第一章 争乱の王国 その⑧
ギュスター邸が建つ高台のふもとに、その高台を背にする形で白亜の城塞のようにそびえたつ建物がある。商都ライエンにおいて最高峰の高級宿屋として知られる〈至高亭〉だ。
創業百五十年余。地上七階建ての、大理石と花崗岩を併用して造られた宮殿のようなその外観は荘厳の一語につきる。政庁舎、警備兵団屯所、歌劇場といった、同じように高台のふもとに建ち並ぶ周辺の建築物群と比べても、その存在感はきわだっている。
その至高亭の支配人をサンデスという。
この年、四十五歳になる恰幅のよい体つきをした中年の商人で、髪にはいくらか白いものがまじっているが、それをのぞけば実年齢より十歳は若々しく見える。至高亭は彼の五代前の父祖がはじめたもので、サンデスは数えて六代目の支配人となる。
先代の支配人で七十歳になる彼の父親は今も健在だが、かの内戦後、敬愛するリドウェル家がこの地より追われたことに絶望し、ギュスター伯爵が新領主として赴任してきたのと前後して支配人の座を息子のサンデスにゆずり、自分は別の街に移住して隠居してしまった。
そのサンデスは三日前から正妻に内緒で、市内に囲っている情婦の一人と内海沿岸の避暑地に所有する別邸にでかけていたのだが、予定を二日ほど早くきりあげてライエンに帰ってきた。高台の伯爵邸で開かれている国王行幸を祝う宴が、そろそろ半分を折り返しつつあった時分のことである。
それは鬼よりも恐るべき正妻に情事がばれたとか、国王の極秘行幸を人ならざる能力で察知して急いで帰ってきたとか、そういう理由ではない。件の情婦から正妻との離別を要求されて口論となり、現地で喧嘩別れをしてしまったのだ。
むろん、それは当人たちにしかわからない事情であり、それゆえ宿の留守をあずかっていた番頭のゴーヴィンは、どこか消沈した態で宿のエントランスホールにあらわれた主人の姿を驚きをもって見つめた。
「やあ、ゴーヴィン。今帰ったよ」
「これは旦那さま。ずいぶんとお早いお帰りで。たしかお帰りは、明後日のはずではありませんでしたか?」
「う、うむ、まあな。その、あれだ。繁盛期に店を留守にするのもなんだと思ってな」
どこか歯切れの悪いサンデスの物言いにゴーヴィンは小首をかしげたが、子細を質すようなことはしなかった。
「ところでゴーヴィン。私の留守中に何かかわったことはあったか?」
「これといってとくにはございません。今日もこのとおり、ほぼ満室にございます」
ゴーヴィンは受付窓口の抽斗から台帳を取り出し、それをサンデスに手わたした。
その台帳には部屋の番号と主泊する客の名が記されてあり、五十を数える客室のうち、空いているのはわずかに二部屋だけだった。
かわらない繁盛ぶりにサンデスは満足そうにうなずいたが、台帳をめくるその手がふいに止まった。
「おい、ゴーヴィン。この最上階の高級客室をすべて借りきっている客なんだが、なんだね、この人たちは?」
「高級客室の? ああ、彼らのことでございますか」
サンデスに問われ、思いだしたようにゴーヴィンは語をつないだ。
「この方たちは、アーデルハイム王国からファティマをめざして巡礼の旅をされている、さる貴族とその従者の方々です。一度に三十人全員が泊まれる部屋が他の宿屋になく、困ってうちに相談してまいりましたので、私の判断で高級客室をすべて貸しきりにしたのですが、まずかったでしょうか」
「ふうん、聖地への巡礼者ねぇ……」
サンデスの声には、どこか嘲笑にも似た響きがあった。
彼自身、神教圏に住む人間としては珍しく俗人的な性格で、神というものをまるで信じず、信仰心というものを微塵ももちあわせていなかった。これまでの人生で、神さまとやらに助けてもらったことは一度もないからだ。
それゆえ、敬虔な信徒だの巡礼者だのといった、教会に金銭を寄進して喜ぶ人々を見ると「頭のネジがゆるんでいるにちがいない」と内心で蔑まずにはいられなかった。だからこそ、皮肉っぽい笑いとともに次のように語を継いだのである。
「まあ、おまえが判断したのならかまわないが、しかし、高級客室なんかに泊めて代金のほうは大丈夫なんだろうね。いくら貴族とはいえ、巡礼者なんていうのは貧乏人というのが定番だからね」
巡礼者に対する侮蔑的な台詞を、ゴーヴィンはさりげなく無視した。
「そのことでしたらご心配なく。全員の宿泊代として、すでに前払いで金貨五十枚をいただいておりますので」
「な、なに、金貨五十枚だって!?」
おもわずサンデスを目玉をむいた。
いかに高額の高級客室とはいえ、金貨五十枚といえば、三十人どころか五十人分の料金に値するからだ。
予想外のことに口をあんぐりとさせて絶句するサンデスの脳裏からは、「巡礼者=(イコール)貧乏人」という偏見まじりの固定概念はすでに消えていた。
それを無言のうちに見てとったコーヴィンはおもわず失笑しかけたが、もちろん態度にだすことはなく、淡々とした態と口調で主人に応じた。
「はい。無理を聞いてもらったお礼だそうです」
「とんでもない上客じゃないか。こりゃ、かなり裕福な貴族らしいな。よし、ここは支配人として、あいさつのひとつもしてこないといかんな」
たちまち態度を豹変させたサンデスにゴーヴィンはまたしても失笑しかけたが、とっさにある事情に思いいたり、あわててそのことをサンデスに告げた。
「それが旦那さま。先方からの要求で、自分たちに対するいっさいの気づかい(サービス)は無用に願いたいとのことです。それと、部屋への従業員の立ち入りも禁じてほしいそうです」
「なに、いっさい不要とな?」
「はい。従者の方がおっしゃるには、どうやらかなり偏屈な……いや、気むずかしい性格の貴族のようで。見ず知らずの人間が、自分のまわりをうろうろされるのを嫌うそうです。多額の代金を前払いしていただいたこともあり、つい私も承諾してしまったのですが」
「別にいいじゃないか。宿泊代を気前よくはずんでくれた上に、気づかいをする必要もないのだろう。こんな上客、めったにいないぞ。なあ、ゴーヴィン」
「はあ。まあ、たしかに……」
「よしよし。それなら先方の気のすむようにしてやりなさい。他の者にもそのことは伝えてあるだろうね」
「はい。すでにすべての従業員に通達済みでございます」
「うむ、ご苦労さん。じゃあ、なにかあったら呼んでおくれ。私は奥にいるからね」
「かしこまりました」
ふんふんと鼻歌を響かせながら、サンデスは宿の奥へと消えていった。
心情がこれほど態度にあらわれる人も珍しい、と、ゴーヴィンは苦笑まじりにその姿を見おくると、台帳をもとの抽斗へとしまいこんだ。エントランスホールに伝報屋の配達人が姿を見せたのは、その直後のことだ。
配達人の姿を視認した瞬間、ゴーヴィンの両目が鋭い光を発したが、それも文字どおり一瞬で、すぐににこやかな表情で配達員に応じた。
「こんばんわ。伝報です」
「あいよ、ご苦労さん」
ゴーヴィンは数通の伝報をうけとり、配達証明書の欄にサインをした。
それを配達員に手わたす際、二人が意味ありげな視線をかわしあったことや、伝報のひとつをゴーヴィンがすばやく内懐にしまいこんだことに気づいた者は誰もいない。
配達員がエントランスから出ていったのを見計らい、ゴーヴィンは近くを通りかかった荷物係の若い従業員を呼び止めた。
「おい、ちょっといいかい」
「はい、番頭さん。なんでしょうか?」
「うん。じつは少しの間だけ、ここを頼みたいんだ。私は高級客室にお泊まりになられているお客さまに、頼まれた荷物を届けなくてはならないのでね」
「はい、わかりました」
「じゃあ、頼んだよ」
若い従業員と窓口の係を交代すると、ゴーヴィンは足早に階段をあがっていった。