1 おいで、おいで
もう、随分と昔のこと。
小学生になった年の、初夏のある日。私は不可思議な体験をした、そんな話。
入学した小学校には、私が卒園した幼稚園がすぐ北隣に併設されていた。私が年長となった年に移設新築されたばかりの幼稚園は、公立にしては当時は綺麗な園舎だった。
私の帰り道は、幼稚園を横目に小学校の北門を抜ける。学校と幼稚園の隣には、大きな神社があった。神社は鬱蒼としていて、子供心にも畏怖を感じる場所である。時折見かける、見知らぬお婆ちゃんのお百度参りが、更にそう思わせていたのかもしれない。
その日、たまたま一人で下校することになった私は、いつも通りに幼稚園前を通りかかる。
どうして一人だったのか。いや、一人だとしても、他の生徒の一人も見かけることもない。同時刻に下校する同級生がいないはずもなく。今どきならまだしも、第二次ベビーブーム世代のこの時にしては、少し特異な状況だったかもしれない。
神社から聞こえていたうるさい蝉の音も、いつしかパタリと止む。
少々心細かったせいか、足早になる私。
だがそこへ、呼び止める声がかかる。
「おい、そこのおまえ」
声がした幼稚園へと顔を向けると、そこには男が立っていた。
ジャージ姿の、二十代後半の若い男。なぜか幼稚園の敷地あたり、フェンスの向こうから、私に向かって手招きをしている。
先生、だろうか。
私はまだ一年生で、教師の顔など覚えきれていない。
一瞬、どう反応したらいいのかと、たじろぐ。
だけど、再び。
ジャージで立ったまま、手招きを繰り返す。
その短髪の男は、困ったふうでも怒った様子もなく、ただ言う。
「おいで、おいで」
と──。
私は怖くなって走り出した。
もしかしたら、何か困っていて喚ばれたのかもしれない。でも、幼稚園は終わっていても、まだ誰かいるはず。
もしかしたら、私が知らないだけで、関わりのあった先生かも。でも、思い出せない。
もしかしたら、学校で初めて聞かされた不審者という人かもしれない。だけど──。
理性で恐怖を抑え、考えを巡らせている最中も、恐ろしさに背筋が凍る。
走って、走って、息が切れても止まらない寒気。
ようやく足を止めたのは、学校を出て初めの信号機の前だった。既に件の場所は見えなくなり、そこまで来てやっと、鳥肌がおさまったのだった。
翌日。
嫌な気持ちを抱きながらも、集団登校で通りかかるその場所。幼い私はチラリと目を向ける。
そして、驚きで足を止めた。
昨日あの男が手招きした場所は、決して人が立てるような場所ではなかったのだ。
学校、幼稚園、そして神社からのびるフェンスとブロック塀がくの字を描くように三方から組合わさり、完全に閉じられていた。
塀やフェンスの高さは大人の胸の位置。
塀との間は、ほんの十五センチほどしかない。
私は昨日、いったい何を見ていたのだろう。
なぜ、今感じる疑問が頭をもたげなかったのだろう。
再び持ち上がる寒気から目を背け、私は慌てて集団の列に戻っていった。
あれは本当に、人だったのか。もしかしたら、私は人ならざるものに会ったのではないのか。
その後、無表情でひたすら手招きする男の姿が、しばらく私の頭から離れることはなかった。
だがそれ以来、その場所で手招きをされることは、二度となかった。
これがある夏の日の、少し奇妙で忘れられない私の体験。




