3 裏付け
最後になるが、私の後悔を聞いてほしい。
古臭い機械が唸りをあげながら、白い布が色とりどりの液に身を投げ、熱のかまどに投げ入れられる。
初めて正社員になったそこは、昔ながらの染工場だった。
職人気質のおじさんたちが、回るローラーの前で染料にまみれている。そして冬でも熱い炉の前で、大汗を拭いながら、どこまでも続く布を蒸していた。私の仕事はそんな過酷な現場ではなかったが、企画課という職種柄、工場内をあちらこちら、使い走りのごとく飛び回ることが多かった。
どんな仕事にも言えることではあるが、染工場には危険が多い。布を柄に染めるローラーはとても重い鉄心でできていて、布を巻き込むときには鋭く研がれた刃で染料糊を漉す。当然、手が巻き込まれれば大怪我もするし、もっと怖いのは熱湯を常に使用していることだ。当時の同僚の中には、指や手首から先を失った者や、やけどの傷跡を持つ者が、程度の差こそあれ、そこかしこにいた。
私の仕事は、その会社で発生する最初の仕事。請け負った柄の管理。大きな鉄心に柄を刻むための、最初で最大の決断を下す。一度鉄心に柄を刻めば、変更するには一からやり直しとなるし、そんなことは予算の面からも、避けたい。なぜならその仕事の売り上げの半分以上が、その型代に費やされるからだ。
その仕事に就く者には、当然相当なプレッシャーがかかる。
まだ二十代半ばの私にとっても、それは当てはまる。その反面、やりがいがあったのだろう。残業にめげる事無く、疲れ果てながらも日々こなしていた。
棚卸のために、一人作業をしていたある日。
数百本にも及ぶ鉄心の管理もまた、私の仕事だった。ナンバーと本数を洗い出すために、工場の中二階にある保管場所に詰めていた。
ノートを片手に、狭く埃の積もった倉庫で、鉄心のナンバーを描き写す。夢中になっていても、ふいに視線を感じて顔を上げる。
薄暗いそこには、鉄色やクロムメッキの銀が並ぶだけ。
再びノートに目線を写し、終わらない作業にため息をつけば、再び何かが見ている気がする。
今度はそっと目線だけ上げる。
すると立ち並ぶ鉄のロールの間から、顔がのぞいている。
黒髪からこちらを見る目、そしてちょうど鼻の中間くらいまでが、ロールからぼうっと浮き上がって見えた。
顔はこちらを向いているのだが、視線が合った気はしない。
だからなのだろうか。不思議と怖いとは感じず観察していると、暫くして霧が霧散するかのように消えて無くなった。
近寄ってみれば、人の入る隙間のない場所だ。
固い工場の床の下は、ごうごうと布を巻き上げる機械の音。何となく、その音が頭に残った。
それからもそこで作業する間には、何度か同じような顔が現れては消えた。
職場に戻り、何となくその出来事を口にした。
気安い上司が、思い出したように言った言葉に、そこで初めて背筋が寒くなる。
「そういえば、俺も直接は時期が重なってないけど、○○機のところで事故があったって聞いている。でもそれは一階だから、中二階とは関係ないんじゃないか?」
ああ。
ちょうど彼の見えた下が、その○○機だ。何年もたっているのに、まだ彼は一生懸命、働いているのだろうか。
切ないような気持ちと、二度と見たものを軽々しく口にするのは止めよう。そう思った出来事だった。
そんな事を思ったことすら忘れた、数年後。
残業で連日遅くなっていたある日、再び私は間違いを犯す。
毎日毎日仕事があるのは良いことだが、こう連日ともなると疲れもたまってくる。そんな風に思い始めて既に一週間が過ぎた頃のこと。
仕事場から車で帰宅する折に、小さな橋を渡る。車両はすれ違えないから、対向車が来たら譲り合うほどの狭さと短さ。二級河川程度の、水の量はさほど多くはない川を越える橋だ。
その橋のたもとを過ぎる一瞬、必ずといっていいほど白い影が目の端に入る。
それは一瞬なのだが、なにぶん暗い夜道である。万が一でも人をはねては洒落にならない。ブレーキに置いた足に力が入る。だが、よくよく見れば散歩の人もいなければ、看板すらない、暗い闇と桜の枝のみ。
「疲れているのかな。目が霞むし」
そんな風に思い直すのも、十日も続けばさすがに、違うものを疑う。
なんとなくだが、人の背丈くらいありそうな影。気にはなるけれど、はっきりとは見えない影。
そして再び後悔する。
「なんか、妙に目の端に引っかかるんですよね」
例の上司につい、愚痴をこぼしてしまった。
「ああ、あそこ!」
早い反応に嫌な予感しかしない。
「あの時はもう、仕事どころじゃなくてな。仕事ほっぽり出して見に行く野次馬ばっかりで」
笑いながら言う上司の次の言葉は、笑えなかった。
「あの橋の傍でどざえもんが上がったんだよ、知らない? ちょうど十年前くらいかな」
ああ、なぜ止めておかなかったのか。
季節とはうらはらに、鳥肌の立つ腕をさすりながら、私は二度と見たものの裏付けだけは取るまいと、そう強く思った。
なんてことはない、一人語り。
夏もとうに終わったことだし、ここらで完結。お付き合いありがとうございました。




