5 「あぶない」
夏の夜長に、もう一つ。車に関する不思議な話を聞いてほしい。
そう、あれはまた夏の盛りの頃だったか。
夫婦二人の生活が続く、ある夏の日。夏休みに入った夫とともに、その日も日帰りでドライブに出かけていた。
一泊旅行なども予定していたが、まだ子供のいない夫婦には、十日の連休ともなれば、家にこもっていてもそうすることも無くなるものだ。
私たちは、綺麗な沢の水を引いて釣り堀のある施設へと、ドライブに出かけることにした。それは釣りが趣味でもある夫の提案だった。海や川では素人である私は楽しめない。だが、釣り堀ならば特別な用意をせずとも楽しめる。そんな気楽な気持ちで了承したのだった。
そこは夫から聞いていたよりも、かなり山奥の施設だった。出かける時間が遅かったこともあり、到着したときはお客も既にまばら。もちろん、夏の日差しを受けて、魚たちも活動を休めている。
結果、長い道のりをやって来たにしては物足りない釣果を、施設の囲炉裏で炙って食べるに終わった。まあ、突然の日帰りプラン。こんなものかと帰路につく。
峠道は、舗装されてはいたが勾配が急な箇所が多い。目的をもって訪れたときはそう感じないでいた旅程も、帰りはまた別か。随分と家が遠く感じるものだ。
何もすることがなく、助手席の私はふと後ろを振り向く。
あまりすれ違う車もないが、山道というのはバイクが多いものだ。チラチラと視線の端に気になる気配が、何となく気になったのだ。
だが、気のせいか。暗くなり始めた車道は、私たち一台きり。
「ずいぶん長い距離、集落に出くわさないよね。この辺はあまり住んでる人いないのかな」
「そうだな、ちょうどこの辺りはないよ。さっきの釣り堀よりも向こうは、M町だからかえって開けてるけどな」
「へえ……」
ガードレールの下は沢があるのか、水音が車中まで聞こえる。相変わらずS字カーブが続き、ガードレールにはライトが反射する。
──ひたひた。
いっそう暗くなった背後に、何かが付いてくる。車に乗って走行しているのにかかわらず、感じる気配は、ひたひたひた──。
振り向いた一瞬、バイクの前輪とカバーが見えた気がした。
だがそれは、目のかすみとも思える一瞬のことで、思い違いだったと悟らされる。
「……どした?」
「なんか、さっきから後ろを付いてきてる気がするんだよね。ねえ、さっきまでバイク後ろにいた?」
「……狐ならこのあたり出ると思うけど?」
怖がりの夫の、意図的にずらした反応を、苦笑いで受け止めた。
それからも何度か、振り返る。
ずっとではない、思い出したように感じる気配。だが深い森を抜け、見知った町が近いのを察した時には、私はそのことをすっかり忘れていた。
私たちの住む市内に入る手前には、大きな河川。その河原から大きな音が、そして舞い上がる火の花。沢山の出入りする車と人だかりが見えて、私はようやく今日が何日か思い出す。
「花火……そうか、今日は八月十四日……お盆だね」
浮き足立ちそうになる心。堤防添いに無数の露店がならび、浴衣の家族連れやカップルが溢れている。
「混んでるね、さすがに。運転、気を付けてね」
「車道は大丈夫そうだな、止まるまでになってないし」
そんな風に会話をしていた。
橋を渡り終え、車が乗っていたのは片側三車線の最も中央の車線。そこには中央分離帯はない。
反対車線はこれから橋にさしかかるせいか、渋滞していた。
前を眺めていて、ふと思い出す。
──ひたひた。
ふいに思い出した気配。一瞬、後ろに向けた意識を裏切るように、左側に感じた前輪。
ひゅっと息をのんだその時。
──あぶない──
「え? あ、前!」
視線の先、車の影から大型バイクがふらふらと揺れながら視界に入る。そして次の瞬間、そのバイクは運転手を振り落としたのだ。
そして大型バイクが無人のまま、真っ直ぐ向かって走った先は、対向車線を走るまさに私たちの前。
「う、うわっ!」
「いやっ、ぶつかる」
避けて、そう思ったけれど間に合わない。
咄嗟に手を差し出し、身構える。体を持っていかれそうな、ブレーキの力を感じた。
次の瞬間には、衝撃とともに音が響いた。
私たちの車に、バイクは正面衝突する形で止まり、反動で後輪がバウンドした。運転手不在の大型バイクは、そうして目の前でようやく横転したのだった。
水蒸気なのか煙なのか、私たちの車のバンパーからは、白煙がうっすらと昇る。だが私も夫も、事前に身構えられたせいか、どこも体に不具合を感じることはなかった。
事故は、反対車線で起きた。そもそも車線変更をしようとしたバイクと軽自動車が接触したことによる、完全なるもらい事故だったのだ。
夏の茹だる夜に、揉める当事者同士と警官の聴取に付き合い、レッカーを待っていた私たち。散々な休日である。最後を飾る盛大な花火の下で、警官が告げた言葉に肝を冷やす。
「予め減速していたのが幸いでしたね、速度が出てると、バイクがバンパーを乗り上げ、フロントガラスを突き破ること、多いんですよね。本当に、幸運でしたね」
それから疲労困憊で帰りついた部屋で、私たちは一息をつく。
珍しい経験をしたものだと、私は出来事を振り返る。
「そういえば、例の回り道。あれもお盆だったよね」
「そうだっけ?」
「うちの祖母がさ、昔言ってた。お盆は川に仏さんの供物を流すでしょ、それとも一緒に川に乗ってあの世に帰るわけ。だからお盆過ぎたら、川で遊んだらいかんよとか言われた」
「ふーん」
何か自分の嫌いな話題に向かおうとしているのを察知したのか、夫は新聞を読みながらの姿勢を崩さない。
「でも、本当に危なかったよね。よく気づいたねあんなバイクに」
「……え? 何いってんの、先に気づいたのそっちでしょ? お前が叫ぶまで見てなかったもん」
「え? だって『あぶない』って聞こえたから私も気づいたんだよ?」
夫は新聞から顔を上げて首を振る。
「俺は言ってない」
「……じゃあ、誰?」
互いに青ざめながら、私たちはこの話は終いとした。
お盆には地獄の蓋が開くと言うが、祖母の言うように、私たちは川で何者かを連れて帰ったのかもしれない。だが、同時に助けられたのは、冥土に帰る懐かしい誰かがそこにいてくれたからなのかもしれない。
後に聞いたことだが、夫もまた隣に走るバイクに挟まれる形で、逃げられないと思いつつブレーキを踏みしめたのだそうだ。
声の真相は永遠に不明だが、私たちは無事だった。
それだけで十分なのだと、今では思っている。