4 ムジナ
真夏の夜に、もう少しだけ私の話に付き合ってほしい。いや、なに。ほんの少しだけ、茹だるような暑さから、手を引いて差し上げるだけだから。
あれはそう、ちょうど夏も盛りの頃だったか。
私たち夫婦は、盆休みを利用して田舎の祭りを訪れていた。田舎といっても、自分達とは縁も所縁もない所だ。市街地からいくつか山を超え、山間部にある小さな集落。
テントを並べ、そこで採れる地元の農作物を売りながら、少ない露店が軒を連ねる。町起こしの一環だろうか、聞いたことがあまりない演歌歌手もやってきて、小さなステージでテープを売りながら、自慢の声を聞かせていた。小さな櫓も組まれて、きっと日が暮れれば盆踊りで賑わうのだろう。
私は初めて訪れる。日帰りドライブも兼ねて、ここを目的地としたのは夫だ。
「よくこんな小さな祭を知ってたね」
「まあ、ばあさんの実家が近いし、この先に釣りにいい沢があるし」
まあいい。都会ではなかなか高価で手が出ないような、立派な茸や自然薯、山の幸が買えたのだから。
さほど時間もかからず店巡りを終えた私たちは、帰りの客がひどく狭い山道を連なる前にと、帰路につく。しかしながら、所々譲り合わねば対向車とすれ違えないほどの山のなか。
集落からさほど行かぬ内に、車列の最後尾につくこととなった。
「あー、出遅れたな」
くねる道の先は見えないが、そろりそろりとしか進まぬ車列に、夫は愚痴をこぼす。
まだ集落の近くのせいか、それは青年団か消防団かしら。町人が二股の交差点で誘導をしていた。
それを過ぎてもまだ進まぬ車。仕方ないとあきらめていたところに、再び町人らしき者が立っていた。その脇には、明らかに今の道より細い脇道。
私たちの車の前に手を掲げ、町人らしき男性に誘導される。持っていた誘導棒を振り、脇道に逸れるよう差し示され、夫がそれに従ってゆっくり進めば、男性は丁寧にお辞儀する。
それはとてもにこやかに。
「大丈夫なの?」
私は不安にかられる。
なぜならその道は、少し進んだだけでも、普段から使われていないのが分かる。轍はあるが、落ち葉が長く積もって雨に濡れたまま、アスファルトを厚く覆っている。
後ろを振り返れば、後続車が二台。
白いシャツを着た町人は、遠ざかりながらもこちらを向いて立っていた。
道は狭く、覆う木々の葉は日差しを遮る。
「地元の人しか使わないんだろう」
夫の言葉は、車内にどこか寂しく響いた。
ひび割れたアスファルトは、すぐに土へと変わる。眼前の道は、ひたすら下り坂だ。まるで暗い口を開けて、私たちを迎え入れているかのよう。
くねくねと曲がり道を進みながら、ふと疑問がもたげる。
「ねえ、なんで三台だけなの?」
「……え?」
私たちの車を先頭に、二台続くのみ。曲がりくねったカーブに目を凝らしても、通った道を山の反対側に覗いた時も、車影は見えない。
あの渋滞を解消するためならば、三台で終わるはずがない。
ハンドルを握る夫の横で、私は不安にさいなまれながら後続車に目を向ける。
すぐ後ろのフロントガラスから見える車内も、わたしたちとさほど変わらない、狼狽ぶりが見えた。
「ねえ、何なんだろう。本当にあの人、誘導する人だったのかな」
「じゃあ何なんだよ」
笑いながらも、どこか声は乾いていた。
「狸にばかされた……とかみたいだよね、まるで」
「こんな真っ昼間から狸か? 普通におっさんだったろ」
もう顔も思い出せない男性は、私の中でニヤニヤと笑う口元だけが残る。
谷あいの底まで来たろうか。もうとうにナビの地図上の道からは外れ、迷走している。そんなことはよくあること……そう自分に言い聞かせる。
ふと、分かれ道が見えた。
幅がかなり違うので細い方へは入りたくないが、このまま惰性で進むのも憚れるようになってきたのも事実だ。私たちは細い道に入ったところで車を止めた。
地図を眺める夫。
後続車が二台、通りすぎてゆく。
「もういいや、着いていくしかないよな」
開き直った夫は、再びアクセルを踏み、後続だった二台の後ろに車をつけた。
何か示し会わせたわけではないのに、私たち三台の車は、どこか連帯感を感じていたかもしれない。再び登り坂を走りながら、車体にカサカサと延び放題の葉が触れる。
そしてふいに開けた視界。
小さな畑と、山にはりつくように、まばらに建てられた家が見えた。畑の畔に、初老の老人がいて、舗装されない林道から出た私たちを、ジロジロと見ていた。
前の二台が、思い思いの路肩に車を止める。
一台はそのまま。もう一台からは運転手の男性が降り、老人に声をかけていた。
私はナビの地図が正常に、集落の道を指し示していることに安堵した。緊張した空気を逃がしたくて、窓を下げると。
「あんたら、勝手に入っちゃいかんで。この先は私有地にしか繋がってないから、行き止まりでな」
「え?」
「戻ってきたんちがうんか?」
老人の声が耳に入る。
その先を聞きたくて身を乗り出そうとして、夫に止められた。
「行くぞ」
「え? 帰り道わかる?」
「……分かる」
二台を置いてきぼりに、夫は車を出した。
どうやら、夫が知っている道が近くにあるようで、私はそれを聞いてひどく安心した。ずいぶん地元道を案内されたものだ。やっぱり狸だったとかなら、話のタネにもなろうに……そう軽口をたたこうとして止めた。
気づいたのだ。普段から賑やかい部類の夫が、しばらくしても無口な事に。
「どうかしたの?」
「あの分かれ道から、何分走ってたと思う?」
「え?」
私はナビの画面の時計を見る。
もっと短く感じたが、二十分くらいだろうか。
「ここさ、あの祭の町から、山越えて反対側なんだ」
「反対? 遠回りってこと?」
「反対なんてものじゃない……とても四十分かかってもたどり着かないと思う」
「……え?」
てっきり、本来の道から山を反対周りに通り、それでも帰路についていると思っていた。
だが、夫の言葉を信じるなら……。
私はナビを見る。
地理の疎い私には、出発点である祭会場がどこか分からない。だが、分からなくて良かったと、夫の青ざめた顔を見ながら、心底そう思った。
あの町人は、いったい私たちを何処へ向かわせたかったのだろうか。
今でも思い返すと、彼の顔は三日月形に笑う口元だけ。
狸にばかされたのかどうかは、今でも分からない。ただ、人智を超える何かが干渉してきたのではと、思えてならない。
これが昔の人が語る、ムジナなのかもしれない。
道連れとともに迷い込んだ帰り道。
道も時間も、私たちを裏切らないとは限らないのかもしれません。
不思議に導かれ、あなたも一度ドライブに出かけてみてはいかがですか。