執心の女
ここにひとりの男がいた。
水戸、筑波山に集落をもつ、裳羽服津衆の親方・炎才。
陽に焼けたがっしりとした体格に、きりりとした目と太い眉。
渋い表情から生まれた皺さえも年輪を感じさせる、なかなかの美丈夫である。
年の頃は五十代の半ばといったところか。
その炎才、囲炉裏の前で腕を組んで、何か思案に暮れている様子であった。
「親方、どうされた?」
息子の龍才が尋ねた。
父親に似た風貌を持っていたが、その中に理知的な雰囲気が加わり、少し柔和されたものがあった。
二十代半ばのようである。
「…………」
炎才はしばらく無言で答えていたが、やがて口を開いた。
「今朝、お城より文が届いたのだが」
「はい」
「なかなか上様のお手がつかぬそうだ」
「まさか」
龍才は、信じられないといった顔をした。
「何か、あかりはしくじったのか? それとも……素性がバレたとかっ?!」
「落ち着け。しくじったりしとらん」
「では、なぜ?!」
炎才は組んでいた手をほどいた。
「……わからん。ただ、万里小路さまの文には、上様には、他にご執心の女人がおって、あかりに気が向きにくいのだろう、とあったそうだ」
「ご執心の女?」
その内容さえも理解できぬ、といった顔で龍才はつぶやいた。
「わが妹に落とせぬ男がおるとは……信じられぬ。それとも大奥というところは、あかり以上のおなごが、ごろごろいる、というのか?」
「何を言っておる。あかりの器量以上のおなごなど、そうおりはせん。多くのお殿さまに目どおりしていただいた折り紙付きなのだぞ。それだけでない。あいつには人を惹きつける〝妖気〟があるのだ」
「そう、そうだ」
龍才はうなずいた。
「とにかく、上様のご寵愛をいただかんことには、話がはじまらん。次期将軍候補のご注進など、夢の夢。まあ、今のところ、そのご執心の女人は、すでに床さがりをしておるらしいし、懐妊しそうな特定の娘はそういない……我々にとって悪い状況ではない」
「はあ」
不承ながらも、そう答える。
「奥の状況は悪くはない。殿に言われた命令は、ほぼ守れておる。あかりにすぐお手がつかなかったのが計算外なだけだ。龍才、そろそろオマエの方の仕事にかかれ」
「はっ」
龍才は立ち上がって部屋を出ていった。
家賢は数人の中臈、と、万里小路とで庭を散策していた。
「上様は、靜山にはご興味あらしゃいませんか」
万里小路は、声ひそかに尋ねた。
「ん……」
家賢は少し微笑んだ後、しばらく間を置いた。
「余も迷うておるのよ。……靜山は何か、近寄りがたいのだ」
「それは美しすぎるからですか」
「もちろん、それもあるが」
歩を進め感慨深げな表情を浮かべた。
「何か……月島のことを思い出すゆえ」
それを聞いて万里小路は、やはり、とため息をついた。
「上様、靜山は月島と違います。大奥のしきたりもよお守ってますし、職務も見事にこなし利発で歌舞音曲の才もなかなかのもんです」
「月島とて職務と歌舞の才は見事なものだ。だからこそ大年寄にまで抜擢されたのではないか」
「それは、そうでござりますが……若さが違います」
それを聞いて家賢はムッとした顔をした。
「もう、月島のことはあきらめてくださいませ。幕府の安泰のためにも、一刻も早よう若さんをもうけることを第一に」
「そんな事は、分かっておる」
そう言い捨てると、家賢は万里小路から去った。
家賢は悲しかった。
月島を愛した日々が思い出されて、胸が痛かった。
溢れる寵愛を与えたかったのに、それに答えて欲しかったのに。
懐妊できなかった遠慮と、政治的な重圧に耐えかねた月島は、家賢から遠ざかった。心が遠ざかったのだ。
『余は……そなたさえいてくれたらよかったのだ。懐妊などしなくても』
しかし、将軍には許されないことだった。
『世継ぎ、世継ぎ。そのせいで何人のおなごを抱かねばならんのか』
近頃では、好きな女というより懐妊しそうな娘や年寄が推す娘を、義務的に選んでいる自分がいた。