね」
そう独語すると、ハンナは後背の仲間たちに視線を投げた。
それに気づき、仲間の兵士たちもハンナに視線を返す。
おたがいの視線と表情が交錯した瞬間、彼らの表情が一様に一変した。
ハンナの決意を無言のうちに察したのだ。
驚く彼らにうなずきかえすとハンナはエリーナにむきなおり、小声でささやいた。
「エリーナさま。ことここにいたっては是非もありません。私どもがこの場をふせぎますれば、その間に裏門にまでお逃げください。侯爵さまがかならずお救いにまいられます」
だが、エリーナは首を振ってハンナから離れようとはしない。
「だ、だめよ、ハンナ。殺されてしまうわ」
「もとより覚悟のうえにございます」
そう言ってハンナは薄く笑った。意を決した笑いだった。
優美さすら感じさせるその笑みに絶句したエリーナに、ハンナがさらに言う。
「父や兄とともに義勇軍の旗の下に参じたときより、この生命は大義のためにささげております。王家のために殉じることができるのであれば、このハンナ、本望にございます」
「ハ、ハンナ……」
声をのむエリーナに微笑で応えたのも一瞬、たちまち表情を厳しくさせたハンナが左右に視線を走らせ、声をとばした。
「コルネフ、リンツァ、オルソン。三人ともわかってるね!」
「おうよっ!!」
異口同音に呼応の叫びをあげたのは、ハンナの両脇をかためていた男たちだった。
兵士の格好、執事の格好、料理人の格好とその装いは三者三様であったが、いずれも義勇軍内から厳選のうえにギュスター邸におくりこまれた手練れの剣手たちである。
その三人が隠しもっていた剣を鞘走らせ、周囲をとりかこむ警備兵たちを牽制している間に、ハンナは内懐から黒い球形状の個体を数個とりだし、それを警備兵の群めがけて投げはなった。
宙高くから地面に落下し、自分たちの足もとを転がる球形状のその物体が火薬を固めてつくられた炸裂弾であることを警備兵たちが知ったのは、ハンナがエリーナを抱きかかえて足もとにふせ、わずかにおくれて仲間の間者たちも地面に飛び伏せた直後のことだった。
その瞬間、闇夜の一角が赤黒く閃き、つらなった轟音とともに地の一角がはじけた。
土砂の柱が宙高く噴きあがり、つらなるように黒煙が一帯をつつみこみ、地面にふせたハンナたちの頭上を熱風が駆けぬけ、ふきとんできた土砂や化粧タイルの破片がその頭をたたいた。
やがて三度目の爆発が終わったとき。ハンナが視線を投げつけた先に見たのは地面の一角に大きく穿たれた爆発穴と、原形をとどめていないレンガ造りの花壇。そして、悲鳴をあげて地面に倒れている警備兵たちの姿だった。
その姿を視認するやいなやハンナはすぐさま立ちあがり、仲間の間者たちに叫んだ。
「いまよ! お前たちはエリーナさまをつれて逃げなさい。ここは私たちでふせぐ!」
ハンナの指示にほかの間者たちは困惑したように顔を見あわせたが、それもごく短時間のことであった。たちまち彼らの面上に決意の色がみなぎった。いまは躊躇している場合でないと誰もが察し、エリーナを抱きかかえるようにしてその場から駆けだしていった。
自分の名を叫びながら遠ざかるエリーナの声を耳にして、ハンナは微笑をこぼした。
「エリーナさま。どうかご無事で……」
微笑まじりの祈り願う声がハンナの口から漏れた同時分。そこから三十歩ほど離れた場所には、全身土砂まみれの姿で呪詛のうめきを漏らす貴族がいた。ギュスター伯爵である。
「……お、おのれぇ……ネズミふぜいがふざけたまねを……!」
悲鳴とうめき声をあげて地面に横たわる部下たちの姿を見やり、ギュスターは上下の歯をぎりぎりと噛みならした。
その兵士たちが爆発に対して壁となり、幸運にも炸裂弾の衝撃から逃れることができたギュスターであったが、その身を包む金貨十枚という大金で特別に仕立てあげた豪奢な絹服は、その顔と同様に煙と土砂によって真っ黒に染めあげられていた。しかし、ギュスターの顔が痙攣したようにひきつっているのはそんな些事が理由ではなかった。
「も、もし、王女に逃げられでもしたら……!!」
怒り狂う国王の姿を想像して、ギュスターは底知れぬ焦慮に駆られた。
もともと部下に対して情の厚い人間ではない。それどころか自身の一族とごくわずかな重臣以外、人間の姿をしたたんなる「駒」としか思っていない節がある。
エリーナ王女は簒奪者の汚名を払拭するための貴重な切り札。その切り札をみすみす逃がすという失態を犯した部下を、自身の権力内にかかえるような君主ではない。否、それどころかその咎を問われて生命すら危うくなる可能性もあるのだ。ギュスターの顔から血の気が引いたのも当然であろう。
「ええい、なにをしている! は、はやく王女を追え。絶対に逃がすでないぞっ!」
半狂乱の態でギュスターはわめいた。
利己的な理由からであっても、ギュスターにとっては生命がけである。
半数以上の兵士は炸裂弾の一撃で負傷し、王女たちを追うどころか立ちあがることすらできずにいたが、それでも爆発の衝撃からまぬがれた一部の兵士が主人の命令に呼応し、剣を片手に地面を駆った。
その前に立ちはだかったのはハンナである。
エリーナたちへの追走を阻止するべく、両手に二本の小太刀をかまえて応戦の姿勢をとる黒髪の女中に、面上に殺意をたぎらせた四人の兵士が殺到する。
兵士四人に対して相手は一人。しかも女で、それも兵士でもなんでもないただの女中。無惨な斬屍体の誕生をギュスターは疑わなかった。
その予測どおり、敷地の一角に斬屍体が生まれた。
ただし、加害者と被害者の立場と名前が異なった屍体が、である。
ハンナのふるった二本の小太刀は、細くするどい閃光となって兵士たちに襲いかかり、甲冑におおわれない首すじに致命的な損傷をあたえた。一瞬にして斬り裂かれた咽喉から、わずかな悲鳴と大量の血を噴きださせて横転した兵士たちの姿に、ギュスターが悲鳴もろとも両の目玉をとびださせる。
「な、なんじゃあっ!?」
「なめるんじゃないよ、僭王の犬どもがっ!」
怒号する声にも表情にも「どす」がきいている。
このときになってようやくギュスターたちは、小太刀をかまえて凄みをきかせているハンナが、ただの女中どころかそうとうな手練れの剣手であることに気づいた。
事実、ハンナは女性ながら小太刀二刀流皆伝の腕前をほこる、義勇軍内でも五指にはいるほどの凄腕の剣士であったのだ。
刃についた血のりをふりはらうと、ハンナは猛禽類を想起させるするどい目つきで声もなく立ちすくむギュスターたちを睨みつつ、ゆっくりと小太刀をかまえなおした。
「わが小太刀二刀流の妙技、地獄への餞別にもっていくがいいわっ!」
闇夜に咆哮をとどろかせて、ハンナは地を駆った。




